第3話 善き王となるために

「兄上!」


 玉座の間がある最奥の棟へ急ぐサフィルの足を、懐かしい、愛おしい声が止めた。

 振り向けば、沢山の護衛を従えて細長い回廊を走って来る者がある。


 サフィルの弟ミシェイルは真っ赤な顔をして、兵士を置き去り気味に全力で駆け寄り、そして唐突に立ち止まった。

 肩で激しく呼吸しながら、丁寧なお辞儀をする。

 やっと追いついた兵士もそれに倣い、第二王子の後ろで片膝をついた。


「お久しぶりです。国王陛下」

「……そうだな」


 既に聞かされているらしい。一夜でこの国の体制が変わってしまったことを。

 眼が覚めたら自室の周囲が厳戒態勢で、侵入者やら、嫁いで行った兄の急な帰国やら、父の譲位宣言やら。だいぶ混乱しただろう。


 サフィルは頭を下げたままの弟に近付き、ゆるりと腕を回して抱き寄せた。

 肩がびくっと震え、そのまま硬直してしまう。


「無事で良かった。怖かったろう?」


 少し赤みのある蜂蜜色の髪がサフィルの肩で軽く左右に揺れ、頭を振ったのが分かる。


 サフィルの記憶の中の弟より、実際のミシェイルはだいぶ大きかった。

 まだ子供っぽい顔つきをしているのに、体格は既に兄に追いつきそうなほど。

 いつの間にこんなに成長したんだろうと思うと、感慨深い。


 九つ年下のミシェイルが生まれた時、既にサフィルの帝王教育は始まっていて、遊んだり面倒を見てあげたりといった経験をしていない。

 年齢も、住む部屋も、周囲の待遇も、何もかもがかけ離れていた。


「陛下」

「……その呼び方はやめてくれないか」

「では兄上とお呼びしても?」

「もちろん構わない。私がこの国の王になろうと、別の国の王子の妃になろうと、お前の兄であることには変わりがないんだ」


 嬉しそうに一度、サフィルにぎゅっと抱きついてから、ミシェイルは体を離そうとする。

 サフィルは腕を解いた。

 少しだけ距離を置いて、弟がじっと、明るい翡翠色の双眸で見つめて来る。少し意外そうな、そして満足そうな表情で。


「どうした」

「兄上……とてもお優しい貌になりました」

「そうか?」

「僕に価値がないせいで、兄上だけがとてもつらい目に遭っていると、そう思っていました。でもアルス=ザレラの暮らしは、思っていたほど酷くないようですね」


 さすがに苦笑が漏れた。

 ロイの元に嫁ぐ前、サフィルもそう思っていた。どんな目に遭わされるのだろう、と。

 実際には誠実な主君の元で大切にされ、ほんの数日で誤解が解けた。だが連絡を取れずにいたため、弟は勘違いしたまま今日まで心配し続けてくれていたようだ。


 自分に価値がないから。

 二番目の王子では、外交の役に立たないから。

 何故か自分を追い詰めて。兄にばかり負担をかけていると、思い込んで。


 ミシェイルがそんな風に感じていたことを、サフィルは知らなかった。

 国を背負うべく厳しい教育を施されていたのは王太子のみ。弟は自由奔放、気楽にやっているものだとばかり思っていた。


「ミシェイル。お前は決して価値がないのではない。ただお前自身がまだ気付いていないだけだ。人の真価は血筋や肩書きのように目に見えるかたちでは存在していないのだよ」


 そんなものでしか人を測れない、かつてのサフィルのような、そして今のフランクのような、寂しい人間になって欲しくなかった。

 現在、第一王位継承者の王弟には、少々難しい生き方かも知れないが。


「僕にどんな価値が……」

「それはいつか、お前を心から愛してくれる人が決めてくれる」

「え?」


 全く理解できない様子の弟が、夏の始めの自分のようで、妙におかしかった。

 いつか恋をすれば、ミシェイルにも分かるだろう。

 愛する人が愛してくれる自分自身が持つ価値を。


「一緒においで。父上が心配している」

「はい」


 二人揃って、玉座の間へ向かう。

 騒動が一段落したことと、兄弟揃って無事だということを、報告するために。



 ***



 イゼルアの王城の中心部。最も堅牢で、最も絢爛な広間に、サフィルの両親と主君は待っていてくれた。

 三人とも立ったまま、談笑していたようだ。玉座を空けていたのは父の気遣いだろうか。


 衛兵に固く護られた王のための部屋は、全てが黄金色に輝いているように見えた。

 淡い黄褐色の縞模様がある砂岩の床が、窓から差し込む陽光をきらきらと反射しているせいだ。

 サフィルは目映い光の中、まずは父の元へ駆け寄る。


「ご無事で何よりです」

「心配してくれていたのか。これは驚いた」

「……父上、そんな」


 先の王は今まで見たこともない穏やかで優しい貌で、声を出して笑った。


「すまなかった。私はお前に、誰かを心配するような優しさを与えてやれなかった。お前が懸念すべきは国のこと。イゼルアのためなら私や——母さんやミシェイルや、自分自身さえ平気で犠牲にするような、そんな教育しかできていない。……そうか。心配してくれたのか。ありがとう」


 先の王が両手を新しい王の方へ伸べる。

 サフィルは父の手を包み込むようにそっと握り、膝を折り腰を深く屈めて額に押し頂いた。


「善き王になります。父上」

「その前に、善き人でありなさい。民は正しく導く者に付いて行く。お前の目指すものは未来にではなく、辿ってきた過去に在るのだよ」


 サフィルは頷いた。分かるような気がする。

 これから何をするかではなく、これまで何をしてきたかが、王の真価だ。高い理想を追い求めることに夢中になりすぎて、今を疎かにしてはいけない。


「立ちなさい。お前はもう誰にも膝を屈してはならない」


 老いた手が一度、サフィルの髪を撫でた。子供扱いするのはこれが最後だとばかり。

 何も言葉を返せなかった。思いが形にならない。

 困り果てて、サフィルは後ろでにこにこしているロイの方を振り向く。


「ロイ。父上に何を言った?」

「君の不利益になるようなことは何も」

「つまり何か言ったことは認めるんだな?」


 弟に父の順番を譲ってやり、母の手を取ってから、改めてロイの方を向く。

 サフィルの主君は機嫌が良さそうだった。眼鏡を壊されて悪い記憶の中で動けなくなっていた、少し前のロイではない。


 優しさというものは、彼の傍で学んだ気がする。

 確かにサフィルは非情な統治者であることを求められていた。そしてその生き方を受け入れていた。だから躊躇なく、自分を差し出した。


 それが当たり前だったから、なるべく誰も傷付かずに済むよう知恵を絞る、大国の軍総帥のあり方が新鮮だった。

 変える努力をせず、言われた通りに動くだけの自分を恥じた。


「そっちは全部終わった?」

「ああ。フランクは衛兵に預けた。向こうが先に手を出そうとしたので仕方がなくな」

「なるほど。そっか。じゃあ大使の権限が僕に移った訳だね。ということで——降伏する」

「はっ?」


 サフィルの声が裏返った。

 何を言われたのか、すぐには理解できない。

 言葉の意味は知っているのに、何故今それをロイが口にしたのか、全く分からない。


「何故そうなる」

「少し整理してみようか」


 ロイの口調がいつもの、難しいことを噛み砕いて教えてくれる時のゆっくり穏やかなものになった。


「アルス=ザレラ第六王子は南部諸国の側に寝返り祖国、ならびに同盟国イゼルアに牙を剥いた。うちの海軍が本格的に動いたという報せを受けて、自分が先に交渉して南に有利な形で決着をつけようとしたんだ。そして、その見返りとして運河の実権を握る算段だった」

「……ああ。それは把握している」

「けれども交渉は決裂。フランクは大切な同盟国で暴れて、捕らえられた。ということでこの、たった二人の使節団における全権は僕のものになったんだけど、僕にあいつの仕事を引き継ぐ意志はない。僕にとってはアルス=ザレラもイゼルアも母国だ。どちらも裏切るつもりはないし、そもそも第六王子に従ってはいたけど思想は違う。投降することで自身の潔白を証明したい」


 低い声でゆっくり語られる言葉を、ひとつずつ頷きながら聞く。

 ようやく理解できた。

 ロイが最初から、第六王子の計画を完全に終わらせることを目的として動いていたことが。

 これがロイの『出番』。


 新しい眼鏡を軽く直して、ロイは、さっぱりとした笑顔で宣言した。


「おめでとうサフィル。君の勝ちだ」

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