第8話 運命が始まる

 サフィルは夜中にふと目を覚ました。

 瞼を閉じてしばらくそのまま横になっていたが、何故か、眠気が戻るどころか頭がどんどん冴えていく。

 何の気配もしない。悪い夢を見た覚えもない。さほど呑み過ぎてもいないはず。覚醒の原因が思い当たらず、ひとつため息を零して身を起こした。


 室内履きを爪先に引っ掛けて、バルコニーへ出る。真夏の夜も、海を渡ってきた風は冷たく心地良い。

 良く晴れて星が目映いほど瞬いていた。潮流が変わったばかりの穏やかな海面がぼんやりと天の川を映し、頭上だけではなく眼下まで星で満たされているような錯覚に囚われる。


 この場所から見えるものは二つ。視界いっぱいの、海と空。

 どちらも一瞬たりと同じ貌をしていなかった。

 美しいと、掛け値なしに思う。


 自分を哀れみたかったが、どう頑張っても無理だった。

 今の暮らしは恵まれている。

 サフィルの日常を突然奪った二つ年下の主君は、変わり者だが誠実で、何より親身にサフィルと祖国のことを考えてくれている。贅沢な暮らしをさせてもらっているし、賑やかなエルデ城市も荘厳なエルデグランツ城も、どんなに探しても粗が見つからない。


 自分がここにいて、城主に愛されることこそ、最良の戦略である。

 頭で理解していても心の整理がうまくできなかった。

 せめて何か、今の状況に不満や苦痛を感じられれば、戦術上の駒として利用されている現実と折り合いを付けることができるのに。


 隙間に雑草の一本も生えていない、手入れの行き届いた敷石を確かめながら、真っ暗なバルコニーの先まで歩く。

 石の手摺りに両手を置いて真下を覗くと、遙か眼下の断崖に仄青い光を放つ波が打ち寄せていた。


 規則的な波の音と、不規則に乱れる青い波が、サフィルを宥めてくれる。

 だいぶ心が疲れていたようだ。

 全ては戦略だと割り切っているつもりだが、まだどこかに蟠りが残っている。


 ゆっくりと振り向いて、星空を背負い闇に沈むエルデグランツ城を眸に映す。

 西の塔だけは灯りが漏れていた。城主は床についていないようだ。


 キルスティン運河の自由化を要求する南部大陸に対し、サフィルとの婚姻によってイゼルアとアルス=ザレラが同盟関係にあることを示した。

 そうして運河には強力な後ろ盾が存在すると世に知らしめ、南側が武力行使に及ばないよう強く牽制している。

 のみならず経済的にも自由化『しない方が良い』方向へ誘導しようとしている。


 サフィルにはもうじゅうぶん、ロイの策略が功を奏しているように思える。

 実際、南部の動きは明らかに鈍化した。攻めあぐねているのが分かる。

 だがロイは今も、考えることをやめなかった。彼の頭の中には、まだ何らかの懸案事項が残っているのだ。

 サフィルには見当もつかないものが。


「……夜は頭を休めろ。そう言ったろう?」


 まるで灯台のように明るい西の塔を見上げ、思わず声に出してそう呟く。

 と。

 サフィルの声が届いたとでも言うのか、城主の部屋の灯が落ちた。


 しばし唖然と、塔を見上げる。

 再び灯りが揺れることはなかった。どうやら本当に、城主は床に就いたらしい。


 実際には聞こえていないはずなのに、まさに妃の言い付けに従い大人しくベッドに入ったと言わんばかりに。

 その時サフィルの胸にこみ上げた感情は、甘ったるくてくすぐったくて、にわかには信じがたいほど奇妙なものだった。

 城主を特別好意的に思い始めている。


 子供部屋に籠もったまま、頭脳ひとつで世界じゅうを手玉に取ってみせる策士としての一面。

 どこか大人になりきれない子供じみた部分も、偽りの妃に誠実に向き合おうとする不器用さも、誰も傷付くことなく戦争を終わらせようと企む優しさまで、見せる貌の全てを無条件に肯定できる。


「お前は、恋ができないと言ったな。私も似たようなものだ。私は、人を好きになることが許されていない」


 周囲が選んだ女性を妃として迎え、父の玉座を継ぎ、王統を未来へ繋ぐ。

 サフィルの人生は生まれた瞬間から決定していた。

 何も選ぶことができないのだから、選ぼうという意欲は最初から持っていない。伴侶も、生き方も。

 祖国のため人質になる運命さえ疑問を抱くことなく受け入れた。


「ああ……そうか。今、私は、私の人生の中で最も自由なのだな……」


 いつかこの戦争が終わればまた、決められた轍の上を走るだけの存在に戻る。

 祖国が期待する王太子に。


 その時、エルデ城市で過ごした作戦上の日々の記憶は、サフィルの生涯において大切な宝物になるだろう。


「——おやすみ。我が君。私の人生にささやかな愉しみを与えてくれるお前の夢に、女神キルスティンが微笑んでくれるよう」


 灯の消えた塔に向かって、夜の挨拶を囁く。

 主君のことを嫌いになれないのも、サフィルの胸を苦しめるひとつの要因だった。

 ロイがもっと不快な奴だったら、思う存分、己の境遇を嘆いていられるのに。



 ***



 事態が動いたのは翌日の午後。

 豪雨と共に、その一報は城を包み込んだ。


 普段走り回ることのない兵士が慌ただしく行き交い、いつも仕事を塔に持ち込む城主も珍しく広間で報告を受けている。

 何か良くないことが起きているのだと、サフィルもすぐに気付いた。


 だが、邪魔をしないよう自室でじっと待つほかない。

 雨は激しさを増し、いつの間に日が暮れたのかと思うほど外が暗い。

 何も手に付かないまま、ただ雨を睨んでいた。


 穏やかなノックの音が聞こえた気がして扉に意識を向けると、一呼吸置いて、ロイが長身を屈めるようにしてするりと室内に滑り込む。

 いつも通りの笑顔だが心なしか疲れが見えた。


「ちょっと良いかな。サフィル」

「城が騒がしいようだが」

「うん。遂に犠牲者が出てしまった」


 悲痛な報告は雷鳴にかき消されそうだった。


「な、何が、あったんだ」

「エルデの船が南の海賊に襲われた。まあそれ自体は希にあることなんだけど、今回のは間違いなく僕達への警告だ」

「何故そう思う?」

「イゼルアとエルデを結ぶ定期貨物船だからだ」


 扉の傍に立ち尽くしたままのロイに近寄れば、不意に、抱きすくめられてしまった。

 いつもの優しい抱擁ではない。強く、痛みをすら感じるほど。


 支えが必要なのだ。

 倒れそうなのだ。

 気付いたサフィルは主君の背に腕を回す。


「……戦いが始まったのか」

「戦いを始めるための準備が始まった、ってとこ。こっちが南の諸国を造反させようとしているように、向こうもイゼルアとアルス=ザレラを引き裂こうとしている」


 北の策士の戦略を、南の勢力が根本から崩そうとしている。それはサフィルの身にも関わって来ることであり、不安のあまり、思わず大きく息を呑んだ。


「安心して。君のことは何が何でも守ってみせるから。僕を信じて」

「大丈夫。私はお前を疑っていない。私はお前の妃として、主君に身を捧げる覚悟だ」

「……それはちょっと困るかな。作戦の最終段階は、君がイゼルアの国王となることなんだから」


 サフィルの髪に顔を埋めたまま、ロイが小さく苦笑する。


「でも今は、そうだね、二人で協力しよう。隠すつもりは最初からなかったんだし。想定の範囲内だよ」


 少し調べればこれが政略結婚であるという推論は容易に導き出せる。何しろサフィルはロイと全く面識がなかった。

 時宜的にも、イゼルアに南部の圧力が掛かり始めた矢先の、突然の婚姻。

 南部大陸から見れば、今から襲いかかろうとしていた国が突然、大国と縁を結んで強大な後ろ盾を得たのだ。これを偶然と思う者はいないだろう。


 二つの国の間を結ぶ定期船が襲撃された。

 ロイの言う通りそれが、イゼルアとエルデ城市を分断するという南部からの警告のような気がして、サフィルの背がぞくりと震える。


「私はどうすれば良い?」

「君は今まで通り、僕の妃でいてくれれば良い。僕達は、仲の良い夫婦でいる必要があるんだ」

「だったら、そう難しくはないな」

「——えっ?」


 ロイが本気で驚いていたのが、微妙におかしかった。

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