第7話 世界一優しい策略

 しばらく平穏な日々が続いた。

 天気も良く、海が荒れることも少なく、南の大陸が問題を起こすこともなく。


 イゼルアとアルス=ザレラの結託は、世界に強い衝撃を与えた。

 運河がここのところ落ち着いていると、サフィルの元へ届いた家族からの手紙にも書いてある。

 イゼルアの領土であり南大陸の北の突端でもあるキルスティン運河の南岸は、とても繊細な土地だった。敵と接する場所であるため、厳重に警備している。

 運河開放の圧力は、イゼルア国王への間接的なものも、南岸への直接的なものも、どちらも減ってきているらしい。


「作戦の第一段階は、うまくいっている」


 ロイは焼き菓子を手でちぎりながら穏やかにそう断言した。

 珍しくおやつの時間が設けられた午後。食堂の間の大きなテーブルに茶と菓子を挟んで向かい合う。

 初めて口にする不思議な香りと歯触りを慎重に確かめるサフィルと、上機嫌のロイ。


「エルデの港には南大陸からの商船も入るけど、皆、うちのお妃さまの国と喧嘩するような国とは今後一切取引をしないと言ってくれている。軍船を並べるより効果的な脅しだ」

「……それは確かに、市民に歓迎されなくてはいけない訳だ」

「本当に有り難い。皆に好かれる城主の礎は祖父達が築いてくれていた。先祖に感謝するよ」


 ロイはいつも謙虚だった。

 たとえ歴代の城主が善く治めていたとしても、それを腐らせるのは一瞬。当代の城主もまた市民に対し誠実だったのは間違いがない。

 だからこそ、この政略結婚がものを言う。

 城砦都市そのものが、城主の妃の味方についてくれる。


 城主を慕い、城主の妃の祖国をも『身内』と捉えてくれる市民の温もりを感じる度、この婚姻が偽りであるという罪悪感が胸を締め付けた。

 嘘をついている、利用しているのだと思うと、いたたまれなくなる。


「市民を騙すことは気が咎めるって顔をしている」


 焼き菓子を半分食べ終えたロイがティーカップをつまみ上げながら静かに言う。


「でもね。その優しさは無意味だ。考えてごらん、もし従来通り武力に武力で応じた場合、どれだけの兵士が命を落とすか。どれだけの市民が恋人や伴侶を喪うか。どれだけの子供や老人が路頭に迷うか」

「——それは」

「忘れないで欲しい。これは戦争を避けるための戦略なんだ。戦わずに勝つのは卑怯だと思われがちだけど、誰も傷付かない勝利ほど理想的なものはない」


 いつもの、感情のない、冷徹な策士の眼をしていた。

 障害を抱える薄灰色の双眸が、永久に融けることのない氷のように見えてくる。


 だが、非情に見えても実際に行っていることは慈悲深い。


「誰も傷付かない勝利を得るために、お前一人が傷付いているように思える」

「僕は平気だよ。ただ君をこちら側に置くことになってしまったことは、残念だけど」

「私を?」

「もう少し時間があればね。君と君の祖国も騙される側に回せた」


 サフィルはテーブルに両肘をついて、ほんの少し前のめりにロイを見つめる。

 挑発的に、目を細めながら。


「心にもない愛を囁いて、私を口説き落とすつもりだった訳だな。政略結婚ではなく本当に愛し合って結ばれた風を装うために」

「さすが、君は鋭いな。そうだよ。もう少し自然な流れで、君がここへ嫁いで来るように仕向けたかった」


 ロイが肩をすくめる。後は知っての通り、とばかり。

 サフィルも背もたれに体を戻した。


 運河の国と、国境を接する隣国の都市との、社交的な付き合いの場をひとつでっち上げて。

 偶然に、二人の王子が出会い。恋をし。結ばれる。

 そして図らずも運河の護りは強固なものになる。


 ロイが思い描いた理想の戦略は、頓挫した。運河を巡る情勢の変化が慌ただしかったからだ。

 運河の国の王太子が、初対面の相手に何も知らないまま嫁ぐという、怒濤の急展開をもって応じなければならないほど。


「この作戦には三つほど不安材料があった。一、時間が掛かる。二、イゼルアの王子が愚鈍だという前提が必要。三、恋愛ができない僕に夫婦の真似事が可能かどうか」


 ロイはゆっくりとカップを傾け、喉を潤した。


「結果的に実行しなくて良かったよ。不安は二つ的中した」

「二つ? 時間がなかったのは分かる。それと、私が愚かだというのも」

「それは違う。違うよ。違うんだ。君は本当に、驚くほど聡明だ。恐らく僕程度が仕掛けるハニートラップに引っ掛かってくれなかっただろう。逆に、戦略を理解して留まってくれるだけの分別があって助かったと思っている」


 いつもの冷静さを忘れて慌てて否定するロイが、何だかおかしかった。

 戦略上の想定である『イゼルア王太子が愚鈍である必要性』を当の本人に語ってしまったことを、これ以上ない失態だったと反省しているようだ。


「では、最後の一つは」

「それは杞憂だった。案外僕は、こうして君と過ごす時間を楽しいと思っている。失礼な喩えかも知れないけど家族が……祖父母が生きていた頃を思い出すんだ」


 決して失礼ではない。心からそう思ってくれているのであれば、これ以上なく光栄なことだ。

 ロイが複雑で繊細な人間だということは分かっている。人と合わせるのが苦手なのも、頭が良すぎるからだろう。他人が鈍く見えて、煩わしいのだ。

 だが家族であれば。


「僕が思っていたほど、他人を慕うことは、良識に欠ける感情という訳ではないらしい」

「どうしてそんな風に思い込んでいるのか知らないが、お前は決して、他人を愛せない人間という訳ではないと思う。本当に血も涙もないなら、兵士を死なせることに胸を痛めないだろう」


 かつてそういう人間が、歴史を築いてきた。

 サフィルでさえ、アルス=ザレラの支援は軍事力だと思っていた。南を押し留めるに足りる数の兵を貸してくれるのだと信じていた。

 戦って命を落とした者達の亡骸の上に建つ平和を、疑わなかった。


 前髪をくしゃくしゃ弄りながら、ロイがふいと顔を背ける。

 サフィルもだいぶ、彼の感情が分かるようになってきた。照れている。


「昔、祖母に言われたんだよ。僕はね、僕と同じくらい賢い人じゃないと恋の相手にならないだろうって」

「それは分かる。お前の頭に付いていける人間はそういない」

「でも同じじゃ駄目だよ。僕が気付けないことは、僕と同じ頭の持ち主も気付かない。完璧じゃないからね、見落とすことはある。それを指摘できるのは僕ではない他人なんだ。それがやっと分かってきた」


 君のお陰だ、と言わんばかりの笑みを向けられ、サフィルは戸惑う。


「この焼き菓子はどう思う?」

「初めて食べた味だ。悪くない」

「南大陸原産の木の実でね。王都の方で流行している。ここでも品薄で、取引の値段が上がっているね」


 ピンときた。

 もう一度、テーブルに肘をついて身を乗り出す。


「仕掛けたな?」

「まさか。いち地方都市にそこまで市場を操作する影響力はない。ただの偶然だよ」

「だとしても、利用するつもりだろう?」

「当然」


 現在、南部諸国は運河の開放という目的によって結託している。だがもし通行が自由化されれば、仲間同士の競争が始まる。

 待ち受けているのは残酷なまでの平等。


「お茶の葉やお菓子に混ぜる木の実は、北大陸にとって必須ではないからね。運河の通行が自由化されて価格が暴落しても、社会を動かす力はないよ。注目したいのは北の穀物と、南の貴金属や宝石」

「……南部同士の戦争が始まりそうだな」

「敵を救うほど僕も暇じゃないんだ。資源が北へ流出し切ってしまう前に、運河から手を引いてくれると有り難い」


 サフィルは焼き菓子の残りを口に入れ、ゆっくり噛みしめた。

 運河を巡る情勢は、運河の国の王子にとっても予想外の難しい展開を迎えようとしている。


「ただひとつ、問題があるとすれば……」

「何だ?」

「どうやら向こうにも、かなり賢い人がいるっぽいんだよ。その人物が、僕と同じ答えを出してくれたら良いんだけど」


 両勢力の頭脳が、共に『戦わない』という結論を導き出せば、戦争は終わる。

 だがロイの顔を見る限り、そう都合良くはいかなそうだ。

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