第3話 想いに気付く前から

 城主の部屋のベッドに腰掛けて、ロイは大人しく俯いている。

 眼鏡を緩く包み込む拳を大腿に置いて、じっと。


 サフィルは麻の浴布をこまめに換えながら、丁寧にロイの癖毛を拭いた。

 身支度を使用人に手伝わせるのを嫌がるくせに、一人でちゃんとできる訳でもない。まるで子供のようだと内心苦笑しながら。


「小さい頃、飼っていた犬を良くこうやって拭いてやっていた」

「……犬?」

「そう。海で遊ぶのが好きな犬でね」


 布の下から上目遣いにちらりと、ロイがこちらを伺う。軽く眉間に皺を寄せて眼を凝らすさまが、まるで犬扱いされたことに気分を害しているようにも見える。


「運河に飛び込むんだ。結構な高さがあるのに。そして気が済むまで泳いで、ずぶ濡れで帰って来る。私は泳ぐことが許されていないから、岸で待っていた」


 そして海から上がったら、こんな風に拭いてやっていた。両腕で抱きしめるように。


「君がお世話してあげていたんだね」

「お世話と言えるほどのことはしていない」

「遊んであげたんなら、立派なお世話だ」


 僅かに、胸が温かくなった。

 計算の上か、それとも自然にその優しさが滲み出るのか、ロイはいつも心地良い言葉をくれる。


 必要な世話はほとんど使用人任せで、たまに気が向いた時に相手をするだけ。

 それでも、大切な思い出だった。

 サフィルの中に残る、数少ない、友と楽しく遊んだ記憶。


「冬も?」

「寒い季節はさすがに飛び込みはしなかったな。その代わり、良く一緒に埠頭を走り回って、渡り鳥をからかっていた。急に視界を塞がれて危険だと、船乗りから苦情が来ていたがね、海鳥が一斉に飛び立つのが面白かったんだ」


 ふふ、と俯いて浴布を被せられたままロイが小さく笑う。

 考えていることは分かる。今のサフィルからは、犬と遊ぶ姿は想像もできないだろう。


「本当に小さい頃だよ。そのうち私は学ぶことが増えて忙しくなった。弟とは九つ離れているが、一緒に遊んだり、何かしてあげたという記憶が全くない」

「それは……弟君も寂しかっただろうね。せっかくこんな、素敵なお兄さんがいるのに」

「フランクの芸風を真似ることにしたのか?」

「まさか。僕は本心しか口にしないよ。知っての通り」


 分かっている。いつも誠実に接してくれた。

 それこそが、サフィルがロイを信頼する根拠だ。作戦のためとは言え嘘をつく男だったら、何を信じて良いのか分からず心が惑うだろう。そんな相手に、全てを預けようとは思わない。


 布での拭き上げを終え、櫛を手に取る。

 髪を整えてもらうのが大嫌いだと言っていたが、どうやら櫛が最も苦手らしい。ぎゅっと目を閉じ口元を硬く引き結んで堪える姿勢を見せるロイは、相変わらず、可愛いという印象が強かった。


「まだ?」

「まだだ」


 いつもくしゃくしゃの不揃いな癖毛は、櫛を通せばまとまり良く緩やかに波打つ。

 風変わりな色味も加わり、とても魅力的だった。

 ふ、と微笑み、サフィルは撫で付けたロイの髪を指で軽くほぐす。何故だろう、完璧に整えていれば確かに魅力的なのに、少し崩れている方が好みだ。

 そっちの方がロイ。サフィルの主君は、上辺を着飾る質ではない。


「もう良いぞ」

「……気が済んだ?」

「その言い方はないだろう。綺麗にしてやったのに」

「ああ、そうだよね。ごめん。ありがとう」


 慣れた手つきで眼鏡で鼻を挟み、改めてサフィルを見てふんわり微笑むロイは、やはり昔飼っていた犬にそこはかとなく似ている。


「不思議だよね。髪を弄られるの死ぬほど苦手なんだけど、君なら大丈夫だった」

「それは光栄だ」

「何が不思議かって、最初からなんだ」


 使用済みの湿った浴布を籠にまとめて放り込み、櫛は机に置いて、サフィルもベッドに腰掛けた。

 言葉の意味が理解できず、黙って軽く首を傾げて続きを待つ。

 ロイは曖昧に微笑み、いつもの癖で前髪をくしゃくしゃやろうとして、ふと思いとどまる。せっかくサフィルが整えてくれたのに、という自制心が働いたようだ。


 ぱた、とロイの手が膝の間に落ちた。


「君に恋をしていることに気付く前から、君が傍にいることが苦痛ではなかったんだ」

「……それが、不思議だと」

「だって本当に、見当も付かなかった。どっちが原因でどっちが結果なのか」


 サフィルは頷いた。

 結論は簡単だ。ただそれを導き出すには、お互い障害が多すぎた。


 自分には誰かを愛せないと信じ込み、これは戦略上の関係だからと割り切っていたロイも。

 王となるべく教育され、自由な恋を最初から諦めていたサフィルも。


 大胆な作戦は、完成された価値観の中で窮屈に肩をすぼめていた二人を解放した。


 ふと、ロイの顔が近付いてきた。

 サフィルは黙って瞼を閉じる。

 接吻けは優しく、数度。


「……良い香りだ。お前はいつも、花の香りがする」

「パウリナの精油だよ。母が定期的に送って来る。僕は常にこの香りに包まれていないといけないそうだ」

「大切にされているんだな」

「執着とも言うね。子供を全部亡くす訳にはいかないから」


 酷い言いぐさだ。唇や頬を触れ合わせたまま、思わず小さく笑いを零す。

 母親に対しあまり素直じゃないところも、子供じみている。愛情や敬意はきちんと抱いているようなのに。


「最後に会ったのは?」

「祖母の告別式だから、二年くらい前」

「そうか。思ったより最近だった」

「ここは母の故郷だからね。時々帰って来てるよ。城で一番大きな客間は今も母のためだけのものだ」


 どうやら嫌がっているのは王都へ帰ることのみのようだ。

 フランクに向かって言い放った、母親を拒絶するような言葉は、恐らく彼女もまた息子がアルス=ザレラの中枢へ戻ってくることを警戒しているため。

 まだ解決しきれていない問題が、そこに燻っている証。


 かつてロイが『ただの不運な出来事』と断じたちょっとした事件の全容が、そろそろサフィルにも分かってきた。

 だが本人が詳しいことを語ってくれないため、こちらから詮索することはできない。


 嘘をつかないと約束してくれた主君が、こう言ったのだ。原因不明の熱病に罹り、命は助かったが視力に障害が残ったため、祖父母の元で暮らすようになったと。

 妃として、サフィルはその言葉を信じる。


 不謹慎な考え方かも知れない。だがアルス=ザレラの王都で起きた『不運な出来事』のお陰で今、サフィルがロイの傍にいるのは事実だ。


「サフィル。何を考えている?」

「……お前のことだ」

「僕の?」

「いつもだよ。いつもお前のことばかり考えている」


 頭の中も、胸の内も、ロイでいっぱいだった。

 優先しなければならないことが他にあるからこそ、捨てなければならない想いに押し潰されそうになる。


 両頬をそっと包み込むロイの両手に、思わず身をすくめた。

 サフィルに触れるロイの指はいつも優しくて臆病で、くすぐったいような面映ゆいような、不思議な感覚を伴う。

 本当に大切にしてくれているのが分かる。愛してくれているのが分かる。知らなかった。こんなに強く心を占める感情を。


 唇を食むことに集中した。ほかのことを考えないようにした。

 が。

 両頬から首筋へと辿り降りてきた指が、きっちり留めている喉元の小さな紐ボタンをなかなか外せずにもたもたしているのがおかしくて、思わず吹き出してしまった。

 せっかくの甘い雰囲気が台無しだ。


「不器用にも程があるだろう」

「仕方がないだろ。苦手なんだ、こういうの。自分で着るのも、それから……脱がすのも」


 脱ぐのも、ではないのが興味深い。

 サフィルは片腕をロイの肩に置いて引き寄せ、もう片方の手でシャツのボタンを外しながら、ふて腐れてしまったロイの唇に軽く啄むように数度キスをした。


「笑って悪かった。お前は本当にお子様だな」

「子供扱いしないで欲しいな」


 ロイはサフィルの腰に腕を回してベッドに押し倒し、体の下に組み敷く。

 そして、決して己が子供ではないことをサフィルに証明してみせた。


 一番、素敵な方法で。

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