第9話 招かれざる従兄弟ふたたび

「おお! 久しぶりだな従兄弟よ!」


 エルデグランツ城の玄関の間で、見覚えのある美丈夫が大袈裟に両腕を広げる。

 手すりに両肘をついて吹き抜けを見下ろすロイは、今まで見たこともないほどの渋面だった。

 その人物がずぶ濡れで全身から水滴を垂らし、玄関の間に大きな水たまりを作っているから、という訳ではない。


 アルス=ザレラ第六王子、城主の従兄弟フランク。

 全身から滴る雨水に構うことなく、玄関の間の中央で、満面の笑みでロイが抱擁に応じるのを待っている。


「何が久しぶりだ。この間帰らせたばかりじゃないか」

「親しい間柄では、会わない一日が千年にも感じると言うぞ。つまりお互いもう何万年も再会を待っていた感覚のはずだ」

「いや親しくないし、親しくしたいとも思わない」


 ロイの斜め後ろで、サフィルは拳で口元を押さえて視線を逸らした。

 従兄弟のフランクを心の底から迷惑がっているロイの様子が、逆に二人の親密さを物語っているように見えて仕方がない。

 ロイ本人は、フランクのことを『嫌い』と認識している。だが他人と距離を置きたがる性格の持ち主だけに、ここまで心を許して本音を言える相手は貴重だろう。

 ロイには気の毒だがこの不条理さがサフィルの心を擽り、頬が緩みそうになる。


「おーい。降りてきてくれロイー。俺を放置するな。雨に濡れてしまった従兄弟を抱擁で暖めてやろうという気概はないのかー?」

「ない。一体どこの世界に、ずぶ濡れの従兄弟を抱きしめに行く物好きがいるんだ」

「ここにいるとも。俺はお前が濡れそぼっていようが土まみれだろうが——おおザフィル!」


 二人のやり取りが面白くて、つい注意を怠ってしまった。

 うっかり、フランクの視界に入ってしまう。


「相変わらずお美しい! ザフィル! 如何ですかな、この完璧な発音!」

「……いや、全く」

「全然だめ」

「おい、夫婦揃って手厳しいな。頑張って練習したんだぞ?」


 使用人が体を拭くための布を用意して、フランクを誘う。お陰でずぶ濡れの従兄弟の抱擁に応えずに済み、ロイは心底ほっとしている。

 サフィルもやれやれとため息をひとつ吐いた。


「何しに来たんだ。あいつ」


 顔を顰めて呟いたロイの一言が、何となくサフィルの胸に引っかかった。

 その通りだ。何の用事があってまた戻って来たのだろう?


「私が考え得る最も好意的なことを言うぞ。あいつ、本当にお前に会いたかったんじゃないのか?」

「まさか。それはないよ。僕達の間に血縁以外の絆は存在しない。損得勘定でしか……」


 ふ、と。

 ロイが黙った。


 そして、がばっとサフィルの方を振り向き、両肩を掴む。


「君だ」

「私?」

「そうだよ。君に会いに来たんだ」


 確かにフランクには口説かれた。が、あれは社交辞令半分、従兄弟への嫌がらせ半分だと思っている。本気のはずがない。

 だがロイの表情は真剣だった。

 本気だろうが冗談だろうが、フランクがサフィルに言い寄るのは大問題なのだと、表情で訴えている。


「いいかいサフィル。前の時も言ったかも知れないけど、絶対にあいつに心を許してはいけないよ。多分、僕に関するあることないこと言うと思うけど、耳を貸さないで欲しい」

「分かっている」


 確かにサフィルはかつて、フランクがほのめかすロイの興味深い一面に好奇心を刺激され、うっかり靡きそうになった。

 あいつは危険だ、とか。こんなまともな策を練るはずがない、とか。王国の咽喉に牙を立てて咬み付いている、とか。


 ロイにはまだまだ秘密がある。それらを知りたいとは思う。だが、ロイが敢えて黙っていることを詮索すべきではない。

 薄暗い側面があったとしても、少なくともサフィルにだけは常に誠実だった。見なくても良い場所に、わざわざ目を向ける必要はない。


「私はお前を信じている」

「ありがとう。僕は良い主君ではないかも知れないけれど、全力で君に尽くすよ」


 ロイは何をもって自分を、主君として足りないと感じているのだろう。

 じゅうぶん良くやってくれている。

 戦局を操る、本来の意図でも。妃を大切にするという、一般的な意味でも。


 肩を掴んだままのロイの首に両手をかけ、頭の後ろで指を組む。

 そして至近距離からその眼をじっと覗き込んだ。


「だったら、少しは私のことも信じてくれ。我が君」

「もちろん信じているよ。我が妃。……あいつに取られたりしないって」


 真剣な面持ちで付け加えられた一言に、思わずサフィルは吹き出した。



 ***



 熱い湯で体を拭い、着替えを済ませ、獅子の鬣のような髪も乾かして、濡れ鼠の従兄弟はいつも通りの華やかさを取り戻した。

 ロイは相変わらず不機嫌な貌をしている。


「それで、何をしに来たんだ?」

「お前達に会いに来たに決まってるだろう」

「少しは空気を読んでくれないかな。分かってるだろ、歓迎されてないって」

「そんな、わざわざ歓迎なんて。気を遣わなくて良いんだぞ。俺達は家族なんだから」

「……そういう意味の歓迎じゃない」


 食堂の間は何とも言えない気配が漂っていた。

 一番下座で茶を啜るフランク、いつもの席で頬杖をつくロイ。

 二人の間の空気は緩くて、気怠くて、それでいて異様に張り詰めている。どちらも声音が穏やかなぶん、声を荒げて喧嘩するのとは違う奇妙な緊張感があった。

 サフィルは離れた場所で黙って二人を伺う。迂闊に言葉を挟めば色男の興味がこちらに向かい、ロイの聴取を邪魔してしまうかも知れない。


「叔父貴に戦艦を借りたんだろ? お前が一体何を考えているのか、気になってさ」

「イゼルアからエルデにかけての海岸の防衛。現在、南部から来る海賊の間に、定期船にお宝が積んであるという根も葉もない噂が流れている。義理の両親からの贈り物だか貢ぎ物だかが。実際には乗ってないんだけどまあ、もしまた手を出せば容赦しないという意思表示だけはしておかないとね」

「それだけ?」


 ロイは大きく首肯した。

 サフィルも知っている。あの七隻は剣ではなく盾だと。


「海賊から定期航路を護る程度の船で良かったんだ。文句があるなら父に言ってくれ」

「ああ、俺だって叔父貴の性格は理解しているよ。お前も大変だな」


 フランクがにんまりと口角を上げる。

 サフィルは寒気を覚えた。微笑んでいるようでいて、非常に冷たく攻撃的なその表情に。


「どうするんだ? あの七隻、航路を防衛するには過剰だが、南大陸襲撃には足りないぞ」

「戦わせるつもりはない」

「なにを悠長なこと抜かしてんだ。諜報部に聞いたけど、南部の連合軍は一歩も退いてないらしいじゃないか。お前達二人の政略結婚が、何の役にも立ってない証拠だ。力で行け。お前のやり方は通用しない」


 犠牲を厭わず数で押す『大国の流儀』をけしかけるフランクに対し、ロイは相変わらず、顰め面のまま。

 運河を巡る力関係に変化がないことは、もちろん彼の耳にも届いている。

 総帥の元へはどこからともなく、世界中の情勢が集まっていた。毎朝、親族からの手紙と共に。


「……何の役にも立っていない、かな?」

「何?」

「アルス=ザレラの軍総帥が、妃の祖国を脅かす勢力に対し……そうだな、力で行くのは簡単だよ。苦労するだろうけどね、勝てるとは思う。けど僕はそういうことしたくないし……」


 遠雷の音に、耳が聡いロイは言葉を切って背後の窓に視線を向けた。

 雨は激しさを増している。


「……できれば戦わずに勝ちたい」

「手があるのか」

「向こうの賢さに期待するだけだよ。勝てない勝負を挑むべきではないと気付いてくれれば、緊張状態は緩和する」


 力での勝利は犠牲を伴う。

 敗北すれば運河の秩序を失い、経済的な混乱が待っている。


 それゆえ策士が出した結論は、現状維持。


「今夜は時化そうだね。さすがにこの天気の中を追い返すのは可哀想だから、泊めてあげよう」

「……そりゃどうもご親切に」

「前と同じだ。サフィルにちょっかいを出したら即、叩き出す」

「安心しろ。今度は見つからないよう気を付けるさ」


 フランクがサフィルに豪快な目配せをした。サフィルは頭を抱える。

 この従兄弟の目的が、本当に分からない。


 どんな目論見があるにしろ、面倒なことになりそうだ。






— 第三章 了 —

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