第2話 心が根付いた場所
故郷の方へ沈む夕日を見送った後、二人で食堂の間へ向かえば、夕食の支度もまだだと言うのにフランクはとっくに上機嫌で錫の酒器を傾けていた。
根っからの遊び人という話だが、仮に遊び相手がいなくても一人で楽しく酒が呑める質らしい。
「よう、相変わらず仲が良いなお二人さん。まあ遠慮なく座れよ」
「……誰の城だと思っているんだ」
さも頭痛がすると言いたげにロイは眉間を押さえた。サフィルはただ呆れるのみ。
フランクはサフィルと同じく、城の中で行動の制限を受けていない——西の塔と南翼上階、つまり城の住人の私室に近付かないという戒め以外。
呑むと言い出したなら酒を出してやるよう、使用人達は言いつけられている。これまでは、目を離しても問題を起こすようなことはないだろうと放置されていた。
だが今回、城主は客人を警戒している。
地方に住んでいる従兄弟が隣国の王子を妃に迎えた、どうやら政略結婚らしい、という噂を聞きつけてやって来たというフランクが、本心から祝福を述べるためだけに行動したとは思えないからだ。
これが戦略の一環であると分かっていたなら、邪魔をする意味がない。では何故ちょっかいを出すのか。
先に婚姻した親族へのただの嫌がらせか、何らかの思惑があってのことか、それとも単に気が利かないだけなのか。
ロイにもフランクの本心はまだ掴めていない様子。
だからこそ、陽気に酔っ払っている客人が不思議で仕方がない。
「ごきげんようザフィッ……」
わざとではないかと思うくらい、フランクはサフィルの名前が言えなかった。
だがそれを愛嬌のある笑顔でごまかそうとする辺りは計算じみている。
フランクの茶目っ気は天然ではなく、彼は自分の魅力を正しく把握し、それを最大限に演出している。
自由人を装っているが、ある意味典型的な『王族』だ。
「失礼。今宵もお美しい」
「昼間も会ったろう?」
「美しいものに美しいとため息を吐く回数は、制限されていません」
歯の浮くような台詞を真顔で吐く、社交慣れしているフランクに、サフィルは肩をすくめる。
獅子の鬣のような豊かな金褐色の髪、色合い豊かな榛色の双眸、少し大袈裟に表情を刻む顔、広い肩、厚い胸。第六王子は容姿に恵まれている。
その上、陽気で朗らかで、ユーモアに長けている。ロイが従兄弟に劣等感を抱くのも、分かりたくはないが分かる話だった。
「如何ですかな、こちらでの暮らしは」
「……それは君が気にすることじゃないだろ、フランク」
「いや、ロイ、俺も国中あちこち渡り歩いたが、エルデ城市こそ最高の地方都市と断言して良いと思っているんだ。誰かに、美しい風景を求めて旅をしたいと相談されたら、真っ先にここを推挙する。美しい海を見、美味い料理を味わうためだけに訪れる価値がある」
ロイが微妙な表情をしていた。
城主として街に誇りを持っているからこそ、賞賛されればもちろん嬉しい。
だがフランクの言葉に滲む、王族の高慢さはサフィルも感じた。最高の『地方都市』、つまり王都とは比べるべくもないと言い切っている。
鏡を見ているようだった。
サフィル自身、己が高慢な王族であったと気付いたばかり。
常識的に考えれば、国王の傍系で二つ年下の地方城主ロイは、王太子サフィルよりは格下だ。が、その格下の主君がどれほど頼もしいかは、既に理解している。
イゼルアという国をあげて何もできなかった運河の情勢を、実際に動かしてみせているのだから。
「分かったから、もう帰れ」
「冷たいなあ。せっかく遊びに来た従兄弟に向かって」
「気付いていない訳がないよな? 今この城は戦時下にある」
上座の、窓を背にした椅子を引きながら、ロイがさらりと言い放つ。
フランクが一瞬、驚いた貌をした。
まだ戦場は城主の頭の中にしかない。しかもその城主は新婚。ここエルデ城市が、更にはエルデ城市を抱えるアルス=ザレラが目に見えない戦争をしているという認識は、フランクにはなかったのだろう。
実際に軍隊が武器を交え、殺し合いをしている訳ではない。が、これは間違いなく戦争なのだ。
それも、武力による対立を避けるための。
「……お前、ほんと変わってるな」
「説明したはずだ。どこの国にとっても最も負担の少ない形でおさめる」
「うまく行きゃ良いけど?」
含みを持たせたフランクの言葉が気になったが、食事が運ばれてきたため剣呑な会話はそれ以上続かなかった。
この辺りは、皆わきまえている。
いつものように、食卓は港町の自慢の料理で華やかに賑わった。
そしていつものように、フランクは絶賛した。アルス=ザレラは昼食をたくさん食べて夜は軽く済ませる風習なので、夜のご馳走が楽しいと、今宵も同じ話をする。
サフィルはロイと向かい合って座っているため、フランクの話を半分聞き流しながら、窓の向こうの暮れなずむ空がいつしかしっとりとした夜に包まれていく様子を眺めていた。
「なあロイ。俺はそろそろ都へ帰ろうと思うんだが」
「それは朗報だ」
「お前達も一緒に行こうぜ」
ロイの冷たい返しに怯むことなく、平然と、フランクは言い放った。
魚の骨を取り除くのに集中していたロイががばっと顔を上げ、驚愕の面持ちで従兄弟を睨む。
「……なんで」
「なんでって。当然だろ、国王陛下と王弟殿下に結婚のご報告をさしあげろ」
「手紙を書いた」
「それで済まされると思うなよ。人生において最高に大切な節目じゃないか」
じわりと、ロイの顔が険しくなっていく。
「それが目的か」
「いや。何となく思いついた。こんな機会でもなけりゃ里帰りしないだろ、お前」
薄灰色の眸が僅かに伏せられた。
サフィルは黙ってロイの言葉を待つ。
エルデ城市の民は、心から城主の婚姻を祝福してくれていた。だからこそ騙すことがつらい。
恐らく王都の、ロイの親族達は皆、国の西端で遂行されている作戦について理解している。が、偽りだと知れ渡っている夫婦を演じ続けることは、善良な市民を欺くこととはまた別の困難を伴うだろう。
できることなら表舞台に立ちたくない。
しかし、二国間の絆を強調するのがサフィルの使命。
アルス=ザレラは運河への関心が薄い、と南部大陸の諸国が判断した途端、サフィルの故郷は再び標的となる。
「里帰り、ね」
ロイは軽く首を傾げた。
「君は何か勘違いしている。僕の故郷は、ここだよ」
「……ロイ」
「産まれたのは王都だったけど、根付いたのはエルデ城市だ。無理に切り離せば、僕は枯れてしまうだろうね」
手元の皿の、食べかけの魚料理を穏やかに眺めながら、従兄弟の方を見遣ることもなく、ロイは静かに告げた。
いつだったかサフィルにもそう言った。エルデ城市こそ己の世界の中心であると。華やかな王国の中枢さえ、ロイにとっては辺境の地でしかない。
「ちょいと挨拶に行くのも嫌か」
「うん」
「陛下の元でその頭を役立てるつもりはないってことだな」
「そうだよ」
分かったらもう二度とその話題を振るなとばかり、一度冷たい笑顔を向けてから、気を取り直してロイは魚の骨外しに戻る。
ふとサフィルは、従兄弟がやって来た目的が『総帥閣下を連れ戻すこと』ではないかと勘付き、そこはかとない不安を覚えた。
武官の頂点である父親に手紙で作戦を指示していると言っていた。どれほどロイの頭が切れたとしても、そこには致命的な欠陥が存在する。
時間が掛かりすぎるのだ。
早馬と郵便船を用いる手紙の往復には、最短でも十日を要する。天候が荒れればもっとかかる。
泰然自若とした大国に、たった十日で状況が一変するような危機的状況が訪れたことがあるのかどうかは分からないが、返信を待つ間は気を揉むだろう。
総帥ロイが傍に仕えてくれたらと思っているはずだ。
「僕の妃は名前の響きさえ美しいんだよ」
「いきなり何の惚気だ」
「分からないかなあ」
ロイが苦笑する。
サフィルには分かった。
彼もまた、内陸の発音でサフィルの名を呼ばれたくないのだ。
何故なら——この地の全てを、愛しているから。
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