第4話 正しいと思うこと
眼が覚めた時、ベッドにロイの姿はなかった。
フランクが早起きしているとは思えない。きっと手紙を読みに降りたのだろう。王都の方の動きも慌ただしく、総帥としての仕事が増えているから仕方がない。
二人でいることを覚えたら、城主の間のベッドは広すぎる。寂しさを感じ、サフィルはころころと寝返りを打ちながら朝を待つ。
「おはようございます、お妃さま。お支度をさせていただきます」
朝日が眩しく部屋に差し込む頃、使用人達がやってきた。
いつも通りサフィルの身支度をしてくれる。いつも通りの朝だった。熱い湯と冷たい水、それに襟元と手首が詰まった内陸風の意匠の服が目の前にてきぱきと用意されていく。
妃を美しく保つ仕事に誇りを抱いている職人達に身を任せつつ、サフィルは昨夜のことを思い返していた。
頭の中を丁寧に整理しながら。
ロイを運河まで引っ張って行くことに、どのような意味があるのだろう。確かに軍の頂点に近い存在だが、フランクにロイがうまく操れるだろうか?
フランクは王の息子、直系の第六王子だけあって駆け引きは上手で、巧妙な嘘をつく。とは言え頭の良さなら確実にロイの方が上だ。ロイを騙して利用するのは、さすがに無謀としか言いようがない。
騙すのではなく、無理矢理従わせることなら可能だろうか。もし、フランクがロイの弱みを握っていたとしたら? ロイは賢いのに性格的に隙だらけな所があるし——
「お妃さま。旦那さまとフランクさまが発たれます」
珍しく支度中にノックの音が聞こえ。
にわかに意味を把握できないことを告げられた。
サフィルは己の姿を見下ろし、人前に出ても良い程度に整っていることを確かめた上で、部屋を飛び出した。
回廊を巡って東翼へ、転がるように走る。
「ロイ!」
玄関の間を吹き抜けから見下ろせば、旅の支度を調えた二人の姿があった。
アルス=ザレラ第六王子フランク。王甥ロイ。
見慣れない長外套を羽織ったロイがこちらを見上げ、微笑む。
「やあ。おはようサフィル」
「ちょっと待て。どういうことだ」
「何だ、ちゃんと話をしていなかったのか。少しの間、ロイを借りますよ。必ず迎えに来ます、待っていて下さいザフィル」
「君は少し黙っててくれるかな。——サフィル、こっちに」
玄関正面の大階段を下りたところで、ロイが近付いてきてフランクから距離を取る。
従兄弟は付いて来なかった。
ロイを連れて西へ行く作戦が思い通り捗り、今更サフィルが首を突っ込んだところで覆ることはないと思っているのだろう。
「ごめんね。安全なうちにリンツ岬を抜けたいから、早朝の出立になってしまった」
「謝るべきところは、そこではないだろう」
「うん。……分かってる。戻ったらちゃんと叱られるから、今は黙って行かせて欲しい。大丈夫、うまくやる」
革手袋をはめた両手が、サフィルの手を握る。
表情はいつも通り優しく、特別に悲壮感は漂っていない。
どうやら策士には既に、従兄弟の陰謀を逆に利用する方法が見えているようだ。
「何か考えがあるんだな?」
「今朝の手紙で、情勢が変わった。これは、僕が先に行った方が都合が良い」
先に、の言葉で理解した。
アルス=ザレラが本格的に動いたのだと。
しばしば軍事大国は、若くて立場の低い総帥の決定を無視して動く。それも、ロイより上に立つ父親の、少しずれた愛情表現なのだから余計にたちが悪い。
止められないから先に動く。
理解はできた。だが納得はできない。
「私も行く」
「だめだ」
「イゼルアは私の故郷だ」
「だからこそ君がいちゃいけない。分かるね。これは君の父上との約束なんだ」
卑怯な手だ。サフィルが唯一逆らえない存在を引き出されては、それ以上の我儘が言えなくなる。
思わず俯いてしまったサフィルの頭に、こつん、と、ロイが額をぶつけた。
「これからは自分が正しいと思うことをしよう。君の父上は、君をイゼルアから離すことを。僕は君をこの城に閉じ込めることを。城の兵士は城主の命令に従うことを」
「私は……」
「君も君の正しいと思うことをするんだ。僕の言うことを聞くか、それとも」
意味ありげに微笑み、ロイはサフィルの頬にキスをした。
「行って来るよ。我が妃」
「……航路に良き風の吹かんことを。我が君」
「それがイゼルア流の、旅立ちを見送る挨拶? 素敵だね。君の道が開け、追い風が吹くことを祈っているよ」
するりと、ロイの体が離れていった。
二人が城を出て行く。
扉が閉まり、跳ね橋を操作する音が聞こえ。
サフィルはエルデグランツ城に閉じ込められた。
この状況に——
「分かった。では私は、私の正しいと思うことをするまでだ」
——サフィルは、燃えた。
***
海に突き出すエルデグランツ城の特徴は、美しさだけではなかった。
予想以上に堅牢なのだ。
南翼のバルコニーの手すりから身を乗り出し、足場ひとつない断崖を見下ろして、サフィルはここが北部大陸有数の古城だということの持つ意味を改めて理解した。
内陸国の侵攻に無抵抗で開城したため、破壊されることなく残された古の要塞。
高い壁で囲まなくとも、海と空が人を拒む。開放的なようでいて、実は完全に囲まれた密室だった。
分かってはいたものの、衛兵は城主の方に忠実だった。外に通じそうな場所は全て固められ、命令しても頼み込んでも通してくれない。
そして、兵が固めていない場所からはどう考えても出られない。
空が茜色に染まる頃まで頑張ってみたが、どうやっても城を抜け出すことができなかった。
「私は……どうすれば良い……」
肩を落としつつ部屋に戻り、ベッドに腰掛けてため息を吐く。
ふと、脇机に置きっぱなしの古い本に目が留まった。
魔女の薬学書は、かつて重宝されたのだろう。小口が黒ずんでいる。この城に住む者が熱を出す度、怪我をする度、幾度も引いた親指の痕跡。それが積み重ねられた一族の愛情の証のように思えて、愛おしい。
「……書庫……」
ロイを救ったであろう本を取り、胸に押し当てて、決意を固める。
ガラスのランプに暖炉の火を移し、部屋を出る。当たり前のように兵士が後に従う。昨日までは付いていなかったのに。
城主が留守の間、妃に護衛が付くようだ。余計なことをと思うが、それがロイにとっての『正しいこと』なら仕方がない。
無視して早足に西翼へ向かう。
「そこで待っていてくれ」
ぴたりと踵に付き従う番犬のように忠実な兵士を廊下に待たせ、書庫へ入る。
そして閂をかけた。
重い音が存外大きく響き、鼓動が速まる。とても『良くないこと』をしているような、そんな無邪気な高揚感に胸が躍る。
おかしなものだ。子供の頃だってこんな風に、心が弾む冒険をした経験なんてないのに。
扉の外が少し騒がしい。ふと自然にサフィルの口角が上がる。
まず薬草の本を元の位置に戻した。
それから、改めて書庫を見渡す。
吹き抜けの二階まで書棚に埋め尽くされた知識の海は、本の劣化を防ぐため陽光が直接入らない構造になっていた。夕暮れも近付き、薄暗い。
「さあ、姿を現せ。エルデグランツ城の秘密とやら」
ゆっくりと、おおらかに。
シャツの手首のボタンを外し、袖を折り上げながら、書庫の通路を歩く。
「私の眼なら見えるはずだ。暴いてやるから覚悟しろよ」
ロイは、手元と遠くはそこそこ見えている。眼鏡が合わないのは『中くらいの距離』だと言っていた。
不自由な眼が見落としそうな場所を探しながら、書棚の間を移動する。
最初から分かっていたのだろう。
いつかサフィルが城を抜け出したくなる時が来ると。
だから話しておいてくれたのだ。書庫の謎を。
目が悪いせいか、それとも祖父母が気をつけていたからか。ロイ本人には見付けられなかったようだが、必ずある。
徹底した論理的思考の持ち主であるロイが、例え子供の頃の話とは言え、サフィルに根拠のない幻想を教えるとは思えない。
サフィルはランプを掲げた。
天井に不自然な痕跡を見付け、目を凝らす。
ちょうど何かで擦ったような——
「……見付けた」
その瞬間。
サフィルの道が、開けた。
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