第2話 弱さと優しさ
ロイの懸案事項が、最近ひとつ増えた。
ここのところ、エルデ沖で不審船を見たという情報が多く寄せられている。
それらが海賊行為を働く前、まだ被害の報告がないうちから、ロイは警戒していた。
自分の眼で望遠鏡を覗き、サフィルの国との境界あたりを調べもした。
目撃された不審船はどれも単独の、南大陸の元交易船だった。仕事を失い、沖を漂っているだけ。
南は被害者になりたがっている。
次はどのような手段でちょっかいを出して来るか、策士は半ば恐れ、半ば楽しみにしていた。
不審船が多数浮かんでいる光景は不気味ではあったが、そこにまだ明確な南の意図は見えていない。
「……ふぅ」
ロイは大きく息を吐いた。
天窓から差し込む陽光を、眼鏡を外した目でぼんやり眺めながら。
敢えて日の高い時間に、浴室の大きなバスタブに湯を用意してもらって、ゆったり身を伸ばして浸かるのが好きだった。
浴室の天窓にのみ淡い色ガラスを用いた先祖の趣味は悪くない。浴室が白い湯気に満たされると、色ガラスでほんのり色づいた光のかたちが見えた。何もない空間なら一様に明るいのに、湯気の中なら窓枠の通りに影ができているのが分かる。
子供の頃この現象が不思議で仕方がなくて、研究のため頻繁に入浴していた。お陰で、今も風呂は嫌いではない。
何より頭が冴えた。
自分自身も無防備な格好にならざるを得ないが、浴室は閉ざされた、完全に私的な空間であり、周囲の雑音は限りなく排除される。
入浴中は、ものを考えるのに理想的な静寂を手に入れることができた。
使用人達も心得たものだ。
城主の衣服を脱がせたり体を洗ってやったりする必要はないと、既に理解してくれている。湯の支度だけをし、あとは放っておいてくれた。
ただし眼鏡を外さなければならないことと謎の熱病の再発は警戒していて、もしもの時いつでも介助できるよう、浴室内の異変に気付ける位置に常に人を置いている。
つまりロイの、入浴中の静寂は、実際にはかなり限定的なものだった。それでもじゅうぶん満足している。
「うーん……」
ひとつ唸ってから、鼻の頭まで湯に沈み、ぶくぶくと気泡を吐く。
突如生じた大きな波に、作戦通り並べて浮かべておいた船のおもちゃが隊列を乱した。あおりを横腹に食らって転覆したものもあり、両陣営入り乱れての大混乱に陥る。
そのさまが少し面白くて、手で渦を作るように湯をかき混ぜれば、バスタブ上に再現された海峡は世界の終焉を予感させる大惨事となった。
神にでもなったかのように、気ままに小さな海を弄ぶ。
翻弄されているのは、自分の方だ。
読み切れない。状況がどうにも、悪い方向に向いているようで気が気ではない。
湯が鎮まるのを待って、海賊船と軍艦を模したおもちゃを並べ直す。
本当の海賊はこんな風に、髑髏の旗印を掲げてなどいない。もう少し分かりにくくて、もう少し、問題の根が深い。
戦局を抜きにしても、北岸の港町の城主にとって彼らは頭痛の種だった。
依頼を受けて荷を運ぶより他の船を襲った方が手っ取り早く金になるため、数世代前まで海は無法地帯だった。
治安が良くなったのは内陸のアルス=ザレラが海をも支配するようになったお陰なのだと親族一同は胸を張るが、正確なところは分からない。
ただ激減はしたものの絶滅までいかないのは、ひとえに人の弱さゆえだ。
南大陸の主要な都市は、運河より西にある。
海賊がこの辺りの海域に留まっている理由は明らかだった。——運河を通る金がない。
食い上げて帰港もできず、二つの大陸の狭間に留まって悪さをしている。
イゼルアは運河を通る船に一切の特例を設けなかった。北大陸の裕福な船も南の貧しいそれも、一律に同条件で通航料を要求した。
平等であるがゆえに格差を広げてしまっている。
サフィルの祖国はサフィルと同じくらい高潔で、そして生真面目だった。
南大陸が北大陸との貿易に頼っている品が、生きていく上で必要不可欠な食糧などに偏っているのも問題だ。北の諸国には、わざわざ高額な通航料を払ってまで南に買い付けに行かなければならない必須のものは存在しない。
南にとって生命線とも言える穀類と、北には嗜好品でしかない貴金属や茶が、取引されている。
ロイは軍艦のおもちゃを指で弾いて海賊船にぶつけてみた。
呆気なく、髑髏の旗印の船は沈没する。だが弾みで軍艦も転覆した。
南が行動を起こす前、天秤は釣り合っていると思い込んでいた。
だがもしかしたら、あの頃に戻しただけでは根本的な問題が解決しないのではないか。本当の意味で南北の均衡を取るためには、違う何かが必要なのではないか。
ふとそんな考えが浮かび、ロイはばしゃばしゃと乱暴に顔を洗った。
イゼルアの王は、アルス=ザレラに救いを求めた。
ロイはそれに応じ、イゼルアの味方に付くことを決めた。
敵にすら同情してしまうのは、心の弱い己の悪い癖だと自覚している。
相手にどんな事情があったとしても、現に運河の安寧を脅かしていることとは別の問題だ。
脅威は必ず、取り除く必要がある。
***
「長かったな」
浴室を出ると、回廊の手前にサフィルが立っていた。
ロイはうっかり硬直してしまう。
「え、何してるの」
「いや。ここに立っていた使用人に、何をしているのか訊いたんだ。そうしたらお前を見張っていると言うから、交代した」
「えぇ……どうして君が」
「私が最も、この城で手の空いている人間だからかな」
サフィルが軽く首を傾げると、麗しい蜂蜜色の髪が肩にさらりと零れる。
相変わらず自分の価値を低く見積もるので、まだ拭いきれていない髪から雫が飛び散るほど激しく頭を振って否定した。
冗談であっても、己に居場所がないなどと思って欲しくない。
「君は僕の妃だ。妃であることが仕事なんだよ」
「……だったらここでお前を待つのも、妃の勤めと言って良いかも知れない」
意味ありげに微笑むサフィルが、難しそうな古書を小脇に抱えていることに気付いた。
書庫へは自由に出入りして良いと言ってある。暇潰しの本を取りに行った帰り、たまたま浴室に見張りがいることに気付いて声をかけたということか。
そこはかとなく気恥ずかしいのは、何故だろう。それに長いことこの薄暗い廊下で待たせていたのかと思うと申し訳ない。
「入って来れば良かったのに」
「うん?」
「ああごめん、何か違う趣旨に聞こえるね。別に一緒に入れば良いとか、そういう変な意味じゃなくて。待っていると教えてくれたら、すぐに出たのにって」
「いや。邪魔するのは悪い」
独りの時間は、二人の時間と同じくらい大切なのだ、と。
ロイを理解してくれているサフィルの言葉が優しい。
「ただひとつ」
「え、何?」
「髪くらい、しっかり拭いてから出てきたらどうだ」
「そんなの放っておけば自然に——」
心底呆れたと言わんばかりの大きなため息を吐いて、サフィルは、ロイの腕を掴んだ。
「な、何? 何?」
「おいで。拭いてやるから」
「大丈夫だってば!」
逆らえるはずがない。
ロイはしおしおと、サフィルに連行されていく。何より嫌いな『他人に身支度をしてもらう』ために。
だが相手がサフィルなのだと思えば、心は軽かった。
サフィルに触れてもらうのは好きだった。触れるのと同じくらい、心地良い。
「世話の焼ける主君だ」
「いや別に、世話を焼いてくれる必要はないんだよ。僕のことは気にしないで」
「そう言われても、気になるから仕方ないだろう。全く今までどうやって独りで生きて来たんだお前は」
「さあ……良く分からない。どうだったんだろうね」
きっと孤独に慣れきって、寂しいと思う感覚さえ喪ってしまった、空っぽの存在だったのだろう。
今となっては思い出すこともできなかった。こんなに大切な人と出会う前の自分を。
サフィルは回廊の反対側、南翼へ向かってすたすたと早足に歩く。大人しくロイは従う。
手首を引っ張られていたはずだが、いつの間にか指を絡めて手をつないでいた。
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