第9話 光の海図
運河の東側にある狭い海域には、二種類の灯台が設置されている。
岩礁などの危険な場所を報せるものと、安全な航路を指し示すもの。正反対の役割を担っているため、読み誤れば大事故に繋がる。
逆に言えばそのぶん、見分けが簡単につくよう工夫されている。読み方を知りさえすれば、一見無秩序な光の点が進路を差し示す海図に変わった。
大型の武装帆船で深夜にリンツ岬沖をすり抜ける。
右を見ても左を見ても、民家の灯は乏しい。星明かりだけでは海岸線が判別できず、地形の目視確認は不可。闇にぽつぽつ浮かぶ導灯を頼りに航路を探す。
おまけに真夜中を過ぎれば追い波になり、否応なく船に速度が出るため躊躇している暇がなくなる。的確な判断を即座に下し続ける必要があった。
この悪条件だらけの航海にも何故か心が怖じ気付くことはない。
導灯は必ず、対になっていた。
二つの火が真っ直ぐ重なるよう航路を取る。
別の導灯が見えてきたら、対の光が並んで見えた時点でそちらに進路を変える。
それをただ、ひたすら繰り返す。海峡の幅が広くなるまで。
喫水の深い武装帆船は、舵取りが少し早くても遅くても左右の岩礁にぶつかる恐れがあった。背を押す西流れがどんどん速くなっていく中、光を見落とさないよう皆で闇に目を凝らし続ける。
「冷えてきましたね」
掌で腕を擦りながらティルダが声をかけてきた。サフィルは頷く。
外出の支度などできなかったのだから仕方がない。防寒用の外套を羽織って書庫に向かえば、さすがに逃げ出す気満々だと気付かれて邪魔されただろう。
「灯台の火の読み方は覚えました。もう大丈夫です、お妃さまは船室内でお休みください」
「私だけ寛ぐ訳にもいかない。ここに居させてくれ」
「……分かりました。厚い上着を取って来させます。どうかくれぐれも、無理だけはなさらないで下さい。総帥閣下もそれは望みません」
優しい労いの言葉が胸に浸みた。
無茶をさせているのはこっちなのに。
「サフィルさま、お伺いしたいことが」
「何だ」
「何故、総帥閣下を追われるのですか」
船ひとつがアルス=ザレラ海軍の『分隊』であり、それを纏めるのがティルダ分隊長。つまり言い換えれば、航海時の彼女は船長だった。船を預かる者として、この危険な航海の理由を知る権利がある。
口元を硬く引き結ぶ彼女に、サフィルは何をどう説明すべきか迷う。何故かと問われても、サフィルにも明確な根拠がない。
行くべきではない、言われた通り大人しく待っているべきだ。そう思う自分も、確かに胸の中に存在している。
「それは……」
正直サフィルは、自分が急ぎ駆けつけたところで何かできるとは思っていない。
賢い者同士の駆け引きに首を突っ込めば逆に不利な要素となるだけだろう。
ただ——
「私が、私の正しいと思うことをしたい。それだけだ」
ロイは去り際、お互い自分の正しいと思うことをしようと言った。
サフィルはそれを『許可』と受け取った。
正しいと思うことを
だから、躊躇いはなかった。
無謀なことだと承知の上。妃として主君の傍に寄り添う、それがサフィルにとって何より正しい行いなのだから仕方がない。
「恐らく主君と父は何らかの約束をしていたのだと思う。それが果たされるべき時が来て、立ち会うために行ったのだろう。私は二人にとって妃であり息子であり、身近な存在のはずなのに二人から遠避けられ、護られている。それが耐えられないんだ。……こんな個人的な理由で、皆を巻き込んで済まない」
「いえ——」
船が不意に急な角度で舵を切ったため、二人同時に蹈鞴を踏んだ。
甲板に両脚を踏ん張って傾きに耐え、揺れをやり過ごす。
障害物を目視で確認できる昼間と違って、闇夜に浮かぶ灯台の光を辿るのだからどうしても航路が直線的になった。
「導灯の感覚が狭くなってきましたね。さっきから小刻みに進路が変わっています」
「つまり我々は海峡最大の難所に差し掛かった訳だ」
「ええ。真夜中にリンツ岬沖を航るなんて。……凄い」
ランプに照らされる分隊長の顔は、意外にも楽しそうだった。
海辺に生まれ、船に乗って育った彼女にとって、知らない航海術には恐怖より好奇心の方が勝つのだろう。
妃の命令にやむなく従っているのではない。自らの意志で暗い海を進んでいる。
***
全員で闇に目を凝らし、一度も岩礁に乗り上げることなく危険な海域を抜けた。
海峡の幅が広くなれば船は帆を張り、風をも味方に付けて更に速度を上げる。
眠ることなく。休むことなく。
未明の南北海峡を切り裂くように、最速の船は西へ走る。
ロイの父、サフィルにとって義父にあたるアルス=ザレラ王弟殿下、軍大元帥閣下の『見栄』に、サフィルは素直に関心した。
この船と勝負して勝てる技術は、どこの国も持っていないだろう。
それに、船乗り達の働きが素晴らしかった。
これまで港の手伝いをしている姿しか知らなかったが、彼らは確かに軍人だった。闇を恐れず漕ぎ出す胆力を持っている。
船は朝に追いかけられるように西へ急ぐ。
眠くなどなかった。休みたいとも思わなかった。
「どうやって着岸しましょう」
じきに運河が見えて来る。暗いうちに着ければと思っていたが、それは流石に無理だった。
朝日の中、疲れた様子もなく元気な分隊長がサフィルに意見を求めた。
「運河の中に南の武装船がいるとの情報が入っています。こちらは戦艦、近付いただけで敵意があると取られ、砲撃されるでしょう」
「なるほど。ロイがわざわざフランクの船を利用したのは、そういう理由か」
「我々は撃沈されることなど恐れません、しかしサフィルさまを安全に岸へお運びする手段が」
「……いや、船も命も大事にしてくれ。そう約束しただろう?」
血気盛んな女性隊長がはっとした表情になる。
忠烈すぎて命を軽んじるのは、彼女達の悪い癖だ。
「では時間を大幅に逸失しますが、ひとつ手前の港でお妃さまのみ——」
「このまま行く。良い考えがある。操舵手と砲手を呼んでくれ」
「まさか先制攻撃なさるおつもりですか!? 民間船と、お妃さまの国の警備艇もいるのですよ! 我々が先に手を出せる訳がありません!」
「分かっている。大丈夫だから、急いでくれ」
一晩、共に危険を乗り越えたからだろうか。ティルダはだいぶ緊張がほぐれたらしく、感情豊かに喋るようになった。
お喋りに付き合っていたかったが、最速の船はこうしている間にも運河へ近付いている。
サフィルは命令を聞くため集められた砲手と操舵手に、手短に指示をした。
このままぎりぎりまで近付き、運河の手前で右に舵を切って北岸にある水路へ飛び込む。
と同時に、左舷の大砲で運河の中心に向けて空砲を撃つ。
「それが……良い考え、ですか」
怪訝そうなティルダに、サフィルは僅かに口角を上げてみせた。
「空砲を撃って、何が起きるんです?」
「起きるのではなく、
朝日に背を押されながら、アルス=ザレラの武装帆船は再び狭くなっていく海峡を、追い波に任せて突き進む。やがて人工的な石積みの護岸が見えてきた。二つの大陸の接する場所に伸びる二本の直線。イゼルアが護ってきたもの。これからも護り続けるべきもの。キルスティン運河が。
船乗り達は良く訓練された動きで、サフィルの命に正確に従った。
鋭い角度で北岸へ切り込み、運河の入り口手前にある埠頭へ船首を向ける。
と同時に連続で鳴り響き、びりびりと空気を震わせた砲声。
運河の中での睨み合いに参加していた南側の武装船が、こちらに気付いた。
が、何もできなかった。
音に驚いて一斉に飛び立った海鳥が運河を真っ白に埋め尽くし、彼らの視界を遮ったからだ。
向こうの船は動けなくなり、仕掛けたティルダ側さえ呆気に取られている。
サフィルは珍しく、小さな笑い声を零した。
翼を休める渡り鳥を驚かせて船の邪魔をする。子供の頃の悪戯を、まさかまたやるとは思わなかった。
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