第7話 夜明けを共に  ※

 東の空が僅かに明るい。

 ずいぶん早く目が覚めてしまった。日の出までまだだいぶ時間がありそうだ。

 サフィルは持ち上げた頭をふたたび枕に戻した。


 使用人が気を利かせて枕を増やしてくれたのは、いつ頃だったろうか。

 妃の、一人で寝るには大きすぎるベッドを、いずれ城主が訪ねるはずだと。その頃は無駄なお節介だと思ったものだ。

 実際——無駄だった。

 初めての朝を、二人は、緩く抱き合ってひとつの枕で迎えている。


 前髪が触れ合うほど近くにあるロイの寝顔を眺める。

 安らかな寝息を立てるその顔は、あどけない印象だった。


 視力の良くないロイはいつも眉間に皺を寄せて眼を眇め、力を入れて睨み付けるようにものを見る。そのせいで常に険しい貌になり、不機嫌そうな、実年齢よりだいぶ上の気難しい男という印象だった。

 特別に童顔という訳ではないのに、力の抜けた顔はやや子供っぽく見える。


 周囲が用意した王への路を、何も考えずただ歩いていただけのサフィルには、ロイの経験した苦労が想像さえできない。

 年下なのに、ロイはずいぶん大人だった。強靱さも優しさも、全て。


 昨夜のことを思い出すと、気恥ずかしさばかりが込み上げる。

 最初は、失言に気落ちする妃を言葉だけで慰めるつもりだったのだろう。だが、それだけでは足りないことに気付いてくれた。

 サフィルにはロイが必要なのだと理解し、そして恐らく、ロイもまたサフィルを心から必要としてくれた。


 彼は誠実だった。

 伴侶と初めて体をひとつに交える時でさえ。


 不思議なことに、今こんなにもロイが愛おしい。

 年齢、立場、背負うものの重さ、そして頭の良さ。二人を比べる物差しはいくらでも用意できるのに、その全てが無意味に感じた。

 ただ、ロイ個人が愛おしい。


 くしゃくしゃの前髪をそっと撫でてやっていると、掠れた呻き声を上げて、ロイが覆い被さってきた。

 そしてそのまま組み敷かれる。

 心地良い重さに昨夜を思い出して、サフィルの体がずぐんと重く疼いた。


「起こしてしまったな。悪い」

「……いや起きてた……」

「私に嘘をつかない約束だろう?」


 朝の挨拶のキスは、次第に深い愛撫の接吻けへと変わっていく。

 サフィルはロイの首に両腕をかけ、ロイは枕の横に肘をついて上体を支えながら。

 ぴたりと重ねた素肌に、互いの熱を感じる。


 体の奥の、サフィル自身でさえ触れることのかなわない場所が、ロイを求めている。

 昨夜はただただ苦しかった。圧迫感に呼吸さえ難しく、ロイにしがみついて堪えることしかできなかった。

 意識の飛びかけた最後の方でようやく、今まで知らなかった幸せで満ち足りた感覚を味わったような気がした。あれは精神的な充足だと思っていたが、どうやら違ったようだ。


 体が覚えている。与えられた感覚を。

 苦痛は一晩で忘れてしまい、その影に隠れていた甘い疼きだけが残っている。そして無意識のうちに、もう一度欲しいと熱を帯びる。

 あの切なくなるようなひとときを、また味わいたいと思っている。


 ロイは実に巧みに、サフィルの知らない感覚を目覚めさせた。たった一度でサフィルの体を作り替えてしまっていた。


「サフィル。平気?」

「私の心配は、しなくても良い。体は頑丈な方だ」

「うん……だけど本当に、無理をして欲しくないんだ」


 首筋の辺りを軽く吸われる僅かな痛みさえ甘く心地良い。


「私が、して欲しいと言わなければ、ここから先はおあずけという訳か?」

「あ、ええと、そういう意味じゃなくて。ただその、君も欲してくれているという想定をしていなかったから」

「何を言っているんだ。お前が教えたんだろう? お前が、私を、こうした」


 ここまでしておいて『想定していない』と言われても困る。

 この期に及んで優しすぎるロイがおかしかった。こんな状態で放置される方が酷だと言うのに。


「ごめんね。……好きだよ」


 飾り気のないまっすぐな言葉が胸を打つ。

 私も。そう言えないままサフィルは息を詰めた。

 昨夜、泣いて慈悲を乞うほど深く強く愛された。あの鮮烈なひとときを思い出し、背筋がぞくぞくする。


「サフィル」


 優しく、どこか申し訳なさそうに名を呼ばれ、繊細な指で唇を撫でられる。

 くすぐったさに顎の力が抜けて、息を詰めていたことに気付いた。はふ、とひとつ浅い呼吸をする。


「息をして。ゆっくり。力を抜いて」

「あ……っ」


 今度は、甘ったれた声が止まらなくなった。

 息苦しさの方が勝ち、もう口を閉じていられない。自然に、濡れた声が漏れる。


 強い圧迫感。受け入れることにまだ慣れていない体が限界を訴え、ぽろぽろと涙が零れる。

 ここで下手に手加減をする方が苦しいだろうという判断か、それとも己の欲求を抑えられないのか、ロイは意外と強気だった。


「いっ……あ、ああぁっ!」

 

 重い衝撃がサフィルを貫いた。

 今、二人の体は深く深く繋がっている。

 そこでロイは激しい動きをやめた。ゆるゆると馴染ませるような優しい刺激が物足りなくて、もっと良くして欲しいと、あさましいことを願ってしまう。


「う、ごい、て」


 首にしがみついてそう乞えば、じっとり汗ばむ喉が上下し、ロイが大きく息を呑んだのが分かる。

 我慢してくれているのだ。サフィルを傷付けないように。

 だがその気遣いが無意味どころか逆効果だと、既に何度も説明している。


 サフィルは、愛されたいと願っていた。

 そして——愛し合う行為は決して、苦痛ばかりをもたらすものではないことも、もう理解していた。


「酷くしても、良い」

「サフィル……人が死ぬ気で堪えてるのに、君は、本当に……」


 何を堪えていたのかは、ロイは行動で示した。

 この期に及んでまだロイは、妃へ最大限の気遣いを忘れていなかったらしい。サフィルの主君の本気は、思ったよりも——激しかった。


 サフィルはただ翻弄されるのみ。楽器のように巧みに奏でられ、甘く囀るのみ。

 身も心もすぐに蕩けた。二回目は、初めてよりもだいぶ早い段階で、喜びを拾えているらしい。


 時折ロイはサフィルの名を口にした。好きだよと、何度も言ってくれた。

 その声がとても愛しくて、幸せで、理性を保った状態ではとても口に出せない恥ずかしい言葉をついサフィルもたくさん漏らしていた。


 サフィルはただ弄ばれるだけだった。押し寄せる、強すぎる感情の奔流に。

 苦痛だとは感じない。ただ幸せで、満たされていて、それでいてどこか切なくて、あまりにも多くの受け止めきれないほどの思いがこみ上げる。

 そのことに言い知れない歓びを感じ、サフィルはぎゅっと、ロイに抱きつく。


 自分以外の誰もが当たり前に理解していた、愛し愛されるということの意味を、サフィルは初めて知った。

 こんなにも、満ち足りている。



 ***



「……ねえ、サフィル」


 疲れた体を重ねて、乱れた呼吸を鎮めたあと。

 少し落ち着いて、冷静に頭が回り始めたであろうロイが、いつもの調子で切り出した。


「何だ」

「もうじき朝の支度が始まる時間だけど、僕はここにいても良いのかな」


 そうして零れた呟きは、あまりにも想定外のものだった。

 城主ともあろう者が、どうやら使用人に対して気まずいようだ。


 関係を結んでしまったことを後悔する言葉でも口にするのかと、ほんの少し不安だった。ふ、とサフィルはうっかり笑ってしまい、そして息を詰めた。

 体に力を入れると、さっきまでロイを受け入れていた場所が甘やかに疼く。

 つらい表情はできなかった。きっとロイは必要以上に気に病む。それに、決して不快な感覚ではない。


「好きにすれば良い。体を拭く湯は使わせてもらえるだろうし」

「それはそうなんだけど……恥ずかしいよ」

「安心しろ。向こうは仕事だ。全て承知の上だよ」

「僕が戦略上必要な措置より感情を優先したのは今回が初めてなんだけどなぁ」


 枕に前髪を押しつけて、策士が何かぼやいている。

 ロイ以上にロイを理解している使用人は、かなり早い段階でこの展開を予期していた。


 感情が知性を越えてしまう日が来ることを予期できなかったのは当の本人達、城主とその妃だけだったようだ。

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