第5話 想定される最悪の未来
エルデグランツ城の地下にある会議室に、重い沈黙が訪れた。
暖炉の火が時折小さく爆ぜるのみで、それ以外、何も聞こえない。
呼吸の気配や衣擦れの音さえ、皆、意識して抑えている。
城主ロイの次の言葉を、聞き漏らさないように。
「申し訳ない。本当は誰にも気付かれないまま、終わらせたかったんだけど。少しことが大きくなりすぎてしまった」
永遠に続くかと思われた静寂を、ロイの穏やかな謝罪の声が破る。
誰かが身じろぎする微かな音が聞こえ、別の誰かがふうと息を吐き、ようやくこの部屋の時間が動き始めたことをサフィルは感じた。
皆、同じ思いだったようだ。
時が止まっているものと錯覚してしまうくらい、誰も動けなかった。
「何か良くないことが起きているような気はしていました。海の向こうの治安の悪化、相場の乱高下、市民の不安……。我々や商人達や司祭様の感じる不穏な空気の源流は同じということなんですね?」
ツァイラー市議長の、市民を代表する問いかけに、ロイは静かに顎を引いて頷いた。
「南側の目的は知っていると思う」
「運河をタダで通れるようにしてくれ言う奴だら? 全く、戯けたことを言い出すもんだで。通航料が安うなるほど北の方が儲かるに」
「……そういうものなのですか?」
「おお、さすが清貧を是とする教会さん、このての話はピンと来んようだの。ええか、もし運河がタダで通れるようになったら、得するんはむしろ船の大きい北の方なんだわ。通航料が嵩むで運河の西までは行けせんかった北の大商船が一斉に、南大陸の草一本残さず毟りに行くだろうでよ。目先の通航料をケチろうとした結果、却って南が地獄を見るわな」
商人の説明に、司祭が顔を顰める。
俗世の欲と決別した僧侶には不快なものに聞こえたようだ。
司祭ほどではなかったが、サフィルにとっても、生々しい経済の話はあまり気持ちの良いものではなかった。
運河が均衡を保つべき真の理由。自由化はむしろ北に有利に働き、南を苦しめる。
本当にそうなるのかと怪訝な表情のベック司祭長の強い視線に、ロイは眼を伏せる。
「南部大陸の六つの国と地域が手を組み、現在、妃の祖国イゼルアに運河の解放を求めて圧力をかけている。我々は圧力に屈さず、かと言って挑発に乗らず、毅然とした態度を取り続けている。こちらの方は現在、膠着状態だ」
口を挟む者はいない。皆、運河の正確な情勢を理解している。
「同時に僕は……少し疑問に感じていた。武力侵攻の意味だ。運河に傷を付けたら自由化の目的を果たせないのに、何故だろう」
「そんなの、ただの脅迫です」
「その通りだね市議長。その通りなんだけど、でも、自分達にとっても価値のあるものを脅しの道具に使うのって頭が悪すぎない? 義理の父も、相手は運河に手を出せないことが分かっているから強気でいる」
ロイの義理の父とはイゼルア国王を指す。気付いたサフィルの胸がじわじわ暖かくなった。
婚姻関係にある以上、相手の家族が己の姻族になるのは当たり前のことなのだが、それがごく自然にロイの言葉に現れているのがどうにも面はゆい。
剣呑な話題の中に挟まれた、何ということのない部分につい反応してしまったことが恥ずかしくなり、会議室に集まったエルデ城市の代表達が気付いていないことを願いつつ、サフィルは椅子に掛け直す。
「そこで僕は南大陸の参謀になったつもりで、彼らが何を考えているのか想像してみた。武力で運河を脅かしている理由をね。……ひとつしか思いつかなかったよ」
「運河の支配権を奪い、自分達が利益を得る、ですか」
口を開いたのは司祭長だったが、皆、驚いた貌はしていなかった。
誰もがその推測に、既に行き着いていたようだ。
ロイは大きく頷く。
「お妃さまの目の前でわしが言うのも何だけども、運河は生き物だで。南にあれを機嫌良う保てるとは、到底思えせんのだがの」
「僕もそう思う。そして南部諸国の王達も、そう思っているはずだ。つまり究極の理想はイゼルアに運河を維持させつつ、通航料は自分達の懐に入れる形。これを実現する方法をあれこれ考えているんだろう」
「随分と虫の良い話です」
「
今までにないほど重い沈黙が訪れた。
それを破ったのは、ここまでほとんど発言をしていない若き女性将校。
ティルダの声は、心なしか震えていた。
「……聞いたことがあります。南大陸諸国においては、大陸の境界は運河の中心であるべきだとの意見が一般的であると」
「そう。どうやら南大陸は義理の父に対し、歴史上今まで一度も彼らのものだったことのない運河の南岸の所有権を、堂々と主張しているようなんだ」
ロイがサフィルの方を見る。その気遣わしげな視線に、かろうじて頷き返す。
それから、眸を潤ませながらじっと見つめるティルダにも。
運河の南岸は、南大陸に在るのだから、南大陸のものである。そんな戯れ言なら昔から聞こえていた。
だが実際に国土を削りながら運河を維持し続けてきたのはイゼルアの民だ。
遠い昔、南北の大陸は繋がっていた。そこに、船が通れるように運河を造ったのがサフィルの祖先、古きイゼルアの民。
南大陸の北の端はイゼルアのもので間違いないと、サフィルは確信している。
「さっきの妄想の続き。僕がもし南の側の参謀だったら。とりあえず通航料の自由化は、逆に北を太らせるだけだから諦める。運河そのものに手を出しても維持できないからこれも駄目。だったら運河の南岸を『ここは南大陸である』という言い分で手に入れる。そして西から東へ通る船の積荷に重い税をかける。そうすれば効率的に北の富だけを搾取できるからね。岸は固めてしまおう。運河は向こうにとっても生命線だから、海底に流れ込む砂の相手は北がやってくれるはず」
淡々と語られたロイの妄想に、商人ハドリーが大きく唸った。
もし現実となれば、北の商船が大きな痛手を被る。
「あくまでも僕の妄想だよ。南が同じこと考えているかどうかは分からない」
「……南部に坊んほど頭のええ軍人がおれせんことを願うとるがや」
「いやそれは大袈裟」
「総帥閣下、それは可能なのですか。そのような未来は訪れるのですか」
ティルダの言葉は真っ直ぐだった。
「申し訳ない。僕は嘘をつくのが苦手だ。だから『ない』と言って君を安心させてやることができない」
「……あるかも知れない、ということですね」
「もしかしたらね。今のところまだ、そこまで状況は悪化していないけど、引き返せないところまでは来ている」
「戦争が始まった……と、仰いましたな」
ツァイラー市議長が重々しく口を開く。
ロイはふんわり微笑んだ。
「そうだね。きちんと勝ち負けを付けないといけなくなった。退路を用意してあげていたけど、向こうが蹴ったからね。こっちもこっちで踏み込みすぎて、お互い引き返せない」
従兄弟の件だと、サフィルは察した。
身内に内通者がいたことは、この場では明かさないらしい。
もう少しフランクを泳がせ、嘘の情報を流して敵を誘導したかったようだが、サフィルが口を滑らせたせいで正面から向き合わざるを得なくなった。
思わず、拳を強く握る。自分のせいで状況を悪くしてしまったことが、悔しくてならない。
「市議長と分隊長は引き続き、エルデ城市の治安を守るように。でも特別目立つことはしないで。こちらが警戒していることを悟られたくない」
「分かりました」
「畏まりました!」
「ハドリーさん、これから起きる相場の乱れを見逃してくれるかな」
「……ははぁん。南の同盟にヒビ入れたんは、坊んの仕業だら? 南の農産物を買い占めたんも、銀をだぶつかせたんも」
「うちの財力だけでは無理だよ。僕はちょっと誘導しただけ。……それから最後に司祭長」
「私にも何かできることが?」
ふとロイがサフィルを見、優しい貌をした。
そして。
「時が来たら、妃に道を開くようにお願いするよ。……以上、これは城主命令じゃなくて、僕からの個人的なお願いだ。そのつもりで処理して欲しい」
ここでようやく会議室の空気がふわりと和らいだ。
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