第二章 この愛は戦略であり
第1話 夕陽と細波
エルデグランツ城から見る夕陽は、見事だった。
太陽が名残を惜しみつつ水平線の彼方に没していく時、空も海も漆喰の白い町並みさえも朱色に染まる。
そのさまは、一日として同じではなかった。毎日違う顔を、サフィルに見せてくれた。
断崖絶壁に聳える古城はきっと、海を愛でるために造られたのだろう。南翼先端にある歴代城主の部屋のバルコニーに出れば、海の上を翔んでいるかのような錯覚を味わえる。
三方向を水平線に囲まれた景色は、城主の特権。
サフィルもまた、祖国の海とは全く違うエルデ城市の景色をとても好ましく思っていた。
毎日のように、岬の突端にあたるバルコニーで夕日を眺める。
夕立のお陰で空気が洗われ、空はいつも以上に赤く染まり、まだ空に残る黒い雨雲の縁が黄金色に目映く照り映えている。
祖国に通じる空を青玉の眸に映し、サフィルは一人静かに物思いに耽っていた。
主に、突然現れた城主の従兄弟について。
エルデ城市の港に双頭の黄鷹旗を掲げる瀟洒な帆船が繋留されて、数日。
フランクの来訪は、城に微妙な緊張をもたらした。
穏やかな城主とその偽りの妃、そして僅かばかりの使用人と兵士という静かな城に突如投げ込まれた石が、凪いだ水面に波紋を刻む。
不快とまではいかないが、好意的に受け止めることも難しい波を。
相手は政略結婚作戦を把握しているのに、なぜか城主は酷く警戒している。邪魔になる可能性があると。
実際——どういう目論見か、第六王子はやたらサフィルに絡んできた。
突然の婚姻から二十日ほど。ようやく隣国での暮らしに慣れ始めていたサフィルにとって、フランクの存在は色々と引っかかった。
ロイの忠告がなくとも、彼に靡くことは一切なかったろう。が、相手もそれを承知の上で、自身の魅力ではなくもっとサフィルの気を引くもの、例えばロイの過去だとか、そういった話題で釣ろうとしている気がする。
厄介だった。
ロイには秘密や隠し事が多い。フランクはそれらを匂わせ、否応なくサフィルの好奇心を擽る。
恋愛感情で第六王子の方に惹かれることはまず無いと断言できるが、ロイの秘密を知っている人物という意味で関心が出てきてしまう。
熱病のこと。花のこと。片牙の毒蛇。若くして国王陛下に助言するほどの才を持ちながら、都へ戻らず、地方城主のままでいる理由。
そして何より、ここまで誠実に運河を護ろうとしてくれる意味。
それらをフランクは知っているのだろうか。
「——だめだ」
思わず声に出して、サフィルは自分自身を叱った。
弄ばれている。
楽しそうな玩具を目の前でちらつかせているフランクの誘惑に、耐えなくては。
「サフィル」
ゆっくりと没していく太陽を、ただじっと眺めていた。
背後に人がいる気配に気付かずに。
名前を呼ばれて振り向くと、穏やかな貌をした主君の姿がある。
「ごめん。きっと外に出ているんだろうと思って、返事がなかったけど勝手に入ってしまった」
「いや、こちらこそ気付かなくてすまない」
濡れた敷石を気にしつつバルコニーへ出てきたロイは、サフィルの横で目を閉じ、肺をめいっぱい膨らませて雨上がりの湿った匂いを潮風と共に吸い込んだ。
サフィルも釣られて深呼吸する。
懐かしさと新しさが混在する空気。
「エルデの海は本当に素晴らしい」
素直に賞賛すればロイはにこやかに頷く。
「遠い昔、僕の母方の祖先がここに城を造った。どうしてこの場所を選んだのかは、夕方になると分かるね」
「歴代の城主が愛した風景なんだろうな」
「当代の城主である僕ももちろん、エルデの海が好きだよ。はっきりとは見えないけど」
目の悪さは、ロイの持ち前の自虐だった。
「冬の、すごく空気が澄んでいる時だけ、ここから南部大陸が薄く見えるんだ。西へ行けばどんどん二つの大陸は近付いていく」
「そして西の果ての、私の国で接する」
「まだイゼルアに行ったことがなくて、運河を実際に見ていないけれど、歴史を調べてみれば昔は帆船が通れる幅なんてなかったことが分かる」
「そう。運河を利用する世界じゅうの船が大きくなるごとに、削っていった。広く。深く。常に拡張し続けているから岸を固めることもできない」
ロイが小さく幾度も頷く。
運河は、勝手にそこに在る訳ではない。南の諸国は理解してくれなかったイゼルアの存在意義に、この作戦を指揮する総帥だけは、目を向けてくれている。
ロイにどんな過去や秘密があろうとも、そこだけは肯定できる。それだけで、ロイを信じなくてはならないと分かる。
「何百年か前、ここエルデ城市はアルス=ザレラに併呑された。けど、あの貪欲な大国が大陸の西端を目指さず、侵略をここで止めた理由が、今なら良く分かる」
「我が国に運河を維持させるため?」
「君の国にしかできないことだろうからね。管理を任せて、金を出して通った方が良いという結論だよ」
その結論で、国を説得してくれたのだろう。
捻り出した戦略はあまりにも奇想天外なものだったが。
「南部がただ黙って手を引いてくれれば良いけれど。無理なら次の手を打たないといけない」
「訊いても良いか?」
「大した内容じゃないよ。結託して運河を狙っている連中を仲違いさせるだけ」
だけ、とは言うがだいぶ大胆な作戦だ。
意図は汲めたが、どうやって実現するのか見当も付かない。
ロイの貌を見る限り、南部諸国同士を造反させる何らかの策は既に持っているようだ。
じっと見つめられていることに気付いたロイがサフィルの方を向き、ひどく真面目な表情になる。
「それより優先してあたるべき喫緊の問題がひとつある。フランクだ」
ああ、とサフィルは理解し、頷いた。
初日の段階でロイはフランクを一日も早く追い返すと語っていた。
居座ってなかなか帰らない従兄弟に真剣に手を焼いている。
サフィルも概ね同感だった。
フランクは六番目とは言え国王の息子、まあまあ礼儀正しかったし、特別に理不尽な要求をして周囲を困らせもしない。城主に冷たくあしらわれても気にせず一人で楽しんでいる。
サフィルの名前を発音できないのは別問題として、従兄弟に失礼な物言いをするのはロイもお互い様だった。気の置けない仲の二人は今も子供のように罵り合う。
悪人ではなさそうに見える。
だが今は、二国の王子同士の婚礼を利用した大掛かりな作戦の真っ最中だ。この状況でサフィルに言い寄るなど、空気が読めないにもほどがある。
大国の軍総帥は、戦術に関して神経質だった。
従兄弟の存在を
恐らくロイは、容易に他人を信頼できないのだろう。気心の知れた従兄弟さえ。
繰り返しサフィルに自分を信じてと訴えるのも、その裏返し。サフィルがロイを信じるかどうかが信じられないのだ。
どれが本当のロイなのか、サフィルには判断がつかなかった。
従兄弟を邪険に扱う、冷徹な眸の策士。妃に繊細に心を砕く主君。やんちゃで子供っぽい城主。
政略結婚という策を取ったのは武力衝突を避け、一兵も損なうことなく事態を収拾する温厚さか。婚姻さえ躊躇なく道具に使える薄情さゆえなのか。
ロイが分からない。
ただ彼が複雑な立場にあることと、心に何らかの闇を抱えていることは確かだ。それがこの作戦に悪い影響を与えそうな、嫌な予感がする。
従兄弟に対するロイの警戒ぶりを見る限り、何も知らない方が良いような気がする。
駒として掌の上で転がされているだけの状況は面白くなかったが、下手に詮索したり口を挟んだりして、自分自身がロイの雑音になってしまう訳にはいかない。
「もう少し待ってて。速やかにあいつを追い出すから」
「……私はお前を信じている」
「ありがとう」
ロイを信じる。
目を閉じ、耳を塞いで、ただ言われた通りの城主の妃を大人しく演じ続ける。それこそが祖国の平和に最も貢献する行為だ。サフィル個人の感情を挟む必要などない。
それは祖国を離れる前にサフィルが警戒していた屈辱とは、また別の痛みだった。
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