第7話 城主の妃にできること

 サフィルの朝は、使用人達の気配で目覚めるところから始まる。

 ベッドに身を起こすと、彼女達は礼儀正しい挨拶をしてサフィルの世話に取りかかる。

 その熟練の技に身を任せているだけで、一分の隙もなく身支度が整った。


「……失礼致します」


 膝をついて爪を磨いてくれていた使用人が、慇懃に礼をして作業の中断を詫び、立ち上がって部屋を出て行った。

 髪を編んでくれている方の使用人も手を止めていた。こっそり見上げれば、怪訝な顔で扉の方を伺っている。


 廊下の方から微かな話し声が聞こえてきた。

 扉の向こうに誰かいたようだ。サフィルは全く気付かなかったが、城を維持する者達はいつもと違う気配に敏感なのだなと感心してしまう。


 やがて使用人は戻ってきて、またサフィルの傍に畏まった様子で膝をつく。


「お妃さま、お願いしたいことがございます」

「どうした?」

「城主さまが……」


 常にてきぱきと隙のない仕事をする使用人が、珍しく言葉を濁す。

 サフィルは眉を上げた。



 ***



 ロイは部屋に使用人を入れない。

 毎朝、自分で適当に着替えて髪はぼさぼさのまま食堂の間に現れる。そして明るい窓を背にして座り、明け方の郵便船で届いた手紙に目を通す。

 子供の頃は、朝に弱かったという。が、先代である祖父が亡くなり城主の座を継ぐと、夜更かしがぴたりと治った。

 早朝届く手紙が、ロイの最大の関心事になったからだ。


 城主が珍しく降りて来ないと、食堂の使用人がサフィルの部屋を訪ねた。

 ロイの体調、特に熱病の発作には気をつけるようにと、城主の母から厳しく言いつけられている。が、西塔を登ることは城主本人から禁止されている。

 放っておくことも、様子を見に行くこともできない。ロイが自主的に降りて来なければお手上げらしい。


 城主以外で西塔へ自由に行けるのはサフィルのみ。

 熱病で倒れる可能性が皆無でないのなら、誰かが気にかけていなければならない。

 孫を溺愛していた祖母が亡くなった今、それは妃サフィルの役目だった。


「ロイ。入るぞ」


 螺旋階段を登り、塔の先端にある子供部屋の扉を叩く。

 返事がないので不安になり、とりあえず一声かけて部屋に入った。


 ベッドは空っぽだった。

 部屋を見渡せば、海の方を向いて置かれた揺り椅子の背もたれの上に少しだけ、あの特徴的な赤毛が見える。


「……ロイ?」


 部屋に誰かの気配があれば目を覚ますはず。動く様子がなく、熱病の発作かと不安が膨れ上がった。


 椅子の正面に回る。

 と、穏やかな寝顔と健やかな寝息が、サフィルを迎える。


 安堵のあまり、その場にしゃがみ込んでしまった。

 熟睡するその顔は、眼鏡をかけていないせいもあって、普段よりだいぶ幼く見える。

 念のため一応、厚みのあるくしゃくしゃの前髪の下に手を滑り込ませて額に触れてみた。熱病の兆候は微塵も感じられず、ほっとする。


「全く……」


 策士は睡眠時間を削って次の手を考えていたのだろう。

 そして、揺り椅子に体を伸ばして、うっかりそのまま熟睡してしまった。

 椅子の脇に立っている鉄製の燭台に、完全に燃え尽きた蝋燭の名残がこびり付いている。


 本や書類や手紙などが椅子の周りに散乱していた。寝ている間に膝から滑り落ちてしまったようだ。

 拾って膝の上に重ねていくうち、手紙の間に金縁の鼻眼鏡を見付けた。


 紛失なさってはいけません、と街の金銀細工職人が言っていた。あの時渡された予備の眼鏡は、服の内側にピンで留めて、表からは見えないようこっそり身につけている。

 役立つ日が来るとは思っていなかったが、うたた寝の隙に落としてしまうようでは、いつか本当にロイが眼鏡をなくす現場に遭遇しそうだ。


 揺り椅子の横にしゃがみ、本や書類を膝に抱えて、ロイを起こすべきか寝かせておいた方が良いかしばし悩んだ。

 窓が開いており、朝の心地良い潮風が天井一面に提げされた星のオーナメントを揺らす。


 ふとそちらに気が向いた隙に、ロイがすうと大きく息をついた。


「ん……。サフィル……?」

「おはよう。使用人達が心配しているぞ。時間になっても起きてこないと」

「……そっか……」


 寝起きの掠れた声で小さく唸り、髪を掻きながら、ゆっくりと顔を巡らせる。

 そして己の体や揺り椅子の座面の辺りをごそごそと手探りし始めた。


「あれ……眼鏡がない」

「ここにある。床に落ちていた」

「あ、ありがとう。また踏んで壊すところだった」


 華奢な造りの鼻眼鏡を掌に載せて差し出せば、ありえないくらい顔を近付けてそれを確認し、うやうやしく拾い上げる。

 ロイが裸眼で見える距離は、それこそ掌に接吻けられるのではと思うほど近いようだ。


「目が悪いと大変だな」

「でも生きている。弟達の運命に比べたら些末だよ」


 シャツの裾で雑にレンズを拭いているロイに顔を近付けてみる。

 少なくとも、後遺症は外見からは分からない。透き通るような、薄灰色の虹彩。


「眼鏡をかけていない方が良いんじゃないのか?」


 金縁の鼻眼鏡が、顔の印象のほとんどを持っていく。

 元々の性質にもまして冷たく異質に見えるのは、そのせいではないか。現に、眼鏡をかけていないロイの方が穏やかで優しそうだ。


「僕だって煩わしいと思うよ。でも無理だ」

「そんなに悪いのか」

「そう。このくらい近付かないと見えない」


 ひょい、とロイが顔を近付けてきた。

 それこそ鼻の頭が触れ合いそうな距離まで。


 裸眼で、至近距離で、じっとサフィルを見つめた後、唐突にがばっと身を離す。


「ご、ごめん」

「……いや」


 二人の関係はあの夜から少しおかしくなっていた。

 酔いに任せて、接吻けを交わした夜。

 翌朝のロイがあまりにもいつも通りだったので、サフィルも気にしないことにした。確かに表向きは夫婦である。が、私生活においてまで夫婦である必要はないと。


 ロイはとっくに十数え終え、心を切り替えてしまったものと思っていた。

 慣れた様子で鼻の上に眼鏡を載せるその横顔は、いつもの、何を考えているか分からない冷徹な策士のもの。ロイは己の感情を隠すのが巧い。妃に全く興味がなかった頃でも優しく抱き寄せてくれたし、今は、素っ気ないふりをする。


 眼鏡をかけてようやく視界が戻ったロイが、椅子の脇にしゃがむサフィルに微笑んだ。


「……今日は、何というか、斬新な髪型だね」

「結ってもらっている最中に、お前の様子を見てきて欲しいと頼まれたんだ」

「ああ、そういうことか。それは申し訳なかった」


 サフィルは抱えていたものをロイに手渡した。

 ロイは気怠げに揺り椅子から立ち上がり、夜通し検証していたであろう資料を、しかるべき秩序で部屋のあちこちへ戻し始める。


「君に余計な仕事を増やしてしまったかも知れないね」

「お前の面倒を見ることか?」

「僕が父に要求したのは速い船であって、強い船が欲しいなんて一言も言っていない。あれだけの砲門を積んだ重装帆船でしかも速い、驚嘆すべき最新技術なのは分かるし自慢したかったのも無理はないけど、お陰で僕は検証すべき事柄が増えてしまった。こちらが明確に武装してしまったから向こうの態度も硬化するだろうし——ああその、つまり、考えなきゃいけないことが多くて寝るのが遅くなって朝起きられなかった」


 総帥の頭を占拠している問題については、サフィルもおおまかに把握している。

 そのせいで睡眠時間が削られ、いつもの時間に眼が覚めなかったのも無理はない。


「私なら構わない。何なら毎朝、起こしに来てやっても良いが」

「さすがにそこまで煩わせる訳にはいかないよ。ちゃんと寝ないと」

「眠れるのか?」


 全ての資料を片付け終えたロイが、僅かに顔を顰めた。


「……キルスティン運河から南部諸国が完全に手を引くまで、安眠はできないよ」


 その横顔は厳しかった。

 平和はそう簡単には手に入らない。ロイの、何らかの覚悟を決めた表情に、サフィルは息を呑む。


 無力だった。

 祖国イゼルアのため夜遅くまで策を練る主君を、朝、起こしに来る程度のことしかできない。

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