第9話 白百合の葬礼
ロイは子供の頃、父親に『戦争の正義』について教えられた。
それがどうしても納得できないまま、今に至る。
強大な軍事国家アルス=ザレラは、力でねじ伏せることが唯一の解決策だと思い込んでいる。
なるべく戦わずに事態を収拾したいロイの思考は異端そのものだった。
最近ようやくロイの助言を受け入れてくれるようになった父も、本心では圧倒的戦力で敵を蹂躙し尽くす勝ちを望んでいる。
そんな戦争はもう古い。
軍総帥として、自分のやり方が正しいことを証明してきた。これからも、そうしていく覚悟でいる。
だが。
「良くないなあ……」
のろのろと黒いコートに腕を通しながら、ロイは声に出して呟いていた。
実に良くない流れだった。
遂に、戦争が始まってしまった。
海賊が船を襲う、ありがちな事件の皮を被って。
拿捕した海賊船の乗組員は南部大陸出身の、本物の海賊だった。兵士ではなく、運河の在り方に何らかの思想を持った活動家でもない。
尋問に対して『非常に高価なものを運んでいるという噂を聞いた』と答えたという。情報元は不明。このまま、海賊の卑劣な行為として片付けられるだろう。
「……全く。せっかくこっちが、退く路を用意しているのに」
民間人の犠牲を出してしまったことが、どうしようもなく、ロイの胸に重かった。
これを、軍隊同士が正面衝突する、古式ゆかしい戦争の火種にしたくない。
仮にこの戦いが父の専門分野へ移行すれば、恐らく運河を脅かす者らは灰燼に帰すだろう。——運河もろとも。
敢えて海賊をけしかけただけで、兵士を使わなかった辺り、向こうも狡猾だ。
アルス=ザレラを恐れているのが分かる。
単純に兵力で勝っている。長い海岸線に幾つもの軍港を有し、海軍が強く、海洋上の戦いも得意。運河の通航料に文句を言う国々が太刀打ちできる相手ではない。
運河を奪うのは、手を取り合ったばかりの二国を分断させてから。定期船襲撃はその烽火。金品を積んだ貿易船や王侯貴族所有の船でなかった辺りの、向こうの意図は理解した。
ゲームは交互に攻めと守りが入れ替わる。
相手の指した手を受けて、次はこちらが駒を動かす番。
「ロイ、ちょっと良いか」
「——えっ?」
ノックの音とサフィルの声に我に返った。
そして、気付いた。いつもの悪い癖が出て、出掛ける支度をしながらうっかり考え込んでしまった。だいぶ時間が飛んだようだ。
「どうぞ、入って。サフィル」
子供部屋の扉を開いたサフィルが、何故か、ロイを見て眉根を寄せる。
「何かな」
「失礼。似合わないなと思って」
「喪服が似合うように、なりたくはないね」
「確かに」
普段着のままのサフィルが近寄ってきて、小さな釦を留めるのを手伝ってくれた。
使用人に体を触られるのは苦手だったが、このての礼服を着るのはもっと苦手なので助かった。サフィルになら、触れられても不快感がない。
「城主が参列してくれれば、遺族も喜ぶだろう」
「あまりこういう公務は好きではないんだけど」
「私も行きたいが、アルス=ザレラの礼儀を知らない。一人だけ浮いてしまって、お前に恥をかかせてしまう」
「僕は恥ずかしくないから、君が良ければ一緒に参列して欲しい。イゼルアとエルデを行き来する船だったから、半分は君の祖国で働いていた訳だし」
サフィルが視線を上げて、ロイの眸を覗き込むような仕草をした。
正気か? と問うているような気がしたので、真面目に頷く。
「……どうなっても知らないぞ」
ここのところ故郷へ続く西の海を見つめてばかりだった青い眸に、勝ち気な光が宿った。
***
エルデ城市は古い町だった。
今でこそ大国の一部と化したが、元々は独立したひとつの都市国家。海と共存する人々の暮らしにアルス=ザレラの内陸風文化が根付かなかったせいで、当時の伝統が色濃く残っていた。
エルデグランツ城の次に大きく、そして並ぶほど古い建造物がエルデリガト教会。市民であれば誕生時の祝福から葬礼まで、人生の全ての節目で世話になる場所だった。
今日ここに、一人の水夫が眠る。運河の手前まで行く定期貨物船の船長だった。金目の物が積んであるという根も葉もない噂のせいで海賊に襲撃されてしまったが、船員と荷を最期まで守ろうとした英雄だった。
家族が、友人が、港で働く仲間達が各々黒い服を着、持っていなければ一張羅に黒い喪章を付けて、礼拝堂に集っていた。
彼らは皆、度肝を抜かれる。それも二度続けて。
一度目は葬礼の場に城主ローエンヴァルトとその妃が現れたこと。
二度目は、サフィル妃が柔らかな純白の衣装に身を包んでいたこと。
隣国イゼルアの文化について知っている者は多かった。彼の国において哀悼を表す色は黒ではなく白。
だがここエルデ城市はアルス=ザレラの一角。嫁ぎ先の風習に従おうとしない妃を怪訝な目で見る者もあった。厳かな場で我を通す意味が分からない。
困惑した空気はしかし、サフィルが花ではなく剣を手向けた瞬間、一変した。
捧げられた剣舞の美しさ。
丈が長く、深いスリットの入った衣の裾が、サフィルの動きに合わせて優雅に揺れる。まるで一輪の、大きな白百合の花が咲きほころぶように。
イゼルアに縁のある者はもちろん、その文化を全く知らない参列者も、正しく理解できた。
今、サフィル妃はイゼルアの国を代表して、最も礼を尽くしたかたちで故人を送ってくれたのだと。
二つの国を結ぶ仕事に殉じた水夫に、報いてくれたのだと。
「……何て顔をしているんだ」
剣をおさめて踵を返し、祭壇から参列者の席へ戻ってきたサフィルが、ロイを見て苦笑する。
「え……どんな顔してた?」
「魂が抜けきった顔をしていた」
「仕方がない。凄く格好良くて、本当に驚いたから」
「言ったはずだ。私の剣は儀礼用だと。人を斬るものではない」
ロイは慌てて立ち上がり、掌を差し出した。
ほんの僅かに口角を上げて、サフィルが手を置く。
「人を斬る必要はない。とても綺麗だった。二十五年生きてきて、今まで見た中で一番」
「いくら何でもそれは言い過ぎだ。それにお前はまだ二十四だろう」
「もうすぐ二十五だ。君とひとつしか違わなくなる」
「そういうところに拘るあたり、まだまだ子供だな」
年齢差が縮まることはない。永遠にサフィルより子供だ。
ただ数字は厳密に扱うべきだ。確かに生年は二年違うが、厳密には一年半の開きしかなく、誕生日を迎えてしまえば一歳差となる。
今の半分の距離まで、サフィルに近付ける気がする。
妃の手の甲に接吻けてから、うやうやしくエスコートする。サフィルが着席すると、何事もなかったかのように式は進んでいった。
一人の水夫は、二つの国に見送られて旅立つ。
思いもよらなかった。
サフィルの参列によって二国間の絆が強調されるとは。
南側の意図は、イゼルアとアルス=ザレラの分断と見て間違いない。
実際イゼルアとの交易が萎縮しそうな空気があった。陸路が発達していないため、海の危険はそのまま幾つもの都市の生命線に繋がる。
ロイは華やかに飾られた祭壇を見据え、決意を新たにした。
これは運河を巡る戦争が次の段階へ進んだ証。
誰もそうとは思っていない。愚かな海賊による襲撃という結論に矛盾はなく、南大陸の思惑を疑う者はいないだろう。
真実は、それが偽りであると疑って見なくては気付かないほど奥に潜んでいた。
それで良いとロイは考えている。
誰も気付かないうちに全てが元通り円満に片付いてくれれば、それに越したことはない。
運河も、運河を巡る国々の力関係も。
つまり全てが終わった時、ロイの横にサフィルはいなくなる。
南を牽制し続けるためにも、アルス=ザレラの王族に愛されたという威光と共に、サフィルには是が非でもイゼルアの玉座に就いてもらわなくてはならない。
それこそロイが描いた戦略の、目指すべき完結のかたち。
ロイは戸惑っていた。
サフィルを祖国へ返したくない、このままずっと妃として傍にいて欲しいと思い始めていることに。
— 第二章 了 —
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