第6話 潮騒を舞踏曲に

 急いで城に帰ったのは、ここから先の話が漏れるのを恐れてだった。

 ロイはサフィルを、城主の部屋の真下にある大広間へ誘う。


 海に突き出した南翼。二階にある城主の部屋は先端がバルコニーとして解放され、海と空を同時に楽しめるようになっている。一階の広間は高い天井に届くほど大きな窓を贅沢に並べて、明るさと眺望を損なわないよう考えられていた。


「最後にここで舞踏会が開かれたのは、いつ頃だ?」


 サフィルは大広間の用途をきちんと把握している。

 綺麗に保たれてはいるが、長いこと使用されていないのは明白な、空っぽの部屋をゆっくりと見渡す。その眸には、かつての華やかな姿が見えているのかも知れない。


「さあ。僕の記憶には無いな」

「では何故、ここに」

「秘密の話をする時は、拓けた場所の方が良い」


 板を張った床に、足音が響く。

 これもまた、大広間の特徴だった。


「イゼルアのことを聞きたいのか」

「うん。分かる範囲で良いから教えて欲しい。推測でも」


 得られる限られた情報の中で、今のところ、良くない噂は聞かない。

 王太子を奪い去った上に主要港に軍艦を置いたアルス=ザレラに対し、怯えている様子はないようだ。

 だが安心できないのは、己の心の弱さゆえと自覚している。

 弱いからこそ良く考えて確実に勝ち目を拾いに行き、結果的に従兄弟達を飛び越えて出世したのだから、決して悪いことではない。

 いつも通り、慎重に。


「ここで私が知り得るものは、お前が既に知っていることと大差ない」


 サフィルは首を傾げた。蜂蜜色の柔らかな髪がさらりと揺れる。

 三方向に大きな窓の並ぶ広間の、西側から黄金色の光が斜に差し込んでいた。だいぶ日が傾いてきたようだ。

 蜂蜜色の髪を、黄金色の日差しが滑っていく。


「あんな恐ろしい戦艦を港に入れさせて……。邪推されていなければ良いけど」

「今見てきた限り、確かに船は恐ろしいが船員は真面目で統率が取れていた。問題を起こすことはないだろう」


 ロイは頷いた。

 そうあって欲しいという願望を込めて。


 父が指示通り動いてくれなかったのは、初めてのことだった。

 今まで、理由は分からなくとも息子の言葉に従っていれば勝てる、という認識でいたはずなのに。

 他でもないロイ自身を軸に据えた戦略だからこそ、見栄を張ったのだろうか。


 父のお節介がどっちに転ぶか、正直、不安だった。

 ただ運河を護りたいだけ、侵略の意図は皆無と理解してくれれば良いが。


「お前は心配性だな」

「あらゆる懸念を排除してこその勝利だと思うよ」

「信じろ。お前が思っているより、味方は多い」


 ついとサフィルがロイの目の前に立った。

 そして両の肘を軽く持ち上げる。


「踊ろうか」

「え、無理。そういうの全然だめ。……て言うかサフィルは踊れるの?」

「まあ嗜む程度には」


 自信たっぷりな表情で、謙遜してみせる。王太子たるもの、あらゆる教養を身につけているのは当然だった。

 ふと、いつか見た剣技を思い出した。ロイは知っている。たおやかで繊細なようでいて、サフィルはとても芯が強い。

 風に抗う大樹ではなく、しなやかに風をやり過ごす若木の強さを持っている。


 気が付けば、何故か片手をサフィルの腰に置き、もう片方の手に手を取っていた。

 サフィルは優雅に手をロイの肩に置く。


「お互いの爪先が離れないようにしていれば良い。私が右足を前に出したら、左足を引く。私が左足を引いたら、右足を出す。横に動けば横に。簡単だろう?」

「口で言うのは、そりゃ簡単だよ」

「体で覚えるのが一番だ」


 一、二、三……。

 ゆっくり、ゆっくり、サフィルがステップを踏む。ロイはサフィルの爪先を踏まないことだけ集中した。

 前、後ろ、横。後ろ、前、横。

 ずっと同じステップを、繰り返し、繰り返し。何も考えずに足が勝手に動くようになるまで。


 長く沈黙し続けた大広間に黄金色の光が差し込み、優雅に踊る二人の影を板張りの床に落とす。

 城を支える断崖に打ち付ける波の音と、簡単なステップを繰り返すお互いの足音だけが聞こえる。

 サフィルは優秀な指導者だった。失敗を嗤わず、巧くできれば褒め、丁寧に導いてくれる。


「子供の頃に、教えてもらわなかったのか?」


 慣れてきた頃合いを見計らって、サフィルが軽く視線を上げた。

 ロイは足を運ぶことを意識したままかぶりを振る。


「無駄だろ? 君と違って僕は、王族における順位が低い。王弟の長男って言えば聞こえは良いけど、実際は、王様の十何人もいる子供達より格下だ」


 小さな頃から引っ込み思案で、華やかな舞踏会などが似合う質ではなかった。

 十歳で王都を離れ、既に隠居状態の祖父母に預けられて、社交的である必要が一切ないまま成長した。


 それを疑問に思ったことなど、一度もなかった。

 妃を迎えるまで。


「だがお前は、お前だけの地位を確立してる」

「そうかな」

「そうだとも。イゼルアの王太子は、必ずしも私である必要はないんだ。父と母の、最初の息子であれば。何なら両親の子ですらなく、下町で拾った孤児でも良い。必要なのはイゼルアの王太子であるという事実だけだ」


 だがお前は違う、と。

 うっすらと悲しみが滲む声で、そう呟く。


 エルデグランツ城での生活は、サフィルに何らかの変化をもたらしていた。

 己の立場への自信が、揺らぎ始めているような気がする。


 異国へ嫁いできたサフィルは、急に、王太子ではない自分と向き合うことになった。

 己の内に在る全てが、己の『立場』にのみ与えられたもののような気がして、戸惑っている。

 自分自身と言えるものが見つからず、心細いのだろう。


 ロイにはそれが少し理解できる。逆の立場ではあったが。


「——サフィル」

「何だ?」

「君は運河の国の王太子っていう、立派な殻に覆われているけど、中身はもっと素晴らしいよ。これまで僕が出会った中で、最高の人だ」


 いつの間にかステップが止まっていた。

 ただ向き合って、両の手を取り合っている。


 大広間に差し込む日差しは少しずつ色を濃く、角度を低くしていく。

 いつしか部屋じゅうが輝くような黄金色に染め上げられていた。

 ロイを見上げるサフィルの双眸にも光が差し込み、夕映えの海のように、美しい色を宿す。


「……ごめん。今かなり気持ち悪いこと言った」

「いや。そうは思わなかった。意外と口説き慣れてるんだな、としか」

「違うよ。そんなんじゃない」

「こんなにも私を私として、王太子ではなく私個人として見てくれたのは、お前が初めてだ。嬉しく思う」

「僕は人を肩書きで判断しない。王位継承権の低い王甥って肩書きに、さんざん苦しめられて来たからね。君の本質だけを見ている。そして——」


 その本質を、とても好ましく思っている。

 イゼルアの王太子がもし、サフィル以外の人物だったら、この作戦の遂行は困難だった。そう思えるほどに。


「君には僕個人がどう見える?」

「そうだな……とても脆くて、柔らかくて、繊細なものに見える。偉いのか偉くないのか分からない殻を幾つも重ねて、その中で独りで拗ねている」


 ロイは頷いた。その通り、自分の弱さには自覚がある。


「今はまだ、な。真の評価はこれから固まる。いずれお前は世界を変える。運河に頼って暮らす国々と、多くの人々を救う。——いや違うな。お前は、私を救うんだ」


 そこには、運河を巡る国家間の思惑はなかった。称号や社会的立場、戦略上の役回りもなかった。

 一瞬にして、サフィルはそれらを跳び越えてみせたのだ。


 目の前にいるのは、お互いの『本質』のみ。

 それに気付いた時ロイは、なぜサフィルと一緒にいるとこんなに満ち足りて感じるのか、はっきりと理解できた。

 肩書きや順位に悩まされてきたからこそ、上でも下でもなく真横に立っているサフィルの存在が、こんなにも大切に思える。


「……そして君は僕を救う」

「私が何か力になれたか?」

「なってくれているよ。すごくね。ダンスも教えてくれたし」


 軽くふざけると、妃はごく薄く微笑んでくれた。

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