第9話 戦略から恋は始まる

 エルデグランツ城で最も高い位置にある西塔の先端には、何に遮られることもなく朝日が差し込む。

 元は物見塔として三方向の海、それに背後の山に睨みをきかせる場所だっただけに、見晴らしは良い。最高の風景が独り占めできる贅沢な部屋だと、ロイは思っている。


 城砦都市エルデは遠い昔、北の山を越えて攻めてきた平原の狩猟民族に、ほぼ無抵抗のまま降伏した。

 そうすれば街に危害を加えないという条件で。

 お陰でエルデグランツ城も破壊を免れた。北方の脅威だった騎馬民族は心強い味方となり、海の治安も安定し、見張りのための場所は居心地の良い子供部屋へと変貌を遂げている。


 ロイの祖父母は、傷付き心を閉ざした孫に対して誠実だった。

 そして、判断が適切だった。

 一番高い場所にある、一番景色の良い、日の出も日没も見られる快適な——そして完全に独りになることのできる最高の部屋を用意してくれた。


 祖父が亡くなり、城主の仕事を引き継いでも、そのための部屋へは移らなかった。

 死ぬまで子供部屋にこもる気満々でいた。

 子供の頃からロイを包み癒してくれた心地良い空間が、物足りなく思える日が来るなんて、想像もしていなかった。


 外の明るさに目覚めたロイは、腕の中に妃がいないことにどうしようもない寂しさを覚え、枕に前髪を押しつけたまま苦笑する。

 一度でも触れてしまえば、それが当たり前であると錯覚してしまう。無意識に求めてしまう。あの温もりと、甘やかな香り、穏やかな声、そして身も心もひとつに蕩ける瞬間の喜びを。


 ゆっくりと、少しずつ、ロイの中のサフィルが変わっていった。

 気付かないうちに何より大切な存在となっていた。

 お互い、その感情がもたらす悪影響を理解している。だからもう二度と触れないと決めたのに、たった数日でこんなにも心が渇く。


 恋をするという人間の脆弱な部分をずっと理解できずにいた。

 だがその瞬間は案外あっさりと訪れて、抵抗できずに落ちてしまうものだ。


 そして、ひとたび落ちてしまえば元に戻すのは難しい。


「……ふむ」


 身を起こし、ひとつ息を吐いてから、まずは手探りで眼鏡を探す。

 そしてそのまま部屋を出る。

 浴室に、城主の身支度のための湯と洗面道具、それに新しい着替えなどが用意されている。体に触れられることを嫌がる子供に手を焼いた使用人が、祖父と相談して始めた。

 そんなに嫌なら自分一人でやりなさい、と。


 祖母は常々、改めさせようとしていた。使用人の仕事を奪う悪い行いだからだ。自分の身の回りのことを自分でやるのはロイにとっては当たり前のことだが、王族には受け入れられない。

 子供の頃から言われ続けていた『普通』というものを、ようやく意識し始めている。やはりサフィルの目から見ても奇妙だろうか。普通の城主の方を好ましいと思うだろうか、などと。


 身支度を終えて食堂の間に行けば、テーブルにはいつものように親族から手紙が届いている。

 王都の近況や噂話から国じゅうの情勢に至るまで。何が必要になるかまだ分からないからとりあえず全部に目を通して頭に入れておく。


「おはよう、ロイ」

「おは……よう」


 やがてサフィルが現れてテーブルの向かいに座る。

 手紙から顔を上げてその姿を見、一瞬、言葉に詰まった。


「……おかしいか?」

「全然」


 サフィルが少々、照れ臭そうにしている。

 アルス=ザレラ伝統の、喉元と手首をきっちり締めた細身の服を着て。


「似合わないんだろう? そういう貌をしている」

「違うよ。逆だ。君の髪と肌の色は、内陸には少ないから、とても新鮮で……でもどうして」

「手持ちの服ではもう肌寒いだろうと言って、用意してくれた」


 サフィルに対し、アルス=ザレラの文化を強制するつもりはなかった。どうせ期限付きの共同生活なのだし、無理に馴染ませる必要はない。

 だが作戦が長引けば当然、用意したものが足りなくなる。


 高温多湿な海岸沿いに適したゆったりとしたシャツも良いが、寒冷地の騎馬民族が生み出した体に添う仕立ての衣服も悪くない。サフィルは均整の取れた体型をしているから、長い腕や細い腰が強調されてより綺麗に見えた。内陸人の好む渋い色合いも、サフィルの華やかな美しさを際立たせる。

 などと考えていてはっと我に返り、手紙に意識を戻す。


 あの晩はただ、己の失態だと落ち込むサフィルに寄り添いたいだけだった。

 決して下心はなかった。——はずだ。

 途中からはもう、何も考えられなかった。肌を重ね、ひとつになること以外。それが何故かとても自然で、当たり前のことのように思えた。


「ロイ、どうした?」

「どうって? 別に何も」


 なんとか動揺を抑える。恐らく抑えられてないだろうが、頑張って動揺していないふりをする。

 一線を越えてしまってからというもの、どうも妃の顔をまともに見ることができない。手元の手紙を畳んで片付けることに集中しながら、内陸風の格好をしているイゼルアの王太子をちらちらと横目で盗み見る。

 テーブルに頬杖をついて、サフィルが曖昧に微笑みつつこちらを見ていた。心臓が止まりそうになる。


「夏物しか持ってきてなかったんだね」

「と言うより正直、何を持って来れば良いのか分からなかった。突然だったし、人質扱いなら取り上げられるだろうから適当に、手元にあったものを箱に詰めただけで」

「それは申し訳なかった。急いでいたのと、漏洩を防ぐためと」

「分かっている」


 もし早い段階で作戦をイゼルアの王太子の耳に入れれば、拒絶されてしまうだろう。

 自分が結婚相手として相応しくないことくらい、ロイは良く理解している。今更そこに傷付きはしないが、あらかじめ拒否感を持たれてしまうのは良くないと判断した。


 嫌がっているのを無理矢理、城へ拉致する訳にもいかない。どこかからそんな噂話が漏れれば、王子と王子の婚姻で二国を結ぶ作戦は水の泡だ。

 だから、何も教えないまま連れて来た。そしてエルデ城市の市民の前でお披露目し、引き下がれない状況にしてから、事実を伝えた。


「……酷いことをしてしまったと思っている」

「必要な措置だったんだろう?」

「先に求婚して、振られたら、その段階で作戦が頓挫するからね。……従兄弟達にとっては永遠の笑い種になるだろうけど」

「いきなり隣国の王子に結婚を申し込まれたら、私でも何かおかしいと思うだろう。時間が欲しいと答えるのは当然だ」


 サフィルが苦笑する。

 ロイは平和そうな内容の手紙の束をまとめてテーブルの脇に退けた。


「ねえサフィル。もし僕があらかじめ全部話したら……君が、この作戦の全容を最初から知っていたら、協力してくれたかな」

「お前の求婚を受け入れたかどうかという意味なら——」


 朝食が運ばれてきた。用意される間、サフィルは発言を控える。

 その間がもどかしい。


「私は、祖国のため力を尽くすことに躊躇いはない」


 配膳が終わり食堂の間に二人きりになってから、サフィルはきっぱりと断言した。

 すがすがしいほどサフィルらしい返答だった。そうだよねとしか返せない。

 王太子としての胆の据わり具合は、ロイも良く知っている。サフィルにとっては同じなのだ。人質にされることも、妃となることも。


「お前の中にある善の部分は、しばらく付き合ってみないと分からないだろうから、最初から歪んだ認識を持たずに妃になったことは正解だったと思う」

「え?」

「結婚というかたちが最初にできていると、そうあるべきだと意識してしまうだろう? 妃の役目は明確だ。が、お前は私に対しずっと誠実だった」

「ええと……ごめん」

「何への謝罪なのか分からないが、私は今、城主の妃であることを誇りに思っているよ」


 ほんの少し意地悪な表情をしてみせてから、サフィルは食事の前の祈りを始める。

 ロイは半ば呆然と、サフィルの頬に落ちる睫毛の影を眺めていた。

 何しろロイは、自分が善人だという認識がない。妃にとって良き主君であった自信もない。たくさん騙し、傷付けてきた。


 美味しそうな匂いに鼻を擽られて空腹を意識し、慌てて神に語りかける。

 ——素晴らしい人物と出会わせてくれたことへの、心からの感謝を。






— 第四章 了 —

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