第8話 運河の国に座す者

 イゼルアとアルス=ザレラの関係は対等なもののはずだ。

 自分が今、対峙している情景に、ロイは胸が潰れるほどの申し訳なさを感じていた。


 ここは王の寝室。

 イゼルアの王がベッドに半身を起こしており、王妃が労しげに寄り添っている。

 王としての尊厳を取り繕う暇も与えず、私室に押しかけ、叩き起こす。フランクの行動は横暴そのもので、誠意が全く感じられない。

 それでも王は寝室の周辺から兵を退がらせ、二人の王子に誠実に向き合ってくれていた。


「朝早く失礼。国王陛下。もう時間がありません。じきに兄達の軍艦がここへ来て、運河に詰まっているものを武力でもって排斥するでしょう。戦争が始まってしまった後では取り返しがつきません」


 滑らかにフランクは語る。

 王に決断を促す。

 まるでアルス=ザレラこそが運河を破壊する真の脅威だとでも言わんばかりに。


 ロイはただ、願っていた。

 策士にも他人の心までは操れない。相手が取るであろう行動を推測しているのみ。当然外れることもある。

 義父が正しい——ロイの願い通りの行動を取ってくれる確証はない。


 訪れた重い沈黙の中ふと、サフィルがどちらかと言うと父親似だと気付いた。イゼルア王は流石に歳を重ねて皺が刻まれていたし、寝起きの疲れた頬をしてはいたが、それと分かる整った顔立ちをしている。

 それに、厳格さと穏やかさを兼ね備えた、揺るぎない表情も。

 母親からは海を思わせる青い眸を受け継いでいる。


 これまでのやり取りで、王が思慮深く分別があることは既に知っている。

 あとは、信じた。


「私に何をしろと」

「南への降伏。それだけです。我が国による総攻撃を防ぐには、あなた方が運河を放棄する以外にないんです」


 フランクの作り話は、まあまあ良くできていた。

 呆れながら、ロイは黙って待つ。愛する者の父親が正しい道を選ぶことを。


「……そうだな。では宣言しよう。君達二人が証人となってくれ」


 心配そうに腕に手を置く王妃に微笑みかけてから、王はゆっくりと、目の前にいる隣国の王子に順に視線を遣った。

 勝ち誇った笑みが抑えきれないフランクと、硬い表情で成り行きを見守るロイに。

 そして。


「私はここに——」


 王はゆっくりと口を開く。


「——譲位を、宣言する」


 その重い言葉を、フランクはすぐに理解できなかったようだ。


「我が息子サフィルに、イゼルアの王として私が持つ全ての権限を譲る。そして、新たなる王に心からの忠誠を誓おう」

「いや、ちょっと、待っ」

「ということで、折角ご足労いただいたのに申し訳ないが、引き返してエルデ城市にいる息子に伺いを立ててくれないか。もっとも、あれは私以上に頑固だ。説得には骨を折ると思うが」

「それじゃ間に合わない! 兄貴達が着いたらもう……!」


 慌てるフランクを尻目に、王はロイに微笑みかけた。


「これで良いかな。私達の新しい息子」

「上出来です。父上」


 ロイは頷き返した。

 勝ち、だ。

 この戦略における最大の難点を今、クリアした。


 思った通り王は賢明だった。

 この場にいない人物に王位を譲り、手詰まりな状況を覆してみせた。

 もし彼が、己の権力にしがみつく浅はかな人物であったなら。——ほんの僅かでも義父を疑ってしまったことを、ロイは恥じた。


 王はロイを信じて、託してくれたのに。サフィルを。この国の未来の全てを。


「……そういうことか。最初からそういうことだったんだな?」

「何が」

「惚けるなよ。最初からここには決定権がなかった! あそこだ! お前の城に! お前が匿っていた! 全てはお前の、掌の上だったんだ!」


 ごく薄く、ロイの頬に笑みが浮かんだ。


「南の勢力が運河を脅かしている。だから手を貸す。それだけだよフランク。……それが僕の意志であり、つまりアルス=ザレラの決定なんだ」


 全ては運河の均衡を取り戻すため。

 万一の武力行使に備えて王太子を国外に退避させる意図は、もちろんあった。ついでに婚姻という形を取って、二国間の絆の象徴とした。

 サフィルに本当に恋をしてしまったのは想定外だった。お互いに割り切ったままでいられるだろうと思っていたのだが、共に暮らしているうちに心が近付いたのは成り行きだから仕方がない。


 ただもし愛することが作戦の成功に不可欠な要素だったのだとしたら。

 運河の国の『王』に気に入られなかったフランクの野望は、最初から終わっていたのだ。


「第二王子はどこだ? もう一人いたよな、王位継承権を持っている子供が」

「やめるんだフランク。無駄だよ。何をしても、イゼルアは君のものにならない」

「お前に何が分かる」

「分かるよ。僕が立派な肩書きを持っているのは単に幸運だっただけで、君に居場所がないのは——君が欲張りすぎたからだ」


 フランクはロイの言葉に耳を貸さず、ひと睨みして王の寝室を飛び出して行った。

 義理の父母に深く礼をしてから、ロイも後を追う。


「フランク!」


 広い廊下。早朝で薄暗い上に、初めて訪れた場所。見えないという恐怖を振り払い、ロイは全力で追う。フランクの足音を頼りに。

 呼び止めればずっと先の暗がりで第六王子は立ち止まり、振り向いた。

 ロイはフランクの元へ駆け寄る。


「どう転んだって君に勝利はない。もうやめるんだ」

「いいや。まだあるさ。王位を弟に譲るよう、お前からザフィルに言ってやれ。あいつの頭じゃ国王の——」


 咄嗟に。

 ロイはフランクの腕を掴んでいた。


「僕がどう言われようと構わないけど、妃の侮辱だけは赦さない」

「だったらどうだって言うんだよ。お前は俺に逆らえるのか? このが」


 上背はロイの方がある。が、力では負けた。

 掴んだ手を払うべく大きく振られたフランクの腕が、ロイの顔を掠める。

 と同時に、視界に濃い霧がかかった。


 良く磨かれた石の床に、かつん、と小さな、絶望的な音がする。

 ロイはその場に膝をついた。


 何も見えない。

 

 フランクが声をあげて笑っていた。

 次に聞こえたのは、ガラスの砕ける音。


「可哀想にな。こんなものがないと、歩くこともできないなんてさ」

「……フランク」

「知らない場所で、暗くて、さあお前はこれからどうする?」


 楽しそうな声と共に、ロイの眼鏡を丁寧に踏み躙る、ざらついた音が聞こえる。

 それから近付いてくる足音が複数。重そうな金属音がしているということは、この城の衛兵だろう。


「お前達。こいつを助けてやれ。具合が悪いそうだ」


 駆けつけた衛兵に、フランクが指示する。

 違う、こっちは構わないから、あいつを止めてくれ。あいつは危険だ。

 そう言ってやろうとしたが、労しげに兵士の手がロイの背に触れた、刹那。

 どくん、と、心臓が激しく跳ねた。


「触るな!」


 ロイは反射的に、その手を振り払っていた。


 ——もっと強く抑えろ!

 ——畜生、なんで気付いたんだこいつ。

 ——いいから早くやれ!

 ——痛ぇ! このガキ、噛み付きやがった!

 ——殴るなよ。変な傷が付いてたら疑われるだろ。こいつは今から『病気』になるんだから。

 ——くそ暴れんな! じっとしてろって言ってるだろ!

 ——ほら大人しく口を開けろ。これを飲んだら皆に会えるぞ——


「ああ……すまない。申し訳ない。体を触られるのが苦手で」


 知らない人間が体に触れる感触に、あふれ出す記憶。

 全身を抑え付けられ、髪を強く掴まれ、口をこじ開けて酷く苦い何かを喉に流し込まれる。

 ロイを捕らえて離さない、記憶。


 違う。違う。現実なんかじゃない。あれは夢だ。

 高熱に浮かされて見た悪夢だ。

 母さんがそう言ったじゃないか。

 その言葉を信じると決めたじゃないか。


「僕は大丈夫。早く両陛下を安全な場所へ。それから王子も」


 震える脚で立ち上がり、ぼんやりと見えている人影にそう告げる。

 ぱらぱらと廊下から人がいなくなっていく気配。

 何人かは残ってくれたが、差し出される手は全て拒否した。お願いだから、触らないでくれと。


 ロイは外套の身頃で顔を覆い、深呼吸した。僅かに残る幸運の花の香りに必死に縋り付く。

 大丈夫。あれは記憶だ。ただの記憶で、今ここで起きた現実ではない。そう己に言い聞かせる。


「サフィル」


 そして、最も心が求める者の名を口にした。


「サフィル。……サフィル」


 ここに居て欲しい。

 君がいなければ、一人で歩くことさえできない。

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