第5話 妃のあやまち

 存在しないものとして扱うこと。

 自由奔放な従兄弟にさんざん悩まされてきたロイが出した、フランクへの最善の対抗策がそれだった。

 実際にロイも、城の使用人達も、必要最低限度に相手をして後はほぼ無視している。そして不思議なことに、フランクもそんな扱いを受け入れていて、特に気分を害している様子はなく勝手気ままに徘徊している。


 サフィルも、フランクのことを気にしないよう努めた。

 が、顔を見れば情熱的に愛を語り始める色男を、無視しきれずにいる。

 ロイがいてもお構いなし。揶揄っているのか、本気でサフィルを口説き落とそうとしているのか、分からなくなってくる。


 ただ迷惑で扱いに困るだけで、心が惹かれることはなかった。

 言葉の熱量はフランクの方が遙かに上だが、どれもこれも上滑りして心に響かない。

 どれだけ沢山の美辞麗句を重ねても、ロイの一言が持つ重さに到底及ばない。

 結局は受け取る側次第なのだ。信用できない人間が並べ立てる愛の言葉は、やはり信用できない。


 眸の奥底に暗い闇を宿すフランクの言動全てを、サフィルは警戒していた。

 唯一、邪険に扱われても無視されても全くへこたれず陽気に愛を説いて来る精神力だけは、尊敬できると思った——悪い意味で。


「それで、いつ出て行くんだ?」


 夕食が済み、酒器のみを残してテーブルが片付けられた頃。

 サフィルの青い双眸にアルス=ザレラ王家に伝わる伝説の『青玉ザフィル』を引っ掛けて、この世で最も美しい宝物であると熱心に褒めそやすフランクの話の腰を、ロイが乱暴に折った。

 これだけ雑に扱われても嫌な顔ひとつしないのが第六王子の剛胆なところだ。即座に、意識を従兄弟の方へ向ける。


「まあ待て。旅には支度が必要だ」

「そう長旅でもないだろ。運河を越えて大洋に漕ぎ出す訳でもあるまいし」

「ふむ。そういう冒険にももちろん、憧れはある。海岸沿いをうろうろするだけではつまらんからな。……そうだ。どうですザフィル、よろしければ俺の船で南北大陸一周と洒落込みませんか」

「何もよろしくない」


 どんな話題でも即座にサフィルを口説くことへ繋げてみせるのは一種の才能だった。

 サフィルが反応するより先に、ロイがぴしゃりとフランクを叱る。


「だいたい、サフィルの名前が言えないまま言い寄るなよ」

「ふうん? じゃあ、正しく言えれば言い寄っても良いのか?」

「良い訳がない」


 ひとつしかない玩具を取り合う子供の、他愛ない喧嘩のようだ。

 実際にやっていることは、運河の安寧を巡る世界規模の攻防なのだが。


 サフィルには、祖国の後ろ盾としての婚姻相手に、フランクを選ぶ理由が何一つ思い浮かばない。

 どれほど愛の言葉を重ねられても。

 どれほど高位な人物だとしても。


 ロイは人間的な魅力において勝っている。

 とても不器用でありながら、それでも誠実に、懸命に妃に向き合ってくれている。優しすぎてもどかしくすら感じるほど。


 サフィルの心はすっかり固まっているのに、本気なのか戯れか、二人が奪い合いをしているのが見ていて面白い。


「申し訳ないがフランク卿、私はここにいることを選ぶ」

「分かっておりますとも。南が手を引かない今、まだ動くべき時ではありません。ああ何と美しい献身! 全てが収まってからで結構です。愛の船出とまいりましょう。ご存知ですかな? 南大陸の西岸には——」


 酒器をテーブルの奥に押しやって、ずいと身を乗り出して、熱く語り始める。

 呆れるほど爽やかな笑顔で。

 うっかり口を挟んでしまったことを軽く後悔しながら、サフィルは眉間を押さえた。何をどう言っても、この男は引かないだろう。


「もういい加減に諦めてくれ。フランク」


 うんざりとした声音でロイがぼやく。と、サフィルに見せたい海の景色について語っていたフランクがぴたりと口を閉ざした。

 不気味なほどの静寂が、食堂の間を満たす。


「……いや。諦めるつもりはない」


 ひりつく沈黙の後、そう断言したフランクの榛色の眸には、いつもより濃い闇が暗く淀んで見えた。

 この男の目的はサフィルの愛ではない。

 ただ従兄弟の婚姻を邪魔したいだけでもない。


 もっと何か別の目的で近寄ってきている。そうとしか思えない、暗い眸だった。



 ***



 王族の旗を掲げる帆船が、出航準備をすすめる。

 城主が全面的に支援するので、必要な物資は素早く揃った。しばらく寄港する必要がないほどの食糧と水、特産品の果実酒や魚の塩漬けなどが、甲板下の貨物室を埋めていく。

 それはロイの、従兄弟への餞別であり、そして早く去れという無言の圧力でもあった。


 五日が経ち、ようやくフランクが重い腰を上げる。


「本当に? 本当に一緒に来てはくれないのですかな?」

「……何度そう言えば良いんだ」


 出立の瞬間まで、フランクはサフィルを口説く。

 こんな風に熱心に求愛されれば、中にはうっかり絆されてしまう者もいるだろう。サフィルが心を強く持てたのは、ロイがいたからだ。

 どちらを信じれば良いか、検討してみるまでもない。


「またしても、あなたの心を変えることができなかった……」


 桟橋には、主の乗船を待つ美しい船。

 ロイが港の働き手に声をかけられ、そちらに手を取られた隙をフランクは逃さない。

 サフィルの手を取り、眸をじっと覗き込む。その熱量に、気圧される。


「いい加減、分かって欲しい。戦略上、私はエルデ城主の妃でいる方が有利なのだ」

「それは分かっています。でも心は別ですよ。愛しています、ザフィル」


 この期に及んで名前が正しく発音できていないせいで、誠実な愛の言葉が台無しだった。これでは、どんな言葉で口説かれても落ちる訳がない。

 名前を口にされるだけで、目の前の相手が嫌いになる。


 フランクが『戦略上の主君』でいたがる理由が分からない。

 まるで本当にサフィルを愛しているかのような口ぶりの、真意が理解できない。


「何故私に言い寄る」

「愛に理由などありませんよ」

「……それを信じるとでも?」

「あなたを幸せにできるのは俺だと確信しています。決してロイじゃない。あいつは世界を転がすことにしか興味がない。あなたも奴の頭の中の、盤上の駒だ」


 痛いほど強く手を握られた。

 明るい午後の海辺の日差しが差し込む榛色の眸に、うっすらと闇が滲んでいる。


「……我が君の悪口は、感心しないな」

「無理して良き妃を演じる必要などないんですよ。俺の前ではね」

「私は今の立場を結構気に入っているんだ」


 いい加減うんざりして、無理に手を引っこ抜いた。


「お別れですザフィル。追い出される従兄弟をどうか憐れんで下さい。はるばる王都から贈り物を届けに来てやったのに、あの恩知らずめ」

「それについては感謝する。今回は真実だったようだが、まあいつ来ても同じだと思う」

「——は?」


 フランクが声を一段落とした。

 低くて、威圧感があり、恐ろしく冷たい。


「ふうん。は嘘だったって、気付かれちゃってたのか」

「何のことだ?」

「とぼけなくても良いですよ。そっかぁ、やっぱり抜け目ないな、あいつは」


 背を、死のように冷たいものが撫でていく。

 体が震えた。膝に力が入らない。


 今ようやく、サフィルは、フランクにしつこく言い寄られる理由を理解した。

 自分が、愚かだからだ。

 フランクはロイに直接挑むのを諦め、その傍にいる頭の悪い妃から崩しにかかっていたのだ。


 そして——浮ついた愛を囁くロイに警戒を緩め、思惑通り、うっかり口を滑らせてしまった。


「何をしているんだ。船が待ってるぞ」

「分かってるよ」


 戻ってきたロイに、フランクはいつもの快活な笑顔で応じた。


「じゃあな。また来る」

「もう来るな」


 一方的に暑苦しくロイを抱擁し、豪快な笑顔で手を振って、まるで何事もなかったかのように船に乗り込む。

 船員達は慌ただしく出港の準備を始めた。帆を上げ、錨を巻き取る。


 サフィルはがくがくと震える膝を気力で保った。しゃがみ込んでしまわないように。


「……サフィル?」


 異変に気付いたロイがそっと肩を抱き寄せてくれた。

 それでも震えが止まらない。


 たった今。

 取り返しのつかない失態を犯してしまった。

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