第7話 信じられる関係
普段と何も変わらない朝だった。
少なくともロイの周囲は。
それが、どうにも気恥ずかしい。
先に城主の部屋を出て、急いで食堂の間に向かう。
サフィルに手伝ってもらったお陰で隙なくぴしりとシャツを着込み、髪も丁寧に櫛を通され、いつになく身綺麗な格好をしていることを微妙に照れ臭く感じながら。
長テーブルの、いつも座る場所に、いつも通り手紙が置いてあった。
席につき、序列が上の方から順にざっと目を通していく。内容はいつも通り、王都の日常風景だった。
向こうはもうだいぶ寒くなっているらしく、冬支度を始めたことなどが綴られている。
誰かが誰かの記念日に贈るために作らせているアクセサリーの話は興味深かった。南大陸から輸入しているものは、目に見えて価格が変動しているようだ。
王都に、それを『戦争』だと考えている者はまだいないだろう。ただ銀が安くなったとしか思っていない。
だが南にとっては死活問題だ。
やがて気付くはず。通航料を撤廃することで更に、貴重な資源が流出すると。
「待たせたかな」
「いや——」
遅れてサフィルが食堂の間にやってきた。
顔を上げて、何か言おうとして、言葉を失う。
サフィルもいつも通り。ただ髪のまとめ方が、いつもより簡素なだけで。
「……どうした?」
「何でもない。おはようサフィル、今日も良い天気だね」
咄嗟に出てきた、まるで今日初めて顔を合わせたかのような挨拶に、サフィルが苦笑する。
蜂蜜色の髪が肩でさらりと揺れた。
勘弁して欲しいと心の底から思う。もちろん心を込めて、不器用なりに丁寧に結ってあげたつもりだ。が、上手にできなかったことは理解している。きっと自分が部屋を出た後、使用人を呼んで結い直してもらうのだろうと思っていた。
まさかそのまま、さっきロイが結んであげたまま、朝食の場に降りて来るとは思ってもいなかった。なぜかロイの方がばつが悪くて仕方がない。
「挨拶はもう必要ないだろう?」
「そうだけど何となく」
「堂々としていれば良い。お前はこの城の主で、私はその妃だ」
分かっている。
サフィルのベッドにもぐり込んでいたことを取り繕う必要などない。
城主が時々、妃と夜を共にしていることは、既に城じゅうの使用人に知れ渡っているだろう。
確かに政略結婚なのだが、共に暮らすうちに愛が芽生えたとしても不思議ではない。自然な成り行きであり、温もりや安心感を求める行為を後ろめたく感じる必要はないはずだ。
ただ、何しろ使用人達との付き合いが長い。この城にやって来た時と顔ぶれがほとんど変わっていない。
難しい年頃から辛抱強く見守ってくれた者達だ。今更すぎて、どうにもいたたまれない。
「髪は、そのまま?」
「せっかくロイが結ってくれたのに、崩すのは勿体ないだろう」
「そっか……」
もし本当に喜んでくれたのなら、またやってあげたい。サフィルの髪に触るのは好きだし、梳る行為も気に入った。何より信頼して身を任せてくれる時間が、とても尊く感じた。
触れたり触れられたりすることが心地良い。
家族以外に踏み込むことを許していない、心の奥の神聖な場所に、サフィルは既に居るのだと理解できた。
「もっと練習するよ。我が妃」
「無理しなくても構わないよ。我が君」
二人の会話が一区切りつく頃を見計らったように、朝食が運ばれて来た。
ロイは広げたままの手紙を集め、適当に重ねて脇に避ける。
給仕がテーブルを整える間は喋らない。気にしない者もいるが、話を聞かれるのが嫌なので黙って待つ。
焼きたてのパン、卵、温かい飲み物。煮た豆と、焼いた燻製肉と、果物や木の実。
それらが目の前に並んでいく様を眺める。
やはり何も変わらない、いつもと同じ朝だ。
食事に手を付ける前、神に祈りを捧げる。
いつもは幸福な今への感謝だけ。今日は特別にひとつ願い事をした。
——どうか全てうまくいきますように。
***
「これだけ離れると、実感がないね」
「何の?」
「水平線の向こうに大陸があること。しかも、利害関係が対立していて争っていること」
エルデ城市の海は、果てしなく広がっているようにしか見えなかった。
ロイは水平線の彼方にあるはずの南大陸を睨む。
「君はどう?」
「どうかな。運河の南岸は我が国の一部だ。常に目の前にあった。むしろ向こう岸が存在しない海というものが不思議に思える」
潮風に弄ばれる髪を軽く手で抑えながら、サフィルは興味深いことを言う。
ロイは視線を、妃から海へ戻した。
南翼のバルコニーから見える海は穏やかだった。
両岸の人間が争っていたとしても、構うことなく泰然自若としている。
ロイはエルデグランツ城が好きだった。何もかもが好ましい。
王城とは異なる質実剛健な建築様式も、岬の先端という特別な立地も。
特にこの、城主の部屋の先にあるバルコニーは、エルデグランツ城で最も素晴らしい場所だと断言できる。
三方を海に囲まれ、船の舳先に立っているような開放感をくれる。
城主の部屋を通らなければ来れないことが唯一の難点だったが、それはつまり、それほど特別な場所だということを示している。
歴代の城主はエルデの海を独占する権利を持っていた。
祖父の死後は足が遠のいていたが、サフィルが住むようになったお陰で再び来れるようになった。
今はロイも、城主の特権であるここからの風景をいつでも堪能できる。
「そう言えば、フランクは王都に戻っていないみたいだ」
「だろうな。また何か企んでいるのだろうか」
「多分。また近いうちにあの船が来るよ」
フランク本人が『日記』と揶揄った親族間の手紙のやり取りが、彼の動向を探る上で役に立っている。
もしフランクの噂が王族の誰かの耳に入れば、必ず手紙の題材になるはずだ。
誰も話題に出さない、つまり王都に帰っていないし、他の地方の親族を頼った形跡もない。
恐らく当のフランクも、手紙を通してこちらに情報が伝わることを警戒して、ロイに繋がる可能性のある親戚との接触を控えているだろう。
従兄弟の中では狡賢い方だった。そう簡単には尻尾を出してくれないだろうことは、最初から理解している。
「予想が外れたかな……」
「と言うと?」
「フランクは僕の代わりに、アルス=ザレラを代表して、君のお父さんに接触するだろうと思っていた。それも僕が対策を立てる前に、迅速に。……でもだいぶ動きが遅い」
サフィルがバルコニーの石の手すりに手を置いてほんの少しこちらに身を傾ける。
「何故だと思う?」
「どうかな。何か問題が生じたのかもね」
実はロイにも、従兄弟の魂胆が理解できている訳ではない。
この作戦に割って入り、ロイからサフィルを奪ったところで、王になれはしないのに。
運河の利権も手に入らないのに。
「フランクが南に良いように利用されているだけなら良い——いや良くはないけど、まだましだと言えるね」
「完全に敵側に付いているように見えたが……」
「それは困る。あれでも一応アルス=ザレラの王族なんだし、いろいろまずいことを知っている。敵に回すのはごめんだ。予想通り動いてくれれば良いけど」
ふ、とサフィルが微笑む。
「その予想は、聞かせてはもらえないんだろう?」
「そうだね。まだ秘密。君を騙すことになるかも知れないから」
「正直だな」
「約束したから、君に嘘はつかないよ」
恋をするということが良く分かっていなかった。
ただ祖母が生前、いつか愛すべき人と出会ったなら常に誠実でありなさいと教えてくれた。
信じてもらいたいなら、疑われるようなことをするなという意味だ。
その言葉を文字通り受け取り、サフィルに誠意を持って接すると誓った。最初のうちは頭を使ったが、今では自然に、本当のことだけを言える。
祖母の助言に心から感謝した。
「私はお前を信じるよ」
「ありがとう。僕も君のその言葉を信じている」
サフィルは知っているだろうか。
ロイは本来とても疑り深い人間だということを。
今、目の前に、心から信じ合える人がいる。
それが、幸せで仕方がない。
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