第六章 双つの花を羅針に代えて

第1話 招かれざる従兄弟たびたび

 初対面からずっと、ロイの印象が安定しない。

 幾つもの顔を持っているせいだ。


 拘りが強く内気な性格に、王族らしからぬ心の弱さが垣間見える。

 だが軍総帥の横顔は間違いなく、大国の王甥として多くの闇をくぐり抜けてきた者のそれだった。

 どちらが本当のロイなのか、サフィルには分からない。


「……何?」

「いや。何でもない」


 食事中うっかり手を止めてロイの顔を見つめていた。

 魚介のスープを胃におさめることに集中していたロイが気付いて不思議そうにしている。


「僕は美味しいと思うけど」

「……もちろん。私もそう思う」


 察しの良い主君のことだ。妃がスープの味に首を傾げている訳ではないと、当然分かっているだろう。

 サフィルの胸中に渦巻く不安は、エルデの冬の伝統料理に関してではない。

 ロイは全て察した上で、敢えて見当違いなことを答えている。場の空気を悪くしないように。

 サフィルは口角を上げてみせ、黄金色の澄んだスープに向き合う。食事中に難しい話をしたがらないロイのためにも、ここは、話題にしない方が良いだろう。


 キルスティン運河は今も塞がれたまま。

 つまり北部大陸には貴金属や嗜好品、南部大陸へ穀類が、入ってこない状態が続いている。

 なくても困らない贅沢品を輸入している北部と違い、南部は荷の遅れが命に関わるのだからどう考えても分が悪い。何故こんな愚かな手を打って出たのか、皆目分からない。


 運河は無事なのか。両親と弟は。運河を挟んで暮らすイゼルアの民は。

 自分だけ安全圏に逃れ、護られながら、ただ心配するだけ。


 ——何も、できない。


「心配だよね」

「ああ、ええと、すまない。食事中に」

「この状況で平然としている方が逆におかしい。謝罪するようなことではないよ」


 そんなに憔悴しているように見えたのだろうか。

 サフィルは深呼吸し、目の前の食事に向き合った。この地方の冬の定番料理だというスープは、堅めのパンと良く合った。

 この期に及んでエルデ城市の料理は美味しい。たまに供される内陸の料理も嫌いではないが、長く滞在することを思えば舌に馴染んだ故郷の味に近い方が好ましい。

 ロイの城が海辺にあって良かったと思う。


「君は多分、祖国が危険な状況なのに自分だけ安全な場所で美味しいものを食べているのが申し訳ないとか、そういうことを考えているんだと思う」

「……その通りだ」

「でも君は大切な使命をもってここへ来た。もし君が二国を結ぶ役目を拒んでいたら、運河は今頃どうなっていたか。考えてみたことがある?」


 サフィルは、想像力が豊かな方ではない。

 粛々と現実を受け止める質だった。叶いもしない夢をみたり、ありえない未来を思い浮かべたりする無駄を極力省いて生きてきた。

 だがそんなサフィルでも、アルス=ザレラ軍総帥の要請を拒否すべきでないことは分かった。イゼルアに南部大陸諸国連合を押し返すだけの力がない以上、アルス=ザレラの力を借りられなければ、祖国は侵略され地図上から消え失せる。


 だからここへ来た。

 サフィルの残念な想像力では『捕虜もしくは人質』として。

 実際には、王子同士の婚姻というより強く——そしてより平等な絆を結ぶためだったのだが。


 ロイが穏やかに微笑んだ。


「君がいてくれるお陰で、うちの海軍を動かせた」

「運河のために?」

「最初からそういう約束だったよね」


 サフィルは頷いた。確かにそうだ。

 これは、本来は口出しできない『他所の海域』にアルス=ザレラが介入する大義名分としての政略結婚だった。

 イゼルアはアルス=ザレラ王族の、それも他ならぬ軍総帥の妃の祖国。平和が脅かされているのなら、護るために立ち上がる。


「手紙だとどういう訳かみんな少しずつ言ってることが違うんだけど、総合的に判断して、従兄弟姉妹の中でもな二人が動いた」

「まとも?」

「そう。一人は完璧に優秀。もう一人は……まあまあ優秀な方。最近ちょっとヘマをして、これを名誉挽回に利用しようと思っているっぽい」


 少し前に現れた『まともではない』従兄弟が、自身の兄の勘違いを笑い話にしようとしてロイに雑にあしらわれていた。

 あの親族のことだろうか。何をしでかしたのかまでは聞いていない。


「二人には、何をすべきか何をしてはいけないか、総帥としてちゃんと指示した。その上で、アルス=ザレラの代表として動いてもらう。事態の収束において、君の国に迷惑をかけることはないと思う。僕達でなんとか終わらせるから、安心して」

「私にできることは何かないのか?」

「僕の妃でいることが、君の役目だよ」

「ただの詭弁だ。私はここから一歩も動けない。何の役にも立てない」


 ロイがゆっくりと頭を左右に振る。


「僕の人生において君ほど役に立ってくれている人はいないよ。……両親とかは除いて。だからその……何て言うかな。もう聞き飽きているかも知れないけど、どうか僕を信じて、君は君の役目を頑張って欲しい」


 その眸があまりにも誠実だからこそ。

 それ以上、何も言えなくなる。


「分かった。お前を信じるよ」


 総帥は運河の有事に際し、軍を動かすことを躊躇っていた。

 イゼルアの港に置く海軍の船があまりにも強そうだったことに頭を抱えてもいた。

 だが相手が実力行使に出た以上、相応の手を打つ必要がある。


 海軍が動いた。

 とは言え、どう動くのか具体的な話はしてくれない。

 少なくともロイがあれほど避けたがっていた軍事介入を指示したということは——


 いよいよ本格的な戦争が始まると受け取って間違いないだろう。



 ***



「サフィル、覚悟しておいて欲しい」


 突然だった。

 かつて見たこともないほど真剣な貌で唐突にそう切り出すロイに、サフィルはごくりと息を呑む。


 運河が分断されて既に十日以上。遠い祖国で何が起きているのか詳細が分からず気を揉むだけの日々が続いている。

 何の『覚悟』を求められているのか。心当たりが多すぎてどれだか分からない。


「……どうかしたのか」

「良くない報せだ。——最悪の状況かも知れない」

「詳しく」


 ここでひと呼吸置いたのは、己を鎮めるためか。それともただ勿体を付けただけか。

 サフィルはロイの言葉を待つ。


「頭が二つある黄色い鷹の旗を掲げた船が見えたらしい」

「……え?」

「港へ向かってきている」


 双頭の黄鷹。

 さんざん、エルデグランツ城と城主と妃を引っかき回したあの人物の紋章。


「フランクが? 何をしに?」

「それはもちろん、この非常事態に首を突っ込むためだろう。て言うか今回のこれ、あいつが黒幕だと思う」


 まさか、と、サフィルの声は声にならず唇だけがそう動いた。

 まさかロイが警戒していた『頭の良い人物』は、フランクだったのだろうか?


 ロイ曰く賢くない、とのことでそう思い込んでいたが、それは単にロイが他人より秀でているだけかも知れない。ロイから見れば少々賢い程度の人間は平凡に思えるだろう。

 フランクは仮にもアルス=ザレラの王族、それも国王陛下の直系の息子で王位継承権は四番目と高い。それなりの教育を受けているはずだ。


 同等の教育を受けた相手だからこそロイは、姿の見えない敵の参謀に危機感を抱いたのではないか。

 サフィルには理解できない高みにおいて、近しい存在だからこそ分かるある種の恐れを感じたのではないか。


「最初から計算だった、という訳か」

「正直、あいつを見くびっていたみたいだ。下半身でものを考えているとばかり」


 敵とは言えあまりの言われように思わず苦笑してしまう。

 少なくともサフィル目当てで絡んでいた訳ではないことくらい、最初から分かっていた。別の目論見があるはずだと。


「船はいつ着くんだ」

「もうすぐ」

「では急いで港へ行こう」

「どうして?」

「迎えに出てやろう。受け身の姿勢でいるべきではない」


 困り切っていたロイの貌が一瞬驚きを浮かべ、そしてふわりと軟化する。


「君の、そういうところが、大好きだ」


 不意討ちを食らってうっかりサフィルの頬が熱くなった。

 この期に及んで、恐らく無自覚に、城主は妃を寵愛するのをやめない。

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