第3話 温和な嘘と素っ気ない誠実

「おっと。——失礼」

「おお、これはザフィル」


 爽やかな笑顔と、耳障りな発音。

 考え事をしながら歩いていたせいか、できる限り避けたい相手と、うっかり階段の曲がり際で鉢合わせしてしまった。エルデグランツ城は直線的な造りだが、古く堅牢なだけにこういう見通しの悪い場所は幾らもある。


「おはよう、フランク卿」

「おはようございます。今日も良い天気ですな」


 もはやその言葉が似合わない時間だったが、朝食の席に現れなかった朝寝坊に敢えてちょっとした皮肉を込めて挨拶をする。

 フランクはと言うと、その程度の皮肉には気付くことさえないようだ。相変わらず陽気な笑顔をサフィルに返す。

 朗らかで好意的な態度であればあるほど、空っぽに思えた。従兄弟の政略結婚相手に対し、虚飾など必要ないのに。


「敬称など不要です。どうぞ遠慮なく呼び捨てにして下さい」

「主より身分が上の客人に対し、そこまで礼儀を欠くべきではないだろう。フランク卿。では、失礼」

「何かお急ぎの用でも?」


 立ち話をする気満々のフランクに、サフィルはひとつ息を吐いた。

 この場を切り抜ける巧い嘘が、咄嗟に出てこない。


「いや、特に何も」

「さしずめ暇を持て余して散策中といったところですかな。ここは我がアルス=ザレラ最西端の貿易港、従兄弟は輸出入関連の書類仕事に追われているし、日々寂しいでしょう。ザフィル」


 だいぶ慣れたとは言え、内陸の発音で呼ばれるたび心に小さな波が立つ。

 わざとではない、悪気があってのことではないと、サフィルは己に言い聞かせる。


「そう言えばあなたの名前、一人で練習したんですよ。いかがです? 発音が良くなったでしょう」

「いや。全く」

「えっ本当に? 自分では正しく言えているつもりなのですが……。ザフィル。ザフィ……ザ、ザフィッ」

「もう良い。気にするな。それで?」


 正しく呼ばれるまで待っていては永遠に話が始まらない。適当なところで遮って、先を促す。

 早く解放されたかった。

 フランクは面目なさそうに照れ笑いをする。


 今日は、まだ午前中なのに珍しくきちんと身なりを整えていた。

 大国の第六王子は生活が乱れきっている。いつも午前中は二日酔いでぼろぼろで、水を飲むのがやっと。フランクが伊達男の体裁を整えるのは、太陽が真上に近付く頃だ。

 最初から、サフィルと『偶然』鉢合わせる機会を狙っていたのではないか。うっかりそんな邪推をしてしまいたくなる。


「どうでしょう。お互い暇なようだし、また手合わせをしませんか。あなたの剣はこう、ぐっと胸に来る。舞うように美しく、それでいて命を狩られる恐怖を肌で感じるほど鋭い」

「……さすがにそれは言い過ぎだ」

「いや。こう見えてお世辞が下手な方でしてね。あなたに向ける言葉はどれも素直な気持ちです」


 真顔で嘯くロイの従兄弟——つまりサフィルの義理の従兄弟に、もはや呆れて苦笑すら漏れなかった。

 こういう心にもない賞賛が、アルス=ザレラの王族の流儀なのだとしたら、ロイが早々に脱落したのも頷ける。

 頭が良いせいか、様々な劣等感をこじらせたのが原因か、ロイは人一倍繊細な質だった。あからさまな嘘やお世辞にも笑顔で応じなければならない世界はさぞ窮屈だろう。


 フランクがにじり寄って来る。

 サフィルは後退る。

 壁に背がついてしまっても、フランクはまだ距離を詰めてきた。


「あなたの剣に惚れました。……いや、あなたにと申し上げるべきかな」

「それは国際問題になるぞ」

「そうですかな? 却って今より更に良くなるのでは?」


 満面の笑みが不気味だった。

 快活であまりにも魅力的な笑顔は逆に、危険な罠を疑わせる。

 甘い香りで獲物を誘惑し、毒に溺れさせる部類の。


「どう解釈したら、今より良くなるんだ」

「イゼルアに必要なのはアルス=ザレラとの繋がりだけ。つまり、あなたが結ばれる相手が王族の誰だろうと変わりはしない。いやむしろ、王太子であるあなたに相応しいのは父の三番目の妃の二番目の子供より王位継承権が低いロイなんかじゃない」


 ちらりと、フランクの眸の奥底に潜む闇が濃さを増したように見えた。

 その熱い視線に、逆に肌寒さを感じる。


「……何が言いたい」

「あなたに相応しいのは、あなたを愛することができる相手です。ザフィル」


 逃れられないでいるサフィルの後ろの壁に片手をついて、フランクが更に顔を近付けてくる。


 何だ、これは。

 サフィルは言い知れない悪寒に身をすくませた。

 愛の言葉が寒いと感じたのは初めてだ。


 真剣にサフィルを見つめ、熱心に口説くフランクの纏う、言い知れない冷気。これは政略結婚であるとあっさり認めたロイの素っ気ない態度の方が、まだ温もりを感じる。


 サフィルはゆっくり頭を左右に振る。それに合わせて、銀細工の耳飾りがさらりと揺れた。


「貴殿が私を愛するとは、とても思えない」

「試してみないと分かりませんよ? ロイより上手だという自信があります」

「……そっちの話か」

「昔っからロイは頭の中でしか楽しめない奴なんです。玩具を手に入れても遊ぶことはなく、遊んでいるさまを想像して楽しむ。きっとあなたのこともそうだ。子供部屋に閉じこもって夜な夜な、あなたを愛し愛される妄想をするだけ。ろくに触られてもいないんでしょう? 満足できてます?」


 頬を撫でようとする手を払い除け、静かに、フランクの眸の闇を睨む。


「愛されるために結婚した訳ではないし、それで構わないんだが」

「愛される必要があるんですよ、あなたには」

「私はただの道具だよ。世界情勢を動かすための道具。正常に働けばそれで良い。大切に扱う必要はないんだ」


 フランクは二度ほど瞬きし。

 ほろ苦い笑みを浮かべた。


「どちらか片方でいい、相手を真剣に愛していると言ってくれたなら、この結婚を応援できたんですがね」

「作戦には感情が絡まない方が良い。好きになってしまえば支障を来す。それだけだ」

「『ふり』だけで世界を動かそうなんて。この作戦に唯一欠けているもの、それは真実の愛だ。俺ならあなたを存分に愛してあげられるのに。身も心も蕩けるまでね」


 予想外だった。

 二人の王子による政略結婚の、アルス=ザレラ側の立場を、フランクが狙って来るとは。

 それも妃を愛でるという、ある意味、婚姻が持つ本来の関係を欲して。


 ——否。

 ロイは予期していたのかも知れない。

 フランクの来訪を知った瞬間すぐ、サフィルに言い寄ることを警戒していた。

 あの段階で既に、こうなることが分かっていたのだ。


「諦めませんよ。あなたには、俺の方が相応しい」

「身分が私と釣り合っているかどうかは、王位継承順位だけで測るものでもない。……我が君は、恐らく第一王子よりも強い発言権を、貴国において持っている」


 ほんの僅かにフランクの表情が引き攣った。

 直系の王子にとって、見下すべき傍系の王子が『総帥』として重用されることは、好ましくないらしい。

 久々の再会で敢えてロイを閣下と称し持ち上げたのも、理由が分かれば辛辣すぎて笑えない嫌味だ。


「理由を教えてくれ。何故、この作戦に首を突っ込みたがる」

「一目惚れしたからです。あなたに。そして気付いたんですよ。ザフィルの相手は俺でも良い、いやむしろ俺であるべきだと」


 一体誰に惚れたんだ、と。

 サフィルを口説き落とす最も重要な場面においてさえ名前が正しく発音できないフランクに、呆れて返す言葉も出てこない。

 内陸風のざらついた発音が、そのままフランクへの不信感に繋がっていた。仮に第六王子の口車に乗せられ、騙されそうになったとしても、ひとたび名前を呼ばれれば我に返るだろう。


「同じ政略結婚なら、愛があった方が楽しいでしょう?」

「安心しろ。私が貴殿を愛する可能性は、万に一つもない」


 二つ分かったことがある。

 フランクは軽々しく嘘をつく。

 そしてロイは、つかない。


 ロイが、耳触りの良い愛の言葉や軽率な慰めを口にしないのは、真実だけを語ってくれているからだ。

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