第8話 花を糾う

 海辺の城砦都市に、午後から雨が降り始めた。

 たっぷりと水分を含んだ空気が靄をかけ、水平線を消し去ってしまう。空と海の区別がつかなくなり、距離感も分からない灰青色に、何もかもが覆われた。

 湿った風にほんの少し肌寒さを感じる。秋の訪れは、サフィルの祖国と似ている。


 昨晩からロイの頭を占拠している問題に、解決の糸口は見つからないようだった。

 サフィルに向き合っている間はいつものロイだったが、僅かでも目を離すとすぐ深い思考の海に沈んでいく。険しい顔をして、微動だにしなくなる。

 王太子という立場の万能感を微塵も疑うことなく育ったサフィルは、ロイの妃となって初めて己の無力を痛感した。力になりたいのに、何もできない。


 せめて邪魔にならないようにしたい。

 とは言え、主君の心配性は良く心得ている。妃が消えればそれはそれで気を揉むだろう。

 傍にいることだけは伝わるよう、少しだけ距離を置いて過ごした。


 こんな気遣いができるようになるとは。

 しっとりと雨が濡らす中庭を、回廊の方からぼんやり眺めながら、サフィルは自分自身に苦笑する。

 そう言えばこの歳になるまで他人に気を遣ったことなどなかった、わがままで傍若無人な王子だったと、過去の己が恥ずかしくなる。


 父王の次、国で二番目に偉いサフィルにとって、王甥で地方都市の城主ロイの妃という立場は屈辱そのものだったのに。

 今は心から、妃として主君を支えたいと思っている。

 年下だし社会的な地位も自分より見劣りするし、何よりちょっと変わっているが、ロイは尊敬できる人物だった。


 自分は偉くないし、イゼルアは世界の中心ではない。そのことに気付いただけ成長したようだ。


「サフィル」


 声をかけられて振り向く。いつの間にかロイが傍にいた。


「あんまり中庭に近付くと、濡れるよ」

「大丈夫。そんなに強くはない」

「いやいや結構降ってるって」


 色味の少しずつ違う敷石を並べて紋章のような模様を描いている中庭は、あまり水はけが良くないらしく、幾つもの水たまりができていた。

 雨足こそ強くないものの、過保護なロイには気がかりなようだ。妃が濡れてしまわないかと。


 サフィルは中庭の中央に鎮座するガラスの小屋を視線で示した。


「温室が心配だったんだ」

「温室が? ……うんまあ確かに、パウリナは水の遣り過ぎ厳禁って母が言っていた」

「この辺りで育てるのには不向きだな」

「城で母に意見できる人間はいないよ。僕も含めてね」


 ロイが緩く微笑む。

 当代の城主の母親は、先代の城主の娘でもある。たとえ既に城を出ているとは言え、誰も彼女に逆らえないのも分かる話だ。

 古城の中心に真新しい温室を建てることに、賛成意見ばかりとは思えないのだが。


「何故、花を育てているんだ?」

「古くは薬草として使われていたらしい。熱を下げるとか何とか」

「……ああ、それで」


 それでロイの幸運のしるしなのか。

 やっと理解できた。母子にとってのみ、あの桃色の花がかけがえのないものとなった理由が。

 今もなお息子の病の再発を懸念している様子の母親が、温室を建てたのもきっと。


「お前はパウリナの薬効で命を取り留めたのか」

「医者は否定している。あれが薬草だっていうのも、大昔のおまじない程度の話だし。もっとちゃんとした薬を飲んだ従兄弟は助からなかったし」


 しっとりと雨に濡れる温室を、回廊から遠巻きに眺めながら、ロイが顔を顰める。

 その表情の意味は、理解できなかった。不快感をあらわにしているようでいて、どことなく悲しげで、優しさや痛みをさえ伴っている。


 知ることのできない過去の、何らかの、拗れた思い。

 それを問うて良いのか、サフィルには分からなかった。

 自分にそこまで、ロイに寄り添う価値があるのか。


「母だけなんだ」

「何?」

「パウリナに夢を見ているのは。……あれが効いたっていう、全く非論理的かつ荒唐無稽な空想物語を信じているのは」


 一瞬、息が詰まった。

 ただロイを見上げることしかできない。


「呪いの花に、命を救う力なんてありはしないのに」

「……どちらでも構わない。効果があったのかなかったのか、今更。ただ、お前は助かった。生きて、ここにいる。私にはそれが全てだ」


 悲しみと喜びが、偶然と奇跡が、いかに重なり合って今が存在するのか。

 サフィルは運命の女神の采配にただ舌を巻く。


 熱病が流行らなければロイは今頃、遠いアルス=ザレラの王都で両親や弟、親族と共に暮らしていた。視力を患うこともなく。

 持ち前の賢さで従兄弟達より出世する運命は変わらないだろう。けれど、何をも失いたくない気質が多くを失ったせいで育まれたものなのだとしたら、違う性格に育っていたかも知れない。他の王族同様、遠く離れた大陸の隅に関心を持ってくれたかどうか分からない。


 ロイが王都を離れて地方都市に住むことになった悲しい理由について、喜ぶつもりはない。だがどうしても、今ここにロイがいてくれることがサフィルにとって何よりの幸運だった。


「いつか、お前は言ってくれた。今が幸せなら、過去の不幸の意味が変わると。私はお前に、幸せを与えてやれているだろうか。私が受け取った幸運の半分でも、半分の半分でも」

「逆だよ。多分、君が感じている幸運より、僕の方がずっとずっと幸せだと思うよ。だって、やっと分かったんだ」


 屋根のある回廊の縁から、中庭の方へ手を出して、雨の雫を掌に受けるような仕草をしながら。

 ロイの声はいつも通り、穏やかで優しい。


「ねえサフィル、君が知っている通り僕は子供の頃から不運続きだった。生まれつき持っていないものも、無くしてしまったものも多い。何て言うかな、ずっと心の中が空っぽだった」

「……ああ」

「いつもその理由について考えていた。訳もなく不幸なのか、それとも理由があるのか。それが、最近ようやく分かったんだよ。君という、とても大きな存在を受け入れるために、心に隙間が必要だったんだなって。満たされている状態の僕じゃ、君を幸せにはできないから」


 掌に受け止めた雨粒を軽く握りしめながら。

 ロイの言葉は優しい雨のようにサフィルの心に染み込んでいく。


「……またちょっと気持ちの悪いこと言っちゃったかな」

「いや。大丈夫。お前が言葉を尽くして私を賛美してくれるのが、気恥ずかしくはあるが、不快には思わない」

「うまく伝えられなくて、変な言い回しになってしまうんだよね。何だろう、すごく難しい。恩を着せるつもりは全然なくて、ただ君の力になれるのが嬉しいだけなんだけど」


 どこかに気の利いた言葉でも落ちていないかと探すように、ロイの視線が中庭を彷徨う。


「何て言うか……君は、僕が今ここで生きている理由の、全てだから」


 そしてようやく探し当てたであろう言葉は、無条件にサフィルを肯定してくれている、大きなものだった。

 あまりにも情に満ちていて、返す言葉が見つからない。


 ロイは照れ臭そうな笑みを浮かべてみせた後、不意に顔を顰めた。


「聞こえた?」

「……いや、何も」

「目が悪いからかな、耳は良いんだ。お陰でいつも雑音に悩まされてるんだけど。——ほらやっぱり聞こえる」


 唐突にロイはサフィルの手首を掴んで走り出した。

 訳も分からず、いつもの衝動的な主君に引っ張られ、転ばないよう必死に足を回転させる。

 中庭から東翼へ向かい、玄関の間の大階段を駆け上がり、廊下の突き当たりの木戸を開いて側塔に飛び込み、中腹の踊り場まで一気に螺旋階段を登った。


「ほら。聞こえるよね」

「……うん?」


 踊り場の窓から身を乗り出すロイに倣い、サフィルも顔を出した。頬に雨粒が当たるのを感じながら、耳を澄ます。

 晴れていれば、ここからエルデ城市が一望できた。残念ながら降り続く雨で限界まで潤った空気のせいで、港は靄がかかっている。

 だが、確かに聞こえた。


 大型の船が近付いていることを報せる銅鑼の音が。


「あれが聞こえるということは」


 違うと言って欲しくてロイを見る。ロイは海の方を睨んだまま、震える拳を握りしめて低く唸った。


「……またあいつか……!」

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