第6話 正しい行い、正しい思い
王族旗を掲げる帆船がエルデの港を出て行き、これでやっと平穏な日々が戻ってくるかと思ったのに、出航を見送った辺りからサフィルの様子がおかしい。
とても落ち込んでいるように見えたし、夕食も喉を通らないようだった。
他人の気持ちを察することが苦手なロイにも分かる。フランクが何か余計な置き土産をしていったようだ。
これからの戦略について、考えなければならないことは沢山ある。
が、サフィルのことが気になって集中できない。
ロイは意を決し、部屋着の長いガウンを羽織った気楽な格好のまま、塔を下り南翼へ向かった。
ノックをして、扉を薄く開く。
南翼二階の、エルデグランツ城で最も心地良い部屋に、まだ僅かな灯りが点っていた。
部屋の様子は祖父が暮らしていた頃とほとんど変わっていないのに、不思議と、雰囲気が明るい気がする。
それにほんの少し、甘くて良い香りがする。
「こんな時間に、ちょっとごめん」
「……ああ」
ベッドに腰掛けてぼんやりしていたサフィルが、少し驚いた様子で顔を上げた。
髪を解き、服も着替えて、横になる支度だけはしている。が、横になりたくないようだ。
ガウンのポケットに両手を突っ込んで、扉の傍に寄りかかって、ロイは言葉を探す。様子がおかしい原因を知りたい、だが語らせることで更に落ち込むようなら訊くべきでない気もする。
他人を慰めた経験がほとんどなく、どう会話を続ければ良いのか分からない。
「どうした?」
「いや。君の様子がおかしいのが気になって」
「それは……すまない。言っておくべきなのは、分かっていたんだが」
話す気はあるようだ。
ロイはベッドまで移動し、サフィルの横に腰掛けた。
「フランクに何か言われたのかな」
「いや。逆だ。私の方がうっかり口を滑らせて、余計なことを言ってしまった」
「どんなこと?」
片足をベッドに上げてサフィルにもう少しだけ近付く。
綺麗な横顔を隠す髪を梳き上げて、耳にかけてやる。
ふさぎ込んで、悩んで、憔悴した顔で、それでもサフィルは微笑もうとしてくれた。
「わざわざ荷物を運んだと言うから」
「うん」
「今回は正しいと。つい」
「……うん」
「そうしたら、前回は嘘だと気付いてたのか、と」
「なるほど」
「私は頭が悪い。なぜあいつが以前、嘘をついたのか分からない。お前がそれを追求しなかった理由も。……私は酷い過ちを犯してしまったのではないのか?」
尻をずらしてもう少しサフィルににじり寄り、そっと肩を抱き寄せる。
妃が身を預け、甘えてきたので、蜂蜜色の髪に軽くキスをする。
「君の認識を、二つほど訂正するよ。まず、君の頭が悪いなんてことは決してない」
「そこからか」
「重要な方から説明すべきだろ? それから二番目。あいつはとっくに僕が気付いていることに気付いていた」
ロイの胸にすがり、サフィルがほんの少し身を強ばらせた。
背に回した腕にほんの少し力を入れ、髪に頬を埋める。
「だから気にする必要はないんだ」
サフィルの手が、ロイのガウンを掴む。肩口に顔をすり寄せる仕草が愛らしい。
「お前達の駆け引きが雲の上すぎて、私には付いて行けない」
「大したことじゃない。お互いある一点の理解があるかどうか。それだけ。……そう言えば君が気付かせてくれたんだったね。あいつが——フランクが南部大陸と手を組んでいるって」
びくんと小さくサフィルの肩が跳ねた。
顔を上げ、青玉の双眸が零れんばかり眼を見開いて驚きを隠せない様子で見つめてくる。
「わ、私が、何を」
「僕の視野が狭くなっていることを教えてくれた。……いや元々僕は、眼鏡の焦点の合わない距離が見えないんだけど。君のお陰で僕は『北大陸の地図』上にフランクの足跡を追う無意味さに気付いたんだ」
「それは……私が意図して言ったことではないし」
ロイはサフィルの頬に触れた。
「君は度々、自分は愚かだと言う。けど僕はそうは思わない。確かに戦争という分野においては、僕の方が少々ものを知っている。でも君には、僕に見えないものが見えている。……視力のことじゃないよ。僕に必要なのは、同じものを持っている人ではなく、足りないものを補ってくれる人なんだ」
憔悴しているサフィルを励ましたいだけなのに、これでは口説いているようだ。
人の心を動かす話術については、才能を受け継がなかった。王族に必須の能力と分かっていたが磨く気にもなれなかった。
こんな時に。たった一人の大切な人を元気付けることさえ難しい。
「……ごめん。いつも気持ち悪いこと言って」
「いや。真面目に私の心配をしてくれているのは、伝わってくる」
「とにかく大丈夫だから。ね。何も気に病む必要はない」
こくりと小さく、可愛らしく頷き。
サフィルがロイの首に両腕を巻き付け、抱きついてきた。
いつ頃からだろうか。
美しく聡明な妃が、愛しいと感じられるようになったのは。
それぞれ別の運命を背負った者同士。このままずっと一緒にはいられない。分かっているはずなのに、心が理解を拒む。
いつか別の道を歩む時のためにも、今ここで踏み留まらなければならないのに。
親密になるほど、別れがつらいのに。
いつの間にか、接吻けが自然に交わせるようになった。
柔らかな唇を食むうちに、じっとりと体の芯が熱を帯びて来る。
「……サフィル」
唇を離して名を呼べば、長い睫毛に縁取られた海の色の大きな眸をぱちりと見開く。
思わず大きく息を呑んだ。初めて会った時とても綺麗な人だと思ったが、その印象は今も変わらないどころかどんどん強くなっている。
本当に、綺麗だった。
——欲しい。
強い感情が衝動的に頭をもたげ、そのことに自分で驚く。
君が、欲しい。
「時に正しい行いと正しい思いは相克するんだ」
「急に何の話だ?」
「つまり、僕は今すぐ自分の部屋に戻るのが唯一論理的な行動なんだけど、感情的には、そうしたくない」
サフィルは小さく頷いてくれた。
ロイの胸を掻き毟る葛藤を、理解してくれたようだ。
「それで、お前はどちらを選ぶんだ?」
「帰らないとね。君を傷付けないって約束したから」
「……今のは傷付いた」
ここが、と。
サフィルが己の胸に手を置く。
驚きのあまり心臓が止まるかと思った。
すぐに意図を理解する。
もし仮に、ロイと同じ感情をサフィルも抱いてくれているのなら、ここで引き返せば妃を辱めてしまうことになる。
全く気付かなかった。大切にしようとして、逆に酷く傷付けてしまう可能性に。
「どちらが厄介だと思う?」
「そうだね……たちが悪いのは、心の傷の方だろうね」
「だったら、どちらを選ぶのが正解か、賢いお前なら分かるだろう」
「……だけど」
「心配するな。お前がしてくれることで私は傷付いたりしない」
かつての城主の部屋は広く、灯りがじゅうぶんではない。それでもサフィルが、頬を染めているのは見て取れた。
ロイも顔の熱さを自覚している。恥ずかしい思いをさせないためにも、ここは大袈裟に反応しない方が良いだろうが、残念ながらそんな余裕はない。
抱き寄せて、首筋にキスをする。秘やかな香りが体の芯を炙る。
くすぐったそうにサフィルが身をすくめる。
「ごめんね」
「お前はいつも謝ってばかりだな。別に、謝罪が必要なことではないだろう」
「ああ……これは、癖かな。自分が悪いことにしておいた方が楽だから」
「私に対して気を遣いすぎだ」
髪を触られるのが大嫌いだったはずなのに、サフィルの指が心地良い。
ずっと悩んでいた。どうしてサフィルだけは特別なのか。とても美しくて聡明で教養があり、非の打ち所のない素晴らしい人物なのは確かだが、それだけではない気がしていた。
唇に頬に瞼に首筋に、お互いの唇で触れ合いながら、ロイはようやく納得のいく結論を己の中に導き出していた。
きっと、恋をしてしまったからだ。
初めて妃と顔を合わせたあの日。真夏の日差しの下、二人を祝福する歓声と万雷の拍手の中で。
こんなに幸せを感じるのも、こんなに悩まされるのも、それは全てサフィルのことが好きだからだ。
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