第8話 痛みを分かち合えるなら
変化はいつも、何の予兆もなく訪れる。
そしてサフィルを翻弄する。
ほんの少し前までイゼルアが世界の全てで、王族がその中心だと思い込んでいた。だが実際の故郷は大陸の隅にある小国でしかなく、自分は何も出来ない世間知らずな王子。自分には何の力もなく、濁流に浮かぶ木の葉のようにちっぽけで無力な存在でしかないのだと知った。
いつも何が起きているのか分からないまま、ただおろおろするだけ。
エルデグランツ城の雰囲気が一変したのは、平和な日常が続いて緊張感を失いかけていた頃だった。
城主ロイが地下会議室にエルデ城市の各方面の代表を集めて『戦時下にある』と宣言したあの日は既に過去となり、心が緩んでしまっていた。
穏やかな日々が永遠に続くとうっかり錯覚しかけていたサフィルの足をすくうような激動。
海賊に定期船が襲われたという一報がもたらした衝撃よりもなお強く——それでいて静かに、運命の転換点は訪れた。
ロイの元にどのような情報がもたらされたのかまでは分からない。
ただ、いつも温厚な城主が一瞬にして厳格な軍総帥の貌になった時、状況が大きく変わったのだと理解した。
それは正しく、アルス=ザレラの片隅に身を隠していた翼獅子がのそりと立ち上り、翼を広げた瞬間だった。
城内を慌ただしく人が出入りしているので、邪魔にならないよう、サフィルは部屋でじっとしていた。
昼食は部屋に運ばれた。ロイの時間が取れないようだ。
この城で初めて迎えた夜以来、本当に久しぶりに、一人で食事をする。
寂しくて、不安で仕方がない。呆れるほど、自分の心が弱くなっているのが分かる。
ロイほど音に敏感ではなかったが、武装した兵士が走り回る物騒な音は胸に重く響く。いくら意識しないよう努めても、何が起きているのか分からないままでは全てが恐ろしく思えた。
いつも必ず、適切な時宜になれば必要な説明をしてくれる。それまで心の中で耳を塞ぎ、静かに待つほかなかった。
何も手につかないままベッドに腰掛けて過ごす。
控え目なノックの音が聞こえたのは、城主の部屋の半分を黄金色の夕日が染める時間だった。
ロイがいつものように、ほんの少しだけ扉を開けてするりと長身を滑り込ませる。微笑んではいたが疲れている様子だった。
「ちょっと良いかな」
「ああ」
「騒がしくて申し訳ない。逸る気持ちは分かるけど、城の中を走るのは良くないよなあ」
ロイがベッドに座った。
互いの膝が触れ合うほど近くに。
掌を差し出すので、手を重ねれば、優しく握ってくれた。
「……君に何も説明しないという選択肢もある。嘘はだめだけど秘密は認めて欲しいっていうのが、最初の約束だからね」
「説明したくないんだな?」
「いや。良く分からない。ちょっと前の僕なら黙っていたかも知れないけど、今は、君に何も隠し事をしたくないんだ。もっと言うなら……そうだね、敢えて誤解を恐れずに言うと僕は、君と一緒に悩みたいと思っている」
今日一日、報告を受けては指示を飛ばしていた城主にして軍総帥でもある王甥は、ここで初めて弱音を吐いた。
妃の前に全ての肩書きを脱ぎ捨てて、ただのロイになった。
「助言はできないが」
「構わない。戦略は自分で考える方が効率的だ。そういうことじゃなくて、何て言うかな」
「分かっている。一人で抱え込むな」
何が起きているのかまだサフィルは知らない。
このままずっと除け者にされていた方が、精神的には楽だろう。
だが知りたかったし、それに、ロイが救いを求めている。何らかの問題に直面しているロイにこれ以上、妃に対し秘密を抱える煩わしさまで背負って欲しくなかった。
「話してくれ。全て」
「じゃあ、言うよ。落ち着いて聞いて。……運河が占拠された」
一瞬——
ロイの言葉が、理解できなかった。
言葉は分かるのに、意味が飲み込めない。
「……悪い。私にも分かるように説明してくれ。一体、何が起きた?」
「今、南大陸の大きな商船が一隻、運河の西側の細いところに留まっている。事実上、運河は航行不可能な状態に陥った」
「どうしてそんなことを」
「通航料の支払いを拒否して、わざと運河を堰き止めている」
「それは、つまり」
「こちらが実力行使するのを待っているんだよ」
ゆっくりと、サフィルは深呼吸した。
ロイが向き合っている問題の深刻さを理解すると共に、だからこそサフィルに黙っておくべきか迷ったロイの優しさに改めて胸を打たれる。
本来なら真っ先に話すべきことだ。サフィルの祖国に生じた問題なのだから。
「遂に南は運河の危機を自作自演することにしたのか」
「その通り、やはり君は察しが良いな」
「これだけ丁寧に説明してもらえれば、誰にでも分かる」
ロイは無理に口角を上げた。
「これはアルス=ザレラの海軍が良く使う手法だよ。囮の船を出して、敵を不利な状況に誘導する」
「知っている。その残酷な作戦を総帥閣下が阻止してくれたことを、ヒルデブラント分隊長は心から感謝していた」
「……まあそれはともかく。こちらから手を出せない理由は幾つもあるけど、その中でも一番厄介なのが、運河の岸が近すぎることなんだ」
サフィルの知る限り、歴史上、運河の中で海戦が勃発したことはなかった。
船に大砲が積まれる時代になっても、世界中の船がイゼルアの規律に従って大人しく通航する。
少し考えれば分かることだ。運河への攻撃は自分達の首を絞める行為だと。
「想定はしていたけれど、可能性は低いと思っていた」
「お前の裏をかくとは、なかなかやるな」
「君のお父さんは予期していたみたいだけどね。運河が、戦場になることを」
するりと頬を撫でられた。
胸が静かに痛む。
「陛下が?」
「そう。……少し不快な話かも知れないけど、包み隠さず説明するね。知っての通り僕には沢山の従兄弟姉妹がいて、もう全員の顔と名前を把握するのは諦めてる。けど何人か、覚えておくべき立派な人もいるんだ」
突然、何の話が始まるのだろうかと訝しみつつ、サフィルは黙って頷く。
「第四王女が今、海軍の指揮官を勤めている。半分エルデ人の僕は別として彼女は船に酔わない希少な王族で、おまけに頭も良い。僕は……僕より彼女の方が君の結婚相手として相応しいかも知れないと、思ったこともあるんだ」
「……え?」
「もし君のお父さんが君を妃として送り出すことを許さないなら、君がアルス=ザレラの王女を娶る形にすれば、イゼルアの威厳を保てるかなって」
だが、実際は。
イゼルアの王は息子の安全を条件に、嫁がせることを認めた。
王が護りたかったものは国の面子でも王の血筋でもなく、息子の命、そのものだった。
「君を迎えに行かせた船を最後に、お義父さんとは連絡を取っていない。ほら定期航路が襲われただろう? ああいう事態を恐れてだ。君のことを心配しているとは思う。危機に直面しているのに、何の手助けもできない。だけどきっと賢い選択をしてくれるはずだと、僕は信じているよ」
「陛下は……父は、私に失望しただろうか。イゼルアを護るためにここへ来たのに、何もできずにむざむざと運河を危険にさらしている」
「まだ結論を出すのは早いよ。大丈夫、何とかする」
力強く手を握られて、ほんの少し、心に光が戻る。
ロイの言葉を無条件に信じることができた。何故だろう。ロイが大丈夫だと言えばきっと、必ず大丈夫なのだと、そんな風に思えて来る。
「礼を言う。……ありがとう」
「何に?」
「話してくれたことに」
「ああそれは、ただ単に黙っておくにはちょっと重すぎたから。自分のためにやったことだよ」
幸せな時間だけではない。重荷も分かち合えてこそ、本当の意味での伴侶と言える。
ロイが、サフィルにとってつらい現実を黙っていることではなく、一緒に抱える方を選んでくれたことが、心から嬉しかった。
「急いで次の手を考えないと。……でもその前に」
「何だ?」
「何か食べよう。空腹で倒れてしまうかも知れない」
サフィルの主君は、この期に及んで相変わらず自然体だった。
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