第9話 城主がついた唯一の嘘

 海辺の街の生活は潮流に支配される。

 漁師や船乗りだけではなく、城主までも。


 明け方の西流れに乗ってやって来る手紙を早く読みたくて、ロイはまだ暗いうちから起き出して仕事をする。

 サフィルが朝食の場に降りる頃にはもう返事まで書き終えているほどだ。


 ちゃんと眠っているのか不安だった。いつもサフィルより遅くベッドにもぐり込んできて、目覚めた時には既にいない。

 ロイに伺っても、そのために自室ではなく君の部屋で寝ているんだよと、照れ臭そうに答えてくれるのみ。

 傍にいて、安らぎを与える。それは妃の存在意義として間違っていないのだろうが、何にも力になれなくてもどかしい。


 キルスティン運河が南部船籍の商船に塞がれて、五日。

 混乱はじわじわと大きくなっていた。

 帰って来れない船と出て行けない船の情報が、城主の机にどんどん積み上がっていく。エルデ港だけでこれだから、運河を利用する全ての船となると計り知れない規模だ。

 やがて物流の停滞が実際に肌で感じられるようになるだろう。その前に穏便な解決をと、アルス=ザレラの軍総帥は身を削って策を練る。


「君は、どう思う?」


 ロイは極力、サフィルのために時間を作ってくれた。

 が、どうしても会話は、南北大陸間の問題へ流れてしまう。

 その日も夕方の休憩に付き合って一緒におやつを頂くサフィルに、ロイは、穏やかに訊いてきた。


「どう、とは?」

「運河と共に育った君の意見が聞きたい。誰がどう見ても自殺行為なんだけど、彼らには何か違うものが見えているんだろうか」


 真剣な表情のロイに向き合い、サフィルは温かい茶を口に含む。

 自殺行為。その言葉が全てだった。

 南は農業に向かない不毛の地。砂漠と荒野で採れる貴金属や宝石を対価に、北から食糧を買っている。

 交易ができなくなれば、先に苦しくなるのは南の方だ。


「長期戦を想定していないんだろう」

「……そこまで考えなしに、自分達の生命線を堰き止めるかな」


 ロイは何らかの罠があると睨んでいる。

 果たしてそれは、賢い人間の知恵の回しすぎか。それとも本当に、運河に詰まっている船に『捨て駒』以外の策が仕込まれているのか。


「通れなくても、船同士で積み荷を受け渡すことはできるよね。最近やたらと運河のこちら側に暇そうな船が漂ってるし」

「運河を維持する仕事は、堆積する砂を掻き出すだけではない。不正を取り締まるのもまた、通航料を得ているイゼルアの義務だ。運河周辺での瀬取りは御法度、問答無用で船長を逮捕する」

「なるほど。君の祖国に任せておけば、その辺りは安心だね」


 サフィルは頷いた。

 運河の通航における揉め事なら、隣国の総帥を煩わせることもない。


 恐らく相手はこれ以上、運河の法規に触れることはしないだろう。せっかくの囮作戦が台無しになってしまう。

 だとすれば放置して、南大陸が餓えるのを待てば良い。

 向こうが勝手に自滅するだけだ。


 ゆっくりとカップを傾けるロイの表情は晴れない。

 敵が自ら陥った、圧倒的にこちらに有利な状況を、逆におかしいと考えている。


 サフィルにはロイが、見え透いた策の向こうにあるものを、金縁の小さな鼻眼鏡越しに既に見据えているように思えた。

 それが何なのかは、想像もつかない。


 戦略の方向で力になれることは何もないと分かっていても、己が無力すぎて胸が痛かった。


「考えすぎなら、良いんだけどね」

「何が?」

「今回のこれ、僕が目を悪くしたのと同じ原因のような気がする」


 十数年前に流行した熱病と、南部大陸による運河への攻撃。

 あまりにもかけ離れすぎていて、訳が分からない。


「だとしたら……」

「……だとしたら?」

「ちょっと、好都合かも知れない」


 混乱するサフィルに、ロイはいつも通り何か考えがある時のふんわりした笑みを見せた。



 ***



 城主として軍総帥としてロイが忙しくなるほどに、サフィルは一人の時間を持て余すようになった。

 時間がある時に良く足を運んだ中庭の温室も、秋が深まって様子が変わった。幸運の花は盛りを過ぎ、すっかり寂しい景色になっている。

 ロイを守る花が咲いていないことに、奇妙な焦りを覚えた。世話を続ければ初夏にまた咲くと言われても、長い冬の訪れが恐ろしい。


 何らかの導きか。

 それとも、花のことを考えていたからだろうか。


 サフィルは書庫で、一冊の本と出会った。


 エルデグランツ城の蔵書は、イゼルアの王城のそれとはだいぶ異なる。寝る前にページをめくるのが習慣になっていることもあり、不安を紛らす意味も込めて、何か面白そうな本はないかと棚を隅々まで見て回っていた時だ。

 たまたま民間伝承に関わる本ばかり集められた一角を見付けた。吸い寄せられるように背表紙の文字を読む。


 そして。

 つい手にとってしまう。

 遠い時代に魔女と呼ばれた、薬草を扱う専門の研究者が記した書物を。


 パウリナの花——熱冷ましの薬草——大昔のおまじない——呪いの花が効いたという、非論理的な空想——花の香りに包まれていなければならない理由——


 詮索しない方が良い。

 ロイが語ってくれるのを待つべきだ。

 己に幾度そう言い聞かせても、知りたいという欲求を抑えることができなかった。


 震える指で、ページをめくる。

 すぐに、魔女はサフィルの知りたかったことを教えてくれた。

 パウリナの根は特定の物質による中毒に対し効果的な中和剤である、と。


「中……毒?」


 いつも思っていた。

 ロイは死にかけたのはなく、のではないか。

 つまり人為的に、病気にさせられたのではないかと。


 ただロイ自身が熱病だと言うから、それを信じた。嘘を言わない約束の上でそう言ったのだから、それが真実なのだと、己の中に膨らむ疑問に蓋をするしかなかった。


 今ようやく理解した。

 ロイもまた、思い込むしかなかったのだ。

 あれはただの病気だったのだと。それ以上追及すべきではないのだと。


 サフィルに嘘をついたのではない。

 彼自身が、騙されたままでいることを選んだ。


「だったらそう……話してくれれば良いのに……」


 どうしてロイだけが回復し、他の子供達は助からなかったのか。

 そして何故、他の可能性を追及することなく『原因不明の熱病』と処理したのかは分からない。


 ただ幾つかの疑問は氷解した。

 ここエルデグランツ城で生まれ育ったロイの母親は、きっとこの本を読んでいた。

 そして熱病の正体が何らかの中毒である可能性を疑い、最先端の薬ではなく古の知恵で息子の命を救った。


 王都からロイを遠ざけたのも。

 呪いの花を幸運のしるしとし、常に身近に置かせているのも。

 わざわざ中庭の見事なモザイクタイルを砕いてまで温室を作り、エルデグランツ城で花を育てているのも。

 全てはロイが再び毒に曝されることを恐れているからだ。


 読み進めると、更に恐るべき記述もあった。

 中和による副作用は視力低下、最悪の場合は失明に至る可能性——


 サフィルの青玉の双眸がじわりと潤む。

 本を濡らしてしまわないよう、零れる前に指先で目頭を拭った。


 胸が痛い。

 何に対してこんなに切ないのか分からない。ただ、ロイとロイの母親が向き合った十数年前の『ちょっとした事件』を思うと、悲しくてたまらない。


 ロイの眼の障害は、命の代償だったのだ。


 何を犠牲にしようとも息子の命だけは守ろうとする母親の愛情。

 かつて執着とロイが呼んだその感情が、古びた薬草学の本にまだ熱として残っているような気がする。触れている掌に、まだ見ぬ一人の母親の強さを感じる。


 本を抱きしめ、サフィルはひとつ大きく息をついた。

 頭を働かせるのは苦手だし、どう頑張っても良い答えが出てこないことは分かっていたが、それでもつい考えてしまう。


 もしロイが推測した通り、南部大陸の運河侵攻とアルス=ザレラの王族暗殺事件が同じ悪意を発端としているとしたら。

 かつてアルス=ザレラの王族を脅かした闇と同じものが、イゼルアに迫っているのだとしたら。


 ロイは好都合だと言った。

 だがサフィルには、二人の王子の婚姻がとんでもない悪手だったようにしか思えない。


 この悪い予感が外れることを、願うしかなかった。






— 第五章 了 —

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