第四章 宿命に叛いて
第1話 ずっと一緒に
夏の終わりを告げる雨は、明け方まで降り続いた。
何となく眠れなかったのは、城を包み込む雨音のせいだけではない。サフィルの胸の中は、昨日のエルデ城市の空のような靄がかかっていた。
漠然としていて何が不安なのかも分からないまま、ただ心だけがもやもやしている。
勿論、元凶は理解していた。
ロイの従兄弟、第六王子フランクだ。
少し前、ふらりと現れた彼は、城主の妃サフィルを口説いた咎で街を追い出された。——はずだが懲りもせずまた現れて、今、エルデグランツ城の客間にいる。
城主がこの不遜な従兄弟を即時放逐しなかった理由は、天気だ。
嵐の夜の時化た海に船を出させることは、港を有する都市の首長としてできなかった。人の道に外れた行為を行う港を、他の港は許してくれない。海賊船や敵国の船でさえ、嵐の時は助けるものとされている。
あまりにも時宜よく現れたため、フランクの計算だったのではと最初は疑った。海に拓けた都市の不文律を利用して、追い返されないよう仕向けたのでは。
だが陸路と違い、海路では立ち止まることが難しい。
わざわざ悪天候を狙って来たのではなく、偶然だろう。あの男の運が良いのか、悪いのか。
彼が戻った目的は分かっていない。ロイは『サフィル目当て』だと予測していて、どうにも落ち着かない。
ぐっすり眠れないまま朝になり、身支度をする使用人達が部屋にやってきた。
珍しくサフィルが起きていたことに多少驚いた様子だったが、良く弁えている彼女達はそれを表には出さない。
サフィルにとっても頭の痛い存在が城に滞在していることは、皆、理解している。敢えてそこには触れず、いつも通りの仕事をきっちりとこなしてくれた。
「お妃さま、失礼致します」
「ありがとう」
使用人達が丁寧にお辞儀をし、部屋を出て行ったあと、サフィルはひと呼吸置いて前城主の仕事机に向かう。そして、抽斗からロイの眼鏡を取り出して飾り帯の内側に入れた。
ピンの両側に、二人の象徴的な花がそれぞれあしらわれている。隠してしまうのは勿体なかったが、ロイが気付いて問うてきたらと思うと表に出せない。
目が悪い主君のため、予備の眼鏡を肌身離さず持っている。まるで気遣いのできる優しい妃のような振る舞いが、サフィルにはどうしても恥ずかしい。
自分がそういう目的でロイの傍にいる訳ではないと、分かっているからこそ。
***
「おはよう、サフィル」
食堂の間には瑞々しい朝日が差し込んでいた。雨に濡れた庭が眩しく輝いている。
いつもの席でいつも通り、ロイが穏やかに朝の挨拶をしてくれる。
いつもと違うのはテーブルの隅に用意された水と、城主の姿を埋め付くさんばかりに積み上げられた手紙の量。
「……今日は凄いな」
「律儀だよね。ずっと帰ってないのに。……この子なんて顔も知らないんだよ」
フランクのために用意されている水が手つかずなことを確認してから、サフィルもいつも通りロイの真向かいの椅子に座る。ロイは頬杖をついたまま、一通の手紙を差し出してきた。
受け取り、目を通す。拙い文字で『ロイおじさま』宛のバースデーメッセージと、動物の絵が描かれていた。
「おじさま?」
「従兄弟の娘だから、正確には……何だろうね」
ロイの従兄弟だけでも把握しきれないくらいなのに、それぞれが適齢期を迎えている。彼の国の王族はまだまだ増え続けているようだ。
「誕生日なのか。おめでとう」
「うん? ……そうだね。ありがとう。これでようやく君にひとつ近付いた」
「申し訳ない。春になったら私もひとつ歳を取るんだ」
「分かってるよそんなこと。どうやったって年齢だけは追い抜けない。やっと近付けたのに、すぐ離される。ずっとだ。君との差がずっと縮まらない」
いつもの倍はありそうな手紙と贈り物を雑に片付けながら、ロイは本当に不満そうにぶつぶつ文句を言っている。
サフィルの胸に、ロイの『ずっと』が響いた。
二人の関係は期限付きのもの。それは、他ならぬ発案者のロイが最も理解しているはず。
なのに、まるで永遠がそこに在るかのようだ。
お互いの誕生日を迎える度に追い付いただの引き離しただの、変わるはずのない一年半の年齢差について同じ会話を繰り返す。そんな未来を感じさせる。
「年齢以外の全てで私に勝っているんだ。それで良いだろう」
「僕は君に勝てないよ」
サフィルの慰めに、ロイは納得いかない様子だった。
順位に劣等感を抱えて生きてきた大国の王甥は、自分を客観的に評価できない欠点がある。ロイが優秀であることは、実力のみで総帥の座を手にしたことでも明らかなのに。
サフィルは清潔なテーブルクロスに頬杖をついた。
「さてどちらの悩みが深刻なんだろうな。私も、妃でありながら主君より年上で、形ばかり立派な称号を持っていることを、歯痒く思っている」
「それは正しい君の価値だよ。そもそも僕の妃でいる今の状態が、特別って言うか。非常事態って言うか」
「いつまで続くんだ?」
「なるべく早く次の段階へ進めたいと思ってはいるよ。……でもなるべく長く今のままでいたいとも思っていて、複雑だ」
ほろりとロイが本音を零した。
やはり『ずっと』を願っている。
ずっと二人で時を重ねていければ良い。叶わないことは承知の上で、永遠を思い描く。
まるで普通の、ただの、何の打算も策略もなく感情だけで結ばれた夫婦のように。
朝食が用意された。手を付ける前に祈りを捧げる。
過去と現在の安寧を感謝し、未来の平穏を願う。
いつの間にかサフィルの祈りの範疇に、ロイが加わっていた。両親や弟と同じくらい幸せを願っている。
意識せずともロイを家族の一員として受け入れているのが、サフィル自身、不思議だった。
「誕生日を祝うのか?」
「いや何もしない。基本的に僕は、誰とも会わないし。君さえ良ければ——」
獣の唸り声のようなものが聞こえてきて、ロイは言葉を切りうんざりした様子で背を伸ばす。
サフィルも千切りかけのパンを置いて指を拭いた。
「おはよう二人共。嵐は去り、すがすがしい朝だ」
声音がすがすがしくないのは、いつも通り二日酔いだからだろう。
顔も酷く浮腫んでいる。
「何か食べたければ厨房に行くといい」
ロイはフランクを一瞥したのみだった。
指で眼鏡の位置を直す——見る距離を調節する仕草で、もうお前に興味がないという意思表示をしてみせてから、目の前の更に意識を戻し、優雅な所作でカトラリーをつまむ。
が。
「祝福の言葉を忘れるところだった。誕生日おめでとう、我が従兄弟よ!」
フランクの一言に、ロイはもう一度顔を上げた。
「……意外だ。覚えていたのか」
「覚えているも何も。それが目的でわざわざ嵐を乗り越えてはるばるやって来てやったんだぞ」
「僕の誕生日に便乗しただけだろう? それに嵐は偶々だ」
ロイの悪態を気にする様子もなく、フランクは自分のために用意されている水を飲み干した。
酒は好きだが強い体質ではないらしい。毎朝、酔いが抜けず体調を崩している。
その調子で船旅が良くできるものだと感心してしまう。直系の王子なのだから内陸出身のはずだが、昔から放浪癖があると聞いているし、もう船の揺れでは酔わないということか。
サフィルは気付いた。
この作戦にやたらと首を突っ込みたがる第六王子が、実は船に慣れているとしたら。ロイの言う
格上の王族であるというだけでも煩わしいのに。
これから先、南大陸との駆け引きは熾烈化の一途を辿るのが目に見えている。
フランクが自分の経験から海戦に余計な口を挟むのではないか。ふとそんな懸念が頭をもたげる。
「サフィル」
不安な貌をしていることに、ロイが気付いたようだ。穏やかに微笑み、テーブルの中央に掌を差し出す。
こちらからも腕を伸ばして手を重ねれば、少し安心できた。
「……相変わらず仲が良いなぁ、お前達」
フランクの茶化す声には、いつも通り、隠しきれない闇が滲んでいた。
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