第五章 愛されたがりの因果律

第1話 境界線は心の中に

 風が変わると季節が動くのは、隣の国でも同じだった。

 頬を撫でる冷たい風に、季節の移ろいを感じる。見渡せばいつの間にかエルデグランツ城の眼前に広がる海も空も、城壁の背後に聳える北の山も、すっかり夏の色を忘れてしまっていた。


 サフィルの身の回りの世話をしている使用人達は、本格的に肌寒くなる前に長袖の服を用意しておくという仕事の徹底ぶりを見せてくれた。

 騎馬民族の意匠は、風の通り道が少ない。襟と袖をしっかり詰めるのが草原を駆ける者らの知恵だ。

 エルデ城市には祖国イゼルアに通じる海辺の文化も色濃く残っているのに、敢えてアルス=ザレラ風の仕立ての服を用意してくれたのは、使用人達の何らかの意図だろうか。


 城主の妃としてとても大切にされていると、サフィルは常々思う。

 そしてそのことに申し訳なさを感じる。

 エルデグランツ城での暮らしにすっかり慣れてしまっていたが、いつの間にか衣服まで誂えてもらって、また心苦しさが再発する。


「悪いことではないと思うよ」


 格好だけ騎馬民族に近付いたサフィルの戸惑いに、ロイは明るくそう答えた。

 バルコニーに持ち出した大きな望遠鏡を西の海に向け、軽く腰を屈めて覗き込みながら。

 鼻眼鏡は望遠鏡を覗くことに適していないらしく、レンズを一枚指でつまんで眼に当てているのが興味深い。


「君は捕虜や人質じゃないんだから。相応の扱いだ」


 ロイの選んだ単語に心当たりがありすぎて、サフィルは肩をすくめた。

 今の暮らしからいつまでも違和感が消えない理由の半分は、酷い扱いを受けると勝手に思い込んでいたことにある。そしてその誤解は、『嘘をつきたくないから秘密にする』主義のロイが最初に何も説明しなかったため生じた。

 そして、もう半分は——


「きっと冬物も用意してくれるんだろう。私は、いつまでここにいられるか」

「大丈夫。時が来たら君が城を出て行くことは、彼女達も理解している。その上で、割り切って妃のお世話を楽しんでいるんだよ」

「楽しむ? 仕事を?」

「祖父母が亡くなってずっと僕一人だったからね。つまらなかったと思う」


 ロイは望遠鏡から眼を離してサフィルを見、やや自嘲気味な笑みを見せてから、ふたたび視線を海の彼方へ向けた。

 深い色味の赤毛が、黄金色の午後の日差しを纏って甘ったるい飴色に輝いている。サフィルはロイの髪の色を、太陽の下で見るのが好きだった。恐らく初対面の印象が強いせいだ。


 くしゃくしゃの前髪を撫で付けているのを見たのは、あの一回のみ。頑張って堪えていたのだと、今は分かる。

 人付き合いが下手だと自負している城主は、余裕たっぷりに見えて実はかなり必死だったのだ。少しでも妃に良い印象を持ってもらおうと一生懸命、世間一般が思い描く理想の城主を演じていた。——その日の晩には諦めた様子だったが。


「つまらなくはなかったと思う。手を焼いただろうがな」

「ん?」

「当たり前すぎる生き方は退屈だ」


 再びロイがサフィルの方を向いた。ほんの少し驚いた貌をしてみせてから、いつもの、ふわっとした笑みになる。

 変わり者であると自覚していて、それを己の欠点だと思い込んでいるようだが、決してそうではない。

 二人で過ごす時間は心地良い。


「今の暮らしを楽しんでもらえているなら嬉しいよ」

「そうだな。この作戦が終われば二度と味わえないだろう」

「……実は今の状況は、僕にも読めなかった想定外の事態なんだ。初めてだよ、こんなに読み違えたのは」


 サフィルは深くゆっくり頷いた。

 ロイの言葉を心の中で繰り返しながら。


 もちろんサフィルにとっても想定外だった。偽りの関係が本物になってしまうなどと。


「僕に恋は無理だと思っていたし、君に好かれる要素もないし。まあ、だからこそこんな策を打とうと思ったんだけどね」


 政略結婚の相手に、お互い本当に心を奪われてしまうという想定外。

 初対面からロイは誠実で、妃のことを大切にしてくれた。作戦上の演技がいつ本物の愛情へ変わったのか、サフィルにも分からない。

 そしていつ、自身の中にあるロイへの感情が色づいていったのかも。


 いつの間にか、もう離れたくなくなるほど、惹かれていた。

 不可能だと分かっているのに。


「もしお前が……いや……どちらでも構わない、どちらかが、あるいは両方が、相手に本当に恋をしてしまう可能性というものを考慮していたら、作戦を実行しなかったのか?」

「他に効果的な手段が思い付かないから、それでもやると思う。ただし、君との距離をもう少し取るだろうね。僕達はお互い、傍にいることに慣れすぎた」


 ほろ苦い笑みを浮かべてから、ロイは眼を望遠鏡に戻した。


「今がずっと続けば良いのにな……」

「無理だ」

「分かっているよ。作戦を立てた僕が一番」


 サフィルはロイに近付き、頬に頬をぴたりと付けた。


「何を見ている?」

「線」

「線?」


 ロイが頭をほんの少し横にずらしてサフィルに望遠鏡を譲ってくれた。

 ちょうど良い位置に接眼部があった。自身の長身に合わせず、少し低めに調整していたのは、サフィルのためだったのだと気付く。


 覗き込めば、丸く切り取られた空と海と、遙か奥へ続く起伏の激しい断崖状の海岸線が見えた。

 あの辺りは既にイゼルアの領土だ。

 手が届きそうなほど、近くに見える。


「遠い昔、アルス=ザレラはエルデ城砦を陥落させた後、なぜか北へ引き返した。ここまで来ておいて、イゼルア侵攻を諦めた。僕にはその理由が分からない」


 まだ頬をぴたりとくっつけたまま、ロイが呟く。

 サフィルは頷いた。自分が今眺めている辺りに遠い昔、ロイの祖先が国境という見えない線を引いた。

 イゼルア国とエルデ城砦の間にあった境界は、エルデが大国に呑み込まれた後もそのまま、現在まで動いていない。


「我が国では、陸の側が急峻な地形をしているため騎馬民族を寄せ付けなかったと言われている」

「こっちでも大体そんな認識だね。でも、本当にそんな理由で諦めたのかな。大陸の端はもうすぐだったのに。別大陸との接点が目の前だったのに」


 大まかに、サフィルはロイの言わんとしていることを把握した。

 何故、北部大陸の国は運河を欲しなかったのか。


 軍総帥は、イゼルアの存在意義を認めてくれている。一国が維持し他国は通航料を払うという現在の構造こそ理想型と考えている。

 現状維持が最良である——ではその『現状』はどのようにして完成したのか?


「お前の祖先に、お前と同じくらい賢い者がいたんだろう」

「今の状況を予想したんだとしたら、凄いよ。僕なんか到底及ばない」


 ロイが頬で押し返して望遠鏡を奪い返そうとするので、サフィルは全力で抗った。

 しばし接眼部を巡って頬を押し付け合う。


「……こうして君とずっと一緒にいられたら良いのに」


 ふとロイが身を離し、寂しい声で呟いた。


「不可能なのだろう?」

「理論上、手は一つある」

「興味深いな。是非聞かせて欲しい」

「簡単だ。イゼルアを陥落させれば良い。そうすれば君が手に入る。……君の祖国ごと」


 確かに簡単だ。そして不可能だ。

 ロイにそれが『できない』ことはサフィルにだって分かる。

 だからこそこうやって見えない境界線を眺め、二つの国が二つのまま存在していることを嘆く。


「つまり今度こそ本当に私を捕虜か人質にする訳だな」

「いや。君は城主の妃のままだよ。ここにいる限り好きなだけ贅沢をさせてあげるし、家族に会いたくなったらいつでも帰してあげる」

「悪くない」

「本当にそう思う。本当に……そうできたら良いのに」


 侵略をする側の総帥にも、される側の王太子にも、お互いの国を相手に戦争を始める意志は全くない。

 それは政略結婚による同盟とは真逆の行為。多くの悲しみを生み、そのことで心優しい策士が酷く胸を痛めるところまで容易に推測できる。


 望遠鏡に目を戻す。ロイが頬をくっつけて奪いに来るので阻止する。


「あ、そう言えばもう一つ手があった」

「うん?」

「逆転の発想だよサフィル。君がアルス=ザレラに勝てば良い」


 実に簡単そうに言われたその手段に、思わずサフィルは吹き出した。

 ——不可能にも程がある。

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