第三章 妃の夢なお醒めやらず

第1話 海に浮かぶ想定外

 今年の夏はいつまでも暑い。

 そろそろ秋の気配が漂い、港に揚がる魚の種類も変わって来る頃だが、真夏のまま時が止まってしまったかのようだった。


 サフィルがエルデ城市に嫁いで来たのは、夏の始まり頃。

 色んなことが起きたのに、少しも変わっていない気がするのは、今なお夏の気候なせいだろうか。

 空は濃く青く、夕立を呼びそうな嵩のある雲が沸き立ち、潮風は熱を帯びている。


 あの時、夢に違いないと思った景色のまま。

 今も夢の中に閉じ込められているような錯覚が、サフィルを捉えて離さない。


 もちろんこれが現実だということは理解している。地方都市の城主の妃という、本来の人生とは全くかけ離れた今の状況は、夢ではなく戦略の一環。

 これでもサフィルは、祖国を護るための戦いに加わっているのだ。——贅沢で怠惰な生活をさせてもらっているだけなのが心苦しかったが。


 海賊の襲撃から十日が経ち、エルデ城市の港は、緩やかに平穏を取り戻しつつあった。

 現代において海賊は減ったものの、完全にいなくなった訳ではなく、いたましい事件は希に発生する。今回もそのひとつだと市民は思っている。

 海賊船は既に拿捕されたし、犠牲となった水夫は手厚く葬られた。悲しみも憤りも、時と共に徐々に薄らいでいく。


 これが戦争の始まりだと警戒しているのは、ロイのみだった。


 戦わずに事態を収めたかったロイの思惑通りには運ばなかった。

 南部の諸国は、二国の王子の婚姻という手に、二国間を繋ぐ船を襲うことで応じた。しかも狡賢く、自らの関与を隠して海賊をけしかけて。

 ロイは南大陸が裏で糸を引いている証拠を探していたが、うまくいかなかった。海賊に、根も葉もない噂話を吹き込んだ。敵が行ったことは本当に、たったそれだけのようだ。


 だいぶ早い段階でロイは警戒していた。相手側にも賢い奴がいる、と。

 何をもってそう判断したのか当時のサフィルには分からなかったが、今になってその存在を確かに感じる。

 アルス=ザレラの総帥と真っ向勝負できるだけの策士が、南大陸にいる。


 実際に干戈を交える場合、先に武力行使した方が悪になる。相手は海賊による単独の犯行を装っているため、こちらが国家として反応すれば報復の大義名分を与えてしまう。

 ロイは次の手を慎重に考えているようだった。


 サフィルはこの期に及んで、ロイの考えすぎであれば良いと思っていた。

 本当にただの、海賊の勘違いによる偶発的な事件でしかないのではないか、と。

 そうであれば良いという一縷の希望をもって。


 だが現実は——


「ロイ? どうかしたのか?」

「……ああうん。おはようサフィル」


 いつもと変わらない朝、いつものように身支度を終えて食堂の間へ向かったサフィルは、いつもの席でいつものように手紙に埋もれ、いつもと違ってテーブルに伏せているロイに戸惑った。

 体調でも悪いのかと心配したが、どうやら違うようだ。難しい顔のままひょいと身を起こし、ずれた眼鏡を直して、妃の前では何とか平静を取り繕おうとする。

 悪いのは体調ではない。


「ちょっと作戦を微調整する必要があるかも知れない」

「宮廷の方から何か横槍が入ったとか?」

「その通りだ。父を愚かだと思いたくはないが、少なくとも僕のやり方とは合わない」


 ロイの父親、すなわち王弟殿下。王に次ぐ権力の持ち主であり、アルス=ザレラ全軍を統括する存在。

 作戦を立てるのは文官の総帥の仕事だが、国王陛下の隣で実際に兵の指揮を執るのは武官の大元帥たる王弟殿下だ。

 テーブルに伏せたくなるほど悩んでいたロイの様子を見る限り、サフィルにも手紙の内容がおおよそ推測できた。


 父親が勝手に軍を動かしたようだと。


「表立って動きたくなかったんだけどなあ」

「この国は戦争がしたいのだろうか」

「どうかな。少なくとも物量こそ正義と考えてはいる。僕のためを思って戦力を寄越してくれたんだとしたら、これ以上ないくらいのありがた迷惑だよ」


 朝食の支度が整い、戦争の話はそこまでになった。

 サフィルは祈りを捧げる。

 烏滸がましいとは思いながらも、アルス=ザレラの安寧を願った。祖国のため尽力してくれている者らを、祖国の神々が、祝福してくれるように。


 とりわけ——何か重いものをたくさん抱えている主君に、救済があるように。



 ***



 アルス=ザレラの王都から王国の西の端エルデ城市へ、最も早く届くのは手紙だった。

 条件が良ければ最短五日で届く。

 陸路を三日、人馬を換えながら南へ飛ばし続け、港に着いたら高速の郵便船で二日。特に速い早朝の西流れを利用するので毎朝、ロイの元に五日前の王都の情報が届いていた。

 往復で約十日。軍と総帥との間には常に十日のずれがある。ロイ曰く、片道五日ずつは遠隔で指示できる限界に近いらしい。これ以上遠ければどんな作戦も間に合わない。


 人間の場合は時間がかかる。

 手紙より遙かに重たいし、休憩が必要だしで、陸路にもう二日は必要だった。

 これも、ロイ曰くほど良い距離らしい。七日もかけて遊びに来ようという酔狂が、従兄弟を一人除いて、滅多にいないからだそうだ。


 そして。

 最も遅く届くのが、軍隊。


「……うわぁ」


 七隻の武装帆船が近付いている。

 一報を受けてロイに手を引かれて城を出、急勾配の街を転がり落ちるようにして港に向かったサフィルは、その威風堂々たる姿に思わず声を出して驚いた。


 運河の国イゼルアにも当然、海軍は存在する。

 が、外洋で戦うアルス=ザレラの武装帆船を目の当たりにし、狭い海域で通航料をごまかした交易船を追いかける程度の自分達がいかに非力かを思い知らされた。

 これでは南大陸に舐められる訳だ。


 ロイが手紙でその一報を受け取ってから数日遅れで到着した、分厚い装甲を施し、ずらりと砲門を並べた、見るからに強そうな漆黒の船団。

 その一隻が港に入り、残りは沖に並んで待機している。

 アルス=ザレラが味方だと理解していても、まるで包囲されているようで落ち着かない。


「想定外にもほどがある……」


 片手はサフィルと繋いだまま、もう片方の手で自身の前髪をくしゃくしゃ混ぜながら、ロイがぼやく。

 表向き海賊の襲撃を装った敵に対し、こちらも表向き海賊を警戒するふりをして、それとなく海岸線の防御を固める。

 それがロイの目論見だった。

 まさか父親が、息子の要請に奮発して最新鋭の武装帆船を寄越すとは、思ってもいなかった。


「敵と向き合う前にまず身内を何とかしないといけない」


 これでは戦争を始める気満々に見える。

 ここ数日、手紙が届いてから軍隊が着くまでの間、ロイは頭の中で戦略の修正を行っているようだった。それがうまくいったのかどうか、話してくれないのでサフィルは知らない。

 主君の表情がだいぶ理解できるようになったとは言え、策士は肝心な部分をはぐらかす。困った貌をしているが本当に困っているのか、そう装っているだけなのか分からない。


 訊けば、答えられる範囲で教えてくれるだろう。だがそうすべきでないという意識がサフィルの中にあった。

 ロイの仕事を邪魔したくない。


 桟橋に寄せた一隻から軍人が十名ばかり降りてきて、二人の前に整列した。

 皆、一張羅の軍服を着ている。

 女性が一歩前に出た。風変わりな赤っぽい褐色の髪を後ろでひとつに束ねている。そばかすばかりが主張していて特別美人ではなかったが、精悍で明るい表情をしていた。


「ヒルデブラント分隊、着港致しました! 総帥閣下に、敬礼!」

「なおれ。そういうの要らない」


 軍人達の畏まった挨拶を、総帥は気怠く手を振って即座にやめさせた。

 心の底から要らないと思ってそうな、怠惰な口調に、目の前で整列する軍人達は特に気分を害した様子はない。恐らく彼らは自分達の総帥の性格を知っているのだろう。


 握ったままの手に少し力が入っていた。声音に反し、緊張している。

 サフィルは、軍人のふりをするのが大嫌いなロイの心を受け止めるつもりで、その手を握り返した。

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