第10話 絆は悪夢を切り裂いて

 砲声はロイの耳にも届き、意識を忌まわしい過去から現実へ引き戻した。


 眼鏡を壊されて一歩も動けないのに、知らない人に体を触られると記憶に引きずり込まれるため、どこか休める場所に案内してもらうこともできない。

 衛兵達に退がってもらい、一人ただ立ち尽くすだけのロイを、その音は、闇から掬い上げた。


 いよいよ運河で本格的な武力衝突が始まったのかと、最初は思った。

 が、不思議なことに応戦する気配がない。撃ち返す音が、いつまで待っても聞こえない。


「サフィル……?」


 根拠はなかった。

 ただ何となくそんな気がした。——イゼルアの王が城へ帰還されたに違いない。

 夜明けを告げる号砲と共に。



 ***



「ロイ!」

「……サフィル」


 どのくらい待っていただろうか。

 この場にいるはずのない妃の声がようやく聞こえ、予感は確信へと変わった。

 役立たずな眼に、姿はまだ見えない。だが確かに愛おしい声と、快活な足音が聞こえる。


 待つことしかできないロイに、サフィルは全力でぶつかって来た。

 互いに互いを力強く抱きしめる。頭半分ばかり背の低いサフィルの髪に頬を埋め、背中と腰に腕を回し、全身でその存在を感じ取る。

 サフィルの両腕はロイの首に回り、手は後頭部の髪をぎゅっと掴む。


 しばらく固く抱き合った後、ほんの少しだけ体を離した。

 サフィルは、眼鏡がないロイに顔を見せてくれた。鼻の先が触れるほど至近距離で視線を交わす。

 それから自然に唇が近付いた。最初は優しく触れる程度。次第に、しっとりと深く。互いの魂を舐め合うように。会えない一日の間に心に生まれた空白を埋めるように。


 回廊の端から複数の足音が近付き、立ち止まり、去っていった。イゼルアの兵は気が利くようだ。

 サフィルは気にも留めず、熱心にロイの唇を食む。ロイもしばし、サフィルを補充することに集中した。


 咬み合うような接吻けの後。

 ようやく体を離して落ち着いて話ができるようになった。


「大丈夫なのか? 妙な発作を起こして動けなくなっていると聞いたが」


 ずいぶん失礼な言い回しだ。

 ロイは笑いを漏らし、そして、笑えるようになるほど癒されたことに深い感慨を覚えた。

 ほんの数瞬、この腕に抱きしめてキスをするだけで、十数年苦しみ続けた記憶から解放されるのだ。愛する人の持つ力は偉大だ。


「少し、昔のことを思い出してしまって」

「……そうか」


 それ以上詮索しない優しさを、ロイの妃は持っている。ただ黙って後頭部をよしよししてくれるだけ。

 隠しごとはしても良いという約束だった。言いたくない素振りを少しでも見せれば、サフィルはそこで慎ましく引き下がる。

 きっと、待っていてくれるだろう。ロイが自ら進んで話せるようになるまで。


「君が来てくれて良かった」

「お前がそう仕組んだのだろう? 私をここへ誘導した」


 答えず、サフィルの頬に触れる。少し体を離せばぼやけて見えなくなってしまう大切な妃の表情を、手探りで読み取ろうと。

 その手に、サフィルが手を重ねて一度強く握り、頬から引きはがして、掌に何かを押しつける。


 その手触りは良く知っていた。

 だからこそ本気で驚いた。


 どうしてサフィルが、これを持っているのか。


「僕の眼鏡……」

「預かっていた。お前は市民に愛されているな」

「まさか。信頼されているのは僕ではなく、歴代の城主が積み上げた実績だよ」

「そんなもの一瞬で壊れてしまう。お前が誠実でなければ、いくら先代までが良き城主だったとしても」


 ロイは眼鏡を鼻に乗せた。

 いつもの、金銀細工職人が手がけてくれたもので間違いない。彼女には子供の頃から世話になっている。

 専門外のことだけに、祖母に頼まれて眼鏡作りを始めた時はかなり苦労したようだが、今ではまるでロイと同じ世界が見えているかのように、完璧なものを作ってくれる。


 これでようやく、サフィルの顔が見える。

 微笑み軽く首を傾げる妃の肩口に、銀細工の耳飾りが揺れていた。


 二人の生活が始まったばかりの頃。本当に心から妃を愛するようになる前、結婚というものがまだ良く理解できなくて、形だけでも夫婦の真似をしてみたくて贈ったものだ。

 それが、自分が常に身に付けている眼鏡と同じ職人が手がけたものだったのは、そのくらいしか思いつかなかったから。


 人は意外なかたちで接点を持ち、繋がっていく。

 いつどのようにして、サフィルはあの職人と会ったのか。何故彼女は、サフィルにも眼鏡を渡したのか。

 ロイの目に見通せないことは多い。


 ふとサフィルの手が、精緻な鎖を握りしめていることに気付いた。意識をそちらに向けると、指を広げて、それを見せてくれた。

 眼鏡に付いていたものと思われる鎖とピン。そこには、見覚えのある『幸運の花』があしらわれていた。


 ロイにとって必要不可欠なものを、パウリナの針が、サフィルの服に縫い留めていた。


「……信頼されているのは君の方だよサフィル。僕が頼りないから、君が予備を持っているよう頼まれたんだろう?」

「では言い換えよう。お前は市民に心配されている」

「不束な城主だとは思うよ。戦争のことを考えるんなら得意なんだけど」


 戦争の言葉に、サフィルの貌がぎゅっと引き締まった。

 その様子にロイも、過去の記憶に囚われて忘れていた現在を思い出す。サフィルをずっと愛でていたかったが、そんな余裕はない。


「サフィル、状況を教えてくれないか」

「戻ってまず、早朝やって来た隣国の大使が城内で不審な動きをしていると報告を受けて、城を封鎖するよう指示した。弟の部屋の護りは固めてある。それから、お前を優先したから国王陛下の様子はまだ分からない。私が知っていることはこれだけだ」

「なるほど。僕が『妙な発作を起こしている』間にうまくやってくれたようだね」

「……意外と根に持つんだな」

「そうだよ。だから十五年前の悪夢に今も苦しんでいる」


 ロイは前髪に指を通した。

 サフィルの言葉から理解の足りていることと、足りないこととを判別する。

 どうやら、サフィルは一番肝心なことをまだ知らない。


「サフィル。落ち着いて聞くんだ。陛下は無事だ。ただ——譲位を宣言された」

「は? ……それは、どういう」

「この国の最終的な決定権を、君に移譲したんだ。今、この国の王は、君だ」

「譲位……父上が……。フランクに不用意に言質を取られないように?」


 はっきりと頷いて、肯定する。

 いつもながら、サフィルは理解が早い。説明にかける時間が短くて済む。

 自身がいつの間にか国王となっている現実を、混乱しながらもしっかり飲み込もうとしている。


「私はどうすれば良い?」

「フランクを捕まえるんだ。君にしかできない。僕が介入すればあっちの国で後々面倒なことになる」

「どんな状況でも格上の王族への造反は認められない、と」

「王子を従わせることができるのは王、つまり君だけだ。君に託す。……ごめん、こんな酷い戦略で」


 サフィルは即座に頭を左右に振って否定してくれた。


「それでお前は」

「僕の次の出番はもう少し先。父上と共に、君が戻って来るのを待っているよ」


 まず驚いて、それから照れ臭そうに笑う、サフィルの表情。

 ロイが何気なく言った『父上』が自分の父親のことを指していることに驚き、照れたのだろう。

 つんと澄ました冷たい王子、という初対面の印象は間違っていた。サフィルはこんなにも表情豊かで、情熱的で。愛情深く、勇敢で、決断力と行動力がある。


「では玉座の間で陛下と共にいてくれ」

「分かった。——サフィル」

「うん?」

「僕は君を誘導していない。できる訳がない。君自身が考えて、動いて、道を見付けたんだ。僕にできたのはただ……君を信じることだけだよ」


 信じて待っていた。

 それが全てだ。


「光栄だ。我が君」


 力強く微笑み、サフィルは元来た道を引き返して行った。

 この混乱を終わらせるために。


「僕の方こそ。我が妃。君と知り合えたことを、何より誇りに思う」


 もう聞こえるはずのない返事を呟く。

 それから鼻の上の眼鏡を指で挟んで位置を整え、気を引き締めた。ロイにはもうひとつ仕事が残っている。






— 第六章 了 —

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