第6話 双つの花
仕事中だろうと夜中だろうと、ロイが在室中であろうとなかろうと、西の塔の天辺にある通称『子供部屋』を好きに訪ねて構わない。
サフィルはそう許可を得ていた。
が、実際にあの部屋の扉を叩くのは、なかなか勇気を必要とした。
ロイはサフィルに対してきつく当たることは無い。いつもにこやかに応じてくれる。
それだけに、負担をかけているのではないかと勘繰ってしまう。
実際は、意図せず問題解決のきっかけを与えた格好になり、ロイに感謝されてしまったのだが。
本人が気付いていない思い込みを、サフィルが指摘したのだそうだ。
袋小路に入りかけていた策士は再び頭の冴えを取り戻し。
そして今、何故か、妃の髪を弄っている。
ロイに背を向ける形でベッドに腰掛け、繊細に触れてくる指を感じながら、サフィルはゆったりと流れる夜の時間を楽しんでいる。
困った時、考え込む時、ロイは自身の前髪をくしゃくしゃと握る。最近は自前のそれではなく、妃のものの方がお気に入りらしい。
触れられるのは嫌で自分自身は襟足を短く刈っているのだから、勝手なものだ。
「作戦の方は、うまくいきそうか?」
「そのために努力しているよ」
嘘をつかない約束をしてくれた。だから極端に楽観的なことは言ってくれない。
謙虚で誠実な言葉だけが返ってくる。
サフィルはロイとの暮らしやフランクの滞在を経験したことで、嘘のない関係が心地良いものであると理解しつつある。
誠実さは、例え言葉足らずだったとしても、美しく並べ立てられた虚言より遙かに心を打つ。
——勿論ロイが、偽りの婚姻で世界中を騙そうとしている大胆不敵な策士だということは理解しているつもりだが。
「そろそろ次の動きを仕掛ける」
「南部諸国の分断だったな」
「そう。運河が自由化されない方が良いという方向に誘導する」
「簡単に言うが、可能なのか?」
「多分ね。今は通航料のお陰で抑えられている南部諸国の格差は、運河を開放すると大きく広がる。彼らもそれに気付くよ。同じ条件で争ったら、強い国が勝つのは当然だ」
髪を触られながら、サフィルはロイの言葉を丁寧に咀嚼してみた。
キルスティン運河は、船の大きさや積み荷に応じて通航料を分けている。
それによって格差が抑えられているとは思わなかった。確かに、大国の巨大商船も小国の小舟も同じ条件で自由に往来できるなら、競争は激しくなるだろう。
「僕達が離縁して君が帰国すれば、イゼルアとアルス=ザレラの関係は弱くなったと取られる。だからこそ、運河は今のままが最良だという常識を南にも根付かせないといけない」
「つまり私が祖国へ帰れるか否かは、南部の常識が変わるかどうかにかかっている訳だ」
「あまり時間をかけないようにしないといけないね」
「心配ない。いざとなれば、私には弟がいる」
一瞬、サフィルの髪を弄るロイの手が止まったような気がした。
「……僕にもいた」
「
肩越しに振り向くサフィルの頭を、ロイは両手に挟んで優しく前に戻した。
「二つ下で、母親似の僕とは違って父そっくりだった。王族の、正しい金褐色の髪で。賢くて、誰からも愛されていて。でも……七つか八つの時に熱病で死んでしまった」
「お前が十歳の頃だな。もしかして」
「そう。同時に罹った。弟だけではない、従兄弟姉妹も何人か一斉に原因不明の高熱を出してね。治ったのは僕一人だ」
それが十歳にして王都を離れた理由の根幹だと、サフィルは察した。
弟や親族の命を奪った病に、たった一人だけ打ち勝ったロイは、そのことを己の罪のように感じてしまったのではないだろうか。
繊細な心の持ち主だ。きっと子供の頃は今より感じやすい少年だったに違いない。
「君に嘘をつかないと約束したよね。あれは原因不明の流行り病だと僕は思っている。ほんの一夏だけ流行り、王族の子供ばかり何人も命を落とした、ただの不運な出来事だ」
そんな風に強調する辺り、本心では納得できていないのでは。
気にはなったが追求しないでおいた。
「悲しみから目を背けて、こんな風に言うのは失礼だとは思うが、私は、お前がここにいてくれて良かったと心から思っている」
「……そうだね。君の力になれる今が幸運だとしたら、過去の不幸の意味が変わってみえる」
遠くかすかに鐘の音が聞こえた。
午後の東流れから早朝の西流れへ、潮流が変わった合図だ。
「もうそんな時間か。そろそろ解放してあげないと」
「気が済んだか?」
「うん。ありがとう。何故だろうね、君の髪に触れていると頭が良く働く」
ようやく頭を解放されて、サフィルは尻をずらして振り向いてみた。
ロイは相変わらず、何を考えているのか分からない曖昧な笑みを浮かべたまま。
無意識だろうと思っていたが、どうやらロイ本人も自覚があって、サフィルの髪を弄りたがっているらしい。
ものを考える時の、丁度良い手遊びの道具と認定されてしまったようだ。
「部屋に戻ろう。お前ももう頭を使わないで、横になる支度をするといい」
「そうだね。休養は大事だ」
「ではおやすみ、我が君」
「良い夢を。我が妃。暗いから足下に気を付けて」
ロイは優しい笑顔でサフィルを送り出してくれた。
***
部屋に戻ったサフィルは、ベッドに入る前にもうひとつ胸に引っかかっている案件を片付けることにした。
先代城主の机の抽斗に隠しておいた、小さな革の包みを取り出す。
昼間、フランクを見送った帰りにマーケットで手渡されたものだ。職人は、返し忘れたサフィルの耳環だと言っていたが、明らかにそれより大きなものが包まれている。
細い組紐を解いて、上質な革を広げる。
と。
そこに包まれていたものと、受け取った際にかけられた言葉、その全てが一目で理解できた。
金縁の鼻眼鏡がひとつ。
確かにこれは、紛失すれば一大事だ。ロイの眼がどの程度悪いのか分からないが、少なくとも眼鏡を外したところを見た事がない程度には、これに頼って生活をしている。
そう言えば初めてマーケットに連れて行ってもらった時、金銀細工の露店の女性職人はロイに挨拶代わりに眼鏡の調子を確認していた。
ロイが動き回れるのも仕事ができるのも、彼女のお陰なのだ。
初めて間近に見る鼻眼鏡。レンズの部分に触れないよう用心しながら、サフィルはオイルランプの傍でそれを熱心にあらためた。
軽く鼻の上に持ってきて覗くと、世界が歪んで見えた。これでまともに見えているというのが不思議で仕方がない。
ロイがいつも掛けているものと違い、繊細な鎖がついていた。その先に針状の留め具。服に刺して、落下を防ぐものだ。
ピンの頭には金細工の立体的な、丸い五弁の花があしらってあった。パウリナは、城主の幸運のしるし。きっとロイの安寧を願って拵えてくれたのだろう。城主は本当に、市民に慕われているようだ。
「……あっ」
何気なくピンを弄っていて、思わずサフィルは驚きの声を出した。
危うく見落とすところだった。針を留める台座にも細工が施されている。
繊細な彫刻だった。尖った六枚の花弁をおおらかに広げる、大輪の花。
それはイゼルアの象徴、浜白百合。
運河の国の民が最も愛する、海辺に咲く花。
唐突に、サフィルは理解した。
この眼鏡は城主の妃のために誂えられたもの。サフィルが大切に持っておかなくてはならないものだと。
ロイは眼鏡を掛けっぱなしだ。落として気付かない訳がなく、留め具で服にぶら下げる必要がない。
もちろん落とした拍子に破損する懸念はあるが、少なくともこの眼鏡の制作者はそれを心配していない。こう言ったのだ。『紛失なさってはいけません』と。
ロイが眼鏡を紛失する状況がいつどのように発生するのか分からない。
ただサフィルには、妃として、城主の危機に対応することが求められている。
鎖を引き出したまま、眼鏡の部分のみ丁寧に革で包み、組紐を結ぶ。
そして無意識に、それを胸に押し当てた。
人生を共に歩むことに、こんなにも心が揺り動かされる。
例え政略結婚であったとしても。
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