第9話 総帥閣下の幸運のしるし

 ロイが仕事をしている間、サフィルは自由を約束されていた。

 どこを歩いてもいいし、何をしても良い。一人で城外に出ること以外。


 サフィルの身の安全は確実に保証する。イゼルアの国王——つまりサフィルの父親と、総帥として約束したという。

 ロイははっきり言わなかったが、サフィルの父が安全の代償の交換条件を受け入れた理由は、恐らくそこにある。国境の南に火が点きそうな状況において王太子を北の国へ嫁に出すことは、見方によってはイゼルアにも利があった。


 もし運河が攻撃され都市が破壊されたとしても、少なくともサフィルだけは助かる。

 イゼルアの、キルスティン運河の正当な所有者の血統が生き残り、未来へ希望を繋ぐ。


 隣国へ亡命しろと言われたところで、サフィルは首を縦に振らなかっただろう。祖国が緊張状態にある中、一人だけ安全な場所に匿ってもらう訳にはいかない。

 だがサフィルには大国との絆を取り持つ役割が与えられた。ただ護られるのではなく、使命がある。


 二重三重にこの政略結婚は良く考えられていた。

 だからこそ、ただ転がされているだけの自分が不甲斐ない。


「ザフィル!」


 ざらつく不快な発音で呼ばれた気がして、ふと我に返った。


 南翼だけが長い短剣のような形をしたエルデグランツ城の、東西南北の棟が交わる中心にある吹き抜けの中庭には、古風な城に似合わない近代的な温室がある。

 初対面の時ロイが胸に飾っていた——そしてサフィルの髪に差してくれた——淡い桃色の大きな花をつける植物だけが、そこで大切に育てられていた。

 どういう意図でこの花を育てているのかは分からなかったが、何となくそれを眺めるのが好きで、サフィルは良く温室を訪れる。探す時は最初にここに来れば良いと、城の主と使用人には既に周知されている。

 だが昨日訪れたばかりの客人は、当然知らない。


「ザフィル! ザフィ——ザフ、サ、フィ、ええと——殿下!」

「何か用かな。フランク卿」

「おお、こんなところに」


 中庭をぐるりと囲む回廊から、南翼の方へ走り去ろうとしていたフランクを呼び止める。

 驚いた様子で踵を返し、満面の笑みで駆けてきた。

 君に言い寄るかも知れないとロイに忠告されたことを思い出す。なるほどその友好的な笑顔は、人たらしの才能に溢れていた。


「練習してはいるものの、どうにも極西の発音は難しい」


 サフィルは黙って首を左右に振った。


「それで、私を捜していたのでは」

「いや特別に用事がある訳ではないんですが。従兄弟が仕事している間はどうも暇で。あなたも退屈しているのでは?」

「だいぶ慣れた。話し相手くらいなら」

「ありがとうザフィ——殿下。この花は良くないから場所を替えましょう」


 フランクの視線が開け放したままだった温室の中へ向く。

 常に爽やかな笑顔を浮かべている第六王子が、ここで初めて顔を顰めた。サフィルには美しい花にしか見えないものに、何らかの嫌悪感を示している。


「花がどうかしたのか」

「あれは不吉なんですよ」


 そんなものを妃の髪に添えたのだろうか? あの日、万雷の拍手と祝福の声の中で。まるで永遠の愛を誓うような格好を真似しながら。


 ロイが花を飾ってくれた左の耳の上辺りを、何となく手で触れる。


「あいつを信じちゃいけませんよ。何考えてるか、分かったもんじゃない」


 城主の従兄弟は真剣な眼をしていた。

 サフィルはその榛色をじっと覗き込む。嘘は、眸の奥底に闇となって留まる。それをごまかすことは難しい。

 少なくともロイの眸の底には、闇を探せなかった。本当に戦争を回避するためだけに動いているのだと思っている。


「どちらか片方を信じろと言われたら、私は、私の主君の方を選ぶ」

「……いや分かってはいます。南部大陸を黙らせる上で、運河の国と手を組むのは確かに効果的な手だと。どうせ弱い相手にしか喧嘩を売らない連中です、アルス=ザレラに楯突く度胸なんざ持っちゃいない」

「それが分かっていて何故疑う」

「あいつがそんなまともな策を練るとは思えないからですよ。あいつは危険だ。こんな離れた場所から、我が国の咽頭に咬み付いている」


 片牙の毒蛇——

 ロイ本人が同じことを言った。牙を片方、王都に残してきたと。


「それは、どういう」


 石の廊下に反響する足音にサフィルは半分安堵し、半分残念に思った。


「サフィル、やっぱりここに——なんだ君もいたのか」

「悪いね。大切な妃を借りてるよ」

「貸したくない。もう帰れ」


 急いで中庭にやってきて、ロイはサフィルを従兄弟から奪い返した。

 寝室でさえ指一本触れないのに、人前ではこうしてさも当然のように抱き寄せる。策士は、他人を欺くことに慣れているのだろう。

 サフィルも努力して、城主に愛されている妃になり切ろうと試みる。長身のロイに身を預けて。


「昨日着いたばかりなのに酷いな」

「もてなして欲しかったらちゃんと連絡しろ」

「つまんねえだろ、そんなんじゃ」


 フランクは朗らかに笑う。

 先ほど見せた闇は、もうその眸の底に存在しない。


 見間違いであれば良いのだが、と、サフィルは苦い思いを飲み込んだ。



 ***



 城主は妃を自室へ誘った。

 その理由は分かる。西の塔へは、従兄弟も立ち入りが禁止されているからだ。


「大切な話でもあるのか」

「なくもないけど、あいつを追い出すまでしないでおこう」


 ロイの様子は相変わらず緩いが、どうやらフランクにかなり腹を立てている様子。

 前髪をくしゃくしゃ混ぜる仕草に、苛立ちが伝わってきた。


「彼はこの作戦の内側にいるんだろう?」

「あいつは信用できない。……予想通り、やっぱり君に言い寄ったし」


 部屋の中心にある大きな地球儀の、真鍮の枠を指先で撫でていたサフィルは、拗ねたようなロイの口ぶりに驚いた。

 一般的にその反応は、嫉妬、と言える。

 作戦の邪魔であるというのが本来の意図だとしても、ロイが過剰に劣等感を抱え込む性格だということを既に理解している以上、そうとしか思えなかった。


「社交辞令だろ。気にするな」

「気にしたくないけど気になるんだよ。あいつが君に、僕のことを良く言うはずがない」

「ロイ。——なあ聞いてくれ。


 互いの絆を意識させる呼び名を用いれば、ロイが改まった様子でサフィルを見た。眼鏡越しにやや眼を眇めながらじっと。


「お前が言ったんだろう。信じろと。だから私はお前を、お前の方を信じる」

「……ありがとう。我が妃」

「どういたしまして」


 物静かで冷たい、いつもの城主が戻ってきた。

 否。『総帥』が。

 こんな片田舎の小さな城の中からアルス=ザレラの軍事力を思うまま操る、策士が。


「フランクにこの作戦を邪魔する利はない、あるとすれば面白半分、もしくは君に本気で惚れたか」

「まさか」

「充分ありえる話だよ。絶対に、あいつの言葉に耳を貸さないように」


 それを聞いてサフィルの胸に引っかかっていたものが、もう抑えきれなくなった。


「温室の花のことを教えて欲しい」

「……呪われてるとでも言ってた?」


 サフィルは曖昧に頷いて肯定した。


「花の名前はパウリナ。母は幸運のしるしだと信じている。そして僕は、母の解釈を概ねそのまま理解している」

「捉え方が正反対だ」

「昔、王都でちょっとした事件があってね。悲しい出来事だったけど、母にとってはこれ以上ない幸運だったんだよ」


 ロイが言葉をやんわり濁したことで、これ以上訊いても無駄と悟った。

 あの花は王族の薄暗い過去に繋がっている。

 そしてそれに踏み込む権利は、サフィルにはない。


 少なくともロイは今、サフィルに力を貸してくれている。

 王都の問題は、運河の均衡に関係がない。


「この作戦、想像以上に雑音ノイズが多い……でも大丈夫、必ずうまくいくよ」

「言ったろう。私はお前を信じる」


 転がされるだけ。だが身を委ねるしかなかった。

 己の主君を信じることしか、今はできない。


 作戦はまだ、始まったばかり。






— 第一章 了 —

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