第4話 永遠に、あと二つ

 アルス=ザレラは寄せ集めのままだとロイは言う。

 領土を広げることにばかり固執して、征服すればそれで満足し、別の国へ興味が移る。そうやって侵略後の同化政策を疎かにしていたため、国内の都市や民族はただ支配者が変わっただけで本来の生活を保ったままでいる。

 お陰で多くの地方で、国より民族への帰属意識の方が強い。エルデ城市の市民もアルス=ザレラ人ではなく、都市国家エルデ城砦を築いた人々の末裔、という認識だ。


「結果的にそれで良かったんだと思う。エルデはエルデらしく。だいたい夏の夕涼みなんて、昼間暑くて夜は冷える内陸ならではの風習だよ。海辺でやる意味はないって、実際にやってみると良く分かるね」


 宮廷の食べ物を土産にもらったついでに、その食べ方も正しく宮廷風を再現してみてから、ロイはそんなことを言う。

 サフィルは苦笑した。案外楽しんでいたくせに、とは言わないでおく。


 王都ほど暑くなく寒くもなく、雨が多く湿気の多い海辺の都市に、夕暮れの風を感じながら屋外で食事をするという文化は根付かなかった。

 大国が自分達の風習を押しつけなかったお陰だ。

 それぞれの文化には土台が存在する。かけ離れた場所の風習が浸透する訳がない。


 自分達の国にしてしまうけれど、自分達の様式は強要しない。アルス=ザレラのやり方は成功したように見える。が、多民族国家の宿命で紛争が絶えない、独立したがっている民族や都市は多いと言うから、やはり国家としての枠はしっかり嵌めた方が良かったのかも知れないとも思える。


 内陸風の夕食会は、大国の良い点と悪い点をサフィルに示してお開きとなった。


「アルス=ザレラはおかしな国だけど、一応僕の半分ではあるから、君に嫌わないで欲しいんだ」


 ロイは部屋までサフィルを送ってくれた。

 小さな燭台をひとつ手に持ち、妃の足下を照らしながら、一緒にいられる時間を惜しむようにゆっくりと。

 主君が城の廊下に落とす光の円の中心を同じ速度で歩きながら、サフィルは小さく頭を左右に振った。


「もちろん嫌いではない。嫌う道理がないだろう、力を貸してくれているのに」

「うん、まあ、それはおおむね僕の独断なんだけど」


 そうだろうと思っていた。

 大国の内部で、総帥は既に揺るぎない信頼を得ている。ロイが必要だと断じた策は、容認してくれる。

 要請すれば、要請した以上の戦力を貸してもくれる。


「国王陛下も王弟殿下も運河に興味がないんだろう? だからお前が、独断で動いた」

「それは……その通りだ。でも最後には納得してくれた。陛下は理解のある方だよ」

「王弟殿下は?」

「父は、まあ、苦労しているからね。うちの王族には付き物の、後に産まれた苦労ってやつ。だから案外、王位継承順位の低い僕が陛下に認められることを喜んでいる」


 サフィルは深く頷いた。

 父は息子を誇りに思っている。覆すことができないはずの『順位』を跳び越え、国王陛下に信頼され、直接意見できるまでになった息子を。

 彼自身、順位の低さに幾度となく口惜しい思いをしているであろうからこそ。


 そして狡猾な策士は、そんな父と伯父の信頼を利用して好き勝手に世界を平和へ導こうとしている。あまりにも大胆不敵で、厚かましくて——見かけによらない。

 どれが本当のロイなのか、サフィルにはまだ分からない。


「お前は不思議だな」

「そういう旨のことは、良く言われるよ」


 エルデグランツ城は大きいが、どんなにゆっくり歩いても限界がある。

 いつの間にか二人は南翼の二階、歴代城主の間の前まで来ていて、立ち止まっていた。


 サフィルは重厚な扉の金具に手を置いて、ロイを見上げた。

 おやすみを言ってこの扉を開けば、今日が終わる。

 けれども何故か、それがとても勿体ない気がする。

 必ず明日はやって来るのに、不思議と、今日をここで終えるのが惜しい。


「では、我が君」

「——ねえ、サフィル」


 ようやく切り出した夜の挨拶を邪魔された。


「どうした?」

「今から、心の中でゆっくり十数えて」

「何のために」

「その間に起きたことは、君の人生に何の影響も与えない。何かの間違いだとして、忘れて欲しい」

「何を言っ——?」


 疑問の言葉は、塞がれた。

 唇で。


 驚き戸惑う間に二つ数え。

 瞼を閉じて、不器用な唇に応じるまでに、三つ費やし。

 腕を首にかけて後頭部の短い髪を撫でてやれば、もう三つばかり過ぎる。


 ちゅ、と甘やかな音を立てて唇が離れていった。


「……ごめん」


 真っ先に謝罪した主君を、サフィルは、可愛いと思ってしまった。偉そうな肩書きを幾つも持っているくせに、妃に対してはこんなにも不器用で。

 接吻けをするために捻り出した策が、忘れるようお願いすることとは。


「ロイ」

「何?」


 まだ瞼を閉じたまま、前髪や鼻先が触れ合う感触を楽しむ。顔が近いのは、恐らく、ロイがサフィルの腕を振り解けないせいだ。

 お互い、頬が熱い。互いの熱を間近に感じる。

 サフィルはゆっくり瞼を持ち上げた。至近距離で見る主君が、だいぶ戸惑っている。


「私はまだ八までしか数えてない」

「え? ず、ずいぶんゆっくりだね」

「数え終わったら忘れなければいけないんだろう? だったら残り二つはずっと数えないつもりだ」


 ロイが手に持つ燭台が小さく震え、薄暗い灯が、灰色の瞳に揺らめく。

 視力が弱いせいでいつも眉間に皺を寄せ、軽く睨むように眇めていることの多いロイの眼が、本当に驚いた様子で大きく見開かれている。

 サフィルはほんの少し口角を上げ、赤褐色の髪を撫でた。触られるのが嫌で後頭部を短く切っているというが、指を通しても拒絶されることはなかった。

 我慢しているのか、受け入れてもらっているのかは分からない。


「私に苦痛を強いていると、勘違いしないでくれ。これでもお前の妃でいる今を心地良く思っているんだ」


 いつか故郷へ帰らなければならない。

 生き方も、考えも、愛する相手さえ選ぶことができない、国王という存在になるために。


 だからこそ今だけは自由でありたかった。


 王太子として国じゅうから期待され、その期待に応えることこそ生き甲斐と感じていたサフィルは、己が束縛されているなどと考えてもみなかった。

 当たり前すぎて疑ったことさえない人生を、今、大きく逸脱している。何も分からず振り回されること、城主の妃という立場、共にいて楽しいと感じる存在、知らないことや経験したことのない全てが今、どうしようもなく瑞々しくて、眩しい。


「でも君は」


 頬を撫でるロイの指があまりにも優しくて、くすぐったい。


「君は僕のものにならない」

「……そうだな。今が特殊な状況なだけで、私が祖国のために在るのは変わらない」

「だったら諦めるしかない。僕が自分の心に素直になれば、南北大陸の平和が終わってしまうんだよ。僕はどちらを選べば良いと思う?」


 おずおずと頬に触れる繊細な指に、己の手を重ねる。


「考えすぎだ。二度と会えなくなる訳ではないんだ、私がイゼルアの王となった後も」

「隣の国の王様になんて、おいそれと会えないよ」


 こうしていられるのは今だけ。

 だから、感情を制御しなくてはならない。おやすみの接吻けさえ、交わしたことを忘れなければならない。

 ロイの好意と、それゆえの葛藤が、サフィルの胸に刺さる。


 どちらからともなく指を絡め合う。ロイの手は指が長くて、綺麗だった。剣の握り方すら知らない手が、優しい。

 それでも彼が戦っていることは知っている。


 再び互いの顔が近付く。

 二度目の接吻けはもっと自然で、もう少し上手で、見回りの兵士の高らかな足音が聞こえてくるまで続けられた。


「もう戻らないと。おやすみサフィル。良い夢を」


 たとえ夜半に城内を徘徊していたとしても、まさか城主を不審者扱いしないと思うのだが。

 見張りの足音とは逆方向にそそくさと退散するロイの背に、苦笑が漏れる。

 サフィルも兵士に見つかる前に部屋に入った。


「良い夢を、か……」


 今まさに夢の中にいるような気がする。このままずっと醒めなければ良いのに。

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