第6話 二人の意味

 ベッドが僅かに沈む気配で、サフィルは目を覚ました。


 警備が厳重なエルデグランツ城において、深夜に妃の寝室に忍び込める人間は一人しかいない。

 サフィルは必死に笑いを堪えながら寝たふりを続ける。

 ロイはもぞもぞとベッドに潜り込み、背にぴたりと寄り添ってきた。体がだいぶ冷たく感じる。


 起こさないようにとの気遣いか、体に触れては来ない。広いベッドに並んで横になっているだけ。

 首の後ろに感じる呼吸だけが生々しかった。

 やがて少しだけにじり寄り、軽く後頭部に額を擦り付けるような感触があった。もう無視するのが難しくなり、肩越しに手を遣ってくしゃくしゃの髪に触れる。

 びく、と、ロイの体が硬直する気配。


「ごめん。起こしちゃったね」


 囁く声に、とうとう吹き出した。


「起きるだろう。普通」

「君が優れた剣士であることを忘れていた。気付かれないように少しだけ君を摂取して、戻ろうと思ってたんだけど」


 もぞもぞと寝返りを打つ。

 夜闇に慣れた目にかろうじて、穏やかな表情を浮かべるロイの顔が見えた。

 つらそうな表情ではなかったが、恐らく、つらいのだろう。深夜、サフィルに救いを求めて来るほどには。


「どうかしたのか?」

「いや。ただ何だろう、君が足りなくて」

「足りない?」

「うーん、表現としておかしい気はするけど、他に言いようがない。君が枯渇していた」


 床に入ったようには見えない。いつも通り子供部屋の揺り椅子にとぐろを巻いて、考え事をしていたようだ。

 そして思考が壁にぶつかった時の癖で、サフィルの髪を弄りたくなった。


「そうか……」


 触れたい時に傍にいない寂しさを、ロイは飢餓感として認識するらしい。

 凡人とは異なる独特な感性を持っている。


 サフィルは寂しさを知らない。寂しいのが当たり前だったからだ。

 そして温もりも知らない。ロイの傍にいて愛される心地良さは、今だけの特別なものだと割り切っている。

 求めない生活に慣れすぎて、感情に素直ではなかった。悲しみにも、喜びにも。


「……足りなかったんなら、仕方がないな。ほら、おいで」


 軽く腕を持ち上げて、懐にロイを招く。

 ロイは素直にサフィルに抱きついてきた。

 首筋に顔を埋めて深く呼吸をする。そのさまは本当に、サフィルを摂取しているようだ。


 抱きしめて、髪に頬擦りする。

 もう気付かないふりを続けるのは不可能だった。ロイが愛おしい。


 心の渇きを自覚できるだけ、ロイの方がましだろう。

 分かっている。把握している。だがサフィルはどうしても、そこから目を逸らそうと頑張ってしまう。

 こうして二人でいると本当に幸せなのに。


「はぁ……。君が好きだ……」


 呟く声にサフィルは頷く。


「……私もだよ」

「うん?」

「私も、お前のことが好きだ」


 心からの同意だった。

 それを聞いたロイが僅かに、サフィルの背に回した腕に力を込める。


「君からそう言ってもらえるのは初めてだ」

「そうだったか?」


 もっと早い段階で、口にしたことがあるような気がする。——愛し合う行為の最中、体を交える愉悦に理性の蕩けた状態を除いても。

 年齢だけでなく社会的な立場さえ格下な男の妃になった時、王太子の自尊心は粉々に砕けてしまった。が、今は心から主君を尊敬している。

 この期に及んで、まだ己の中にこびり付いた虚栄心が余計な仕事をしたのだろうか。無意識に、素直な思いを伝えることに抵抗を抱いていて、拒んでいたのだろうか。


「お前を愛している。……良くないことだとは承知の上だ。しかるべき時が来れば私は残り二つを数えて、素直に、この想いを忘れる。だから今は、お前のものでいさせて欲しい」

「君は永遠に僕のものだよ。愛しているサフィル。誰にも渡さない」


 子供じみた独占欲が、ずきりと胸に響いた。

 何故、そんなことを言うのだろう。永遠に傍にいることなど不可能なのに。

 二つの国の王子が結ぶ強固な同盟関係を維持するためにも、お互いに、己の立場を捨てることができない。サフィルはイゼルアの、ロイはアルス=ザレラの象徴であり続けなければならない。

 分かりきっているのに。


 サフィルの痛みを、ロイは感じ取ったようだ。

 微笑み、キスをしてくれる。

 例え束の間であっても、永遠を信じさせてくれる。


「ねえサフィル。この歳になるまで、人間が二人で一単位になる意味が分からなかった僕は、鈍いのかな」

「鈍いか鈍くないかと訊かれれば、どちらかと言えば鈍い方だと答えるしかないが……心配するな。私も似たようなものだ」

「君は違うだろう? 伴侶となる人間を選ぶ自由を制限されていただけで、意味は分かっていたはず」

「私は……」


 意味。人が誰かを愛し、二人で生きることの、真の目的。

 サフィルに求められていたのは、イゼルアの王統を継ぐことのみ。それを唯一の常識と思い込んでいた。それだけがサフィルにとっての、愛が持つ意味の全てだった。

 苦しいのは、疑う余地のなかった常識と、ロイを愛しいと思う感情との折り合いが付かないせいだ。


 アルス=ザレラは同性の婚姻が認められている。ロイにはサフィルを妃として迎えることに抵抗はなかっただろうし、周囲も当たり前に受け入れている。それでも国王のみ複数の妃が持てるあたり、血統を繋ぐための手段はきちんと考慮されていた。

 そういった異なる選択肢が存在しない以上、サフィルはいずれ王妃を娶り、子を成すことが義務だった。


「……私は何も考えなかった」

「まあ考える必要のないことだしね。君の人生の目標は、イゼルアの王になることで間違いない」

「では何故、永遠にお前のものだと言い切るんだ。私に嘘をつかない約束だろう?」

「嘘じゃないよ。ずっと一緒にいる」


 詳しい説明を求めることはできなかった。

 話せる内容だったら最初から焦らさず教えてくれる。つまり、まだ言えないということだ。


 サフィルが知っている事実のみでは、二人がずっと一緒にいられる筋道は存在しない。

 ロイが何を考えているのか分からなかったが、今はただ、信じるしかない。


 約束した。嘘をつかないと。

 誠実な主君が、ずっと一緒にいると言うのなら、そんな未来の実現を待つだけ。


「僕は意外と、こんな風に、誰かを普通に愛したり愛されたりしてみたかったのかも知れない」

「誤算だったな」

「大誤算だよ。もっと、簡単だと思ってた……」


 ロイの声が寝息に蕩けていく。

 小さく苦笑し、サフィルは優しくロイの髪を撫でた。

 冷え切っていた体はすっかり温まっている。


「サフィル」

「どうした?」

「君のことは僕が守る……絶対に……」

「分かったから。もう寝ろ」


 緩く抱き合ったまま、二人はそれぞれの幸せな夢に沈んでいった。



 ***



 扉の向こうの気配にサフィルは朝が来たことを知り、サフィルが起きたことでロイも目覚めた。

 しばらくもぞもぞした後、急にぴたりと硬直する。

 悟ったようだ。——今朝は、逃げ遅れた。


「おはようございます旦那さま。お妃さま。お支度をさせていただきます」

「……いや。良い。今日は私がするから、外してくれ」


 天蓋の幕を下ろしてベッドの上を隠しながら指示をする。

 勤勉で察しの良い使用人達は、洗面道具を部屋に調えただけで慎ましく退室していく。

 ロイはその間ずっと岩のように固まり、気配を消そうと無駄な努力をしていた。とっくに悟られ、ロイの分の湯や着替えもちゃんと用意されているのに。


 城に勤める彼女達は、城主と妃がこのベッドで愛し合うことを承知している。

 何も問題はない。ただサフィル以外の人間を苦手としているロイの心の中を除いて。


「全く手がかかる奴だ。そろそろ慣れたらどうだ」

「無理だよ。ずっと自分でやってきたのに、今更普通の王侯貴族みたいに」

「分かった分かった。ほら起きろ」


 互いの体に触れたり、キスをしたり。衣服や髪を整えて、崩して、また整えて。

 手伝ったり、邪魔をしたり。

 二人でやる朝の支度は必要以上に時間がかかる。


 最近覚えたばかりの、肉体で愛し合う悦びとも違う。甘ったるくて優しい、心の幸せ。

 こういうのも悪くない。

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