第8話 王太子の嗜み
潮流の関係で、王都から下る急ぎの船便は夜明け前に城に届く。
お陰でロイは毎日、朝食の前に手紙と向き合う。
結婚祝いも落ち着き、内容は日常に戻りつつあった。母親からの手紙にも、父親に対するぼやきが読み取れない。ということは、国の中枢は平和だ。
ここしばらくアルス=ザレラは穏やかで、大きな話題もなかった——西の果てで城主が唐突に結婚した以外。
「おはよう、ロイ」
昨夜の酔いや疲れを引きずる様子もなく、サフィルが目の前の椅子を引いた。
挨拶を返し、手紙を片付ける。
「お前の従兄弟が訪ねて来る夢を見たような気がする」
「安心して。それは夢じゃない」
「……夢の方が良かったのでは?」
「そう思うよ」
サフィルの視線が長テーブルの端へさりげなく移動する。
そこには客人がいつ起きてきても良いよう、水の入ったグラスがぽつんと置いてあった。
「ずいぶんな扱いだ」
「気にすることはないよ。いつも通り。あいつも迷惑がられるのを承知であちこちの親戚を訪ね歩いている」
「何故」
「王城にいたくないんだろう」
国王の寵愛を一身に受けて育った王太子サフィルには、分からない感覚かも知れない。
フランクは第六王子で、王位継承権第四位。玉座は遠く、かと言って都を去るほど自由が許されてもいない。
サフィルはまだ腑に落ちない様子だったが、朝食が並んだところで会話は終わり、異なる国の者がそれぞれ己の信仰する者と向き合う、静謐な時間が訪れた。
ロイはアルス=ザレラを守護する豊穣神に感謝を捧げる。
と。
餓えた獣のような唸り声と共に、食堂の間の扉が勢い良く開かれる。
城主の従兄弟は用意されていた水を、酒のせいで渇ききった体内に勢い良く流し込んだ。
かなり酔いが残っている様子でふらふらだったが、それでも身なりだけは整えている。
「ああ、すまん。あんまり静かだから誰もいないのかと思った。二人とも敬虔で良いことだ」
そして祈りを邪魔したことを雑に詫びる。
「……何か食べるなら用意させる」
「いや。朝はどうも受け付けん。お前達が食べ終わるのを庭で待ってよう」
「庭?」
サフィルが反応してしまった。フランクがにやりと笑う。
「朝の運動ですよ。朝食後に手合わせでも如何ですかな。ザフィル」
「剣なら、儀礼的なものしか嗜んでいないが」
名前を正しく発音しないのは挑発のつもりか、それとも本当に言えないだけか。
そう呼ばれる度にサフィルは静かに怒る。王族として感情を表に出すことはないが、明らかに苛ついている。
サフィルの剣技がどの程度かは知らないが、少なくとも武人らしい雰囲気ではない。フランクは恐らくロイの妃に恥をかかせるつもりだ。
これは、止めた方が良い。
だがロイは、好奇心に負けてしまった。
運河の国イゼルアの儀礼を——サフィルの剣を、ぜひ見てみたい。
***
運河の他にイゼルアが大切にしていた、もうひとつの宝。それがサフィル王子。
容姿に恵まれただけではなく、己を磨く才能も持ち合わせていたようだ。その剣の冴えは門外漢のロイにも分かる。
鞘を払い、鈍色に輝く練習用の剣をきゅんと素早く振ってみせた瞬間に、肌で感じた。
かなりの使い手であると。
王太子だからと甘やかされることなく、幼い頃から厳しく武芸を叩き込まれているようだ。
「お手柔らかに頼む。フランク卿」
謙虚だが余裕たっぷりの言葉だった。
もしかしたら、サフィルは最初から気付いていたのかも知れない。第六王子の太い腕や厚い胸はただの見かけ倒しでしかないと。
花壇の脇の日陰にしゃがんで両膝を抱えて、従兄弟と妃の手合わせを眺める。瑞々しい朝の太陽の下、白い石畳の前庭が眩しくて眼を眇めつつ。
幾度となく、二振りの剣が鋭い音を立ててぶつかり合った。主に攻めるのはフランク。サフィルは丁寧にそれを処理している。絡め取ったり、弾いたり、かち上げたり。
ぱっと見はサフィルの方が圧されている。が、フランクの剣を防御しているに過ぎないサフィルは不思議なほど安定していて、見ていて全く危うさを感じない。
「……強い」
切り結ぶこと、しばし。
先に息が上がったのはフランクだった。
剣を握ったまま、肩を激しく上下させている。
サフィルの方はまだ涼しげな貌で、相手が呼吸を整えるまで待ってやっていた。あれだけ動いたのに、軽い準備運動が済んだと言わんばかり。
「なんとお強い。美しいだけでなく剣の腕も立つとは」
「あれだけ手加減してもらえば当然だ」
王太子は余裕で、見え透いた謙遜をしてみせた。
フランクが途中から本気で挑んでいたのは、傍から見ていても分かる。
むきになって剣を繰り出していたが、残念ながらサフィルの体勢を崩すことはできなかった。
「ロイ、交代」
「無理だよ。見えないから」
「よく言うぜ。眼を患う前からだろ、お前の運動嫌いは」
「うるさい」
フランクを早く追い出さなくてはと、ロイは改めて決意を固めた。
このままでは不名誉な子供時代のあれこれが、全部サフィルに知られてしまう。フランクは面白がって、昔のことを話題にするだろう。
「このくらいにしよう。本調子ではないのだろう?」
「ああ、そうとも。昨日、二人に会えたのが嬉しくて少し呑みすぎてしまった」
サフィルが配慮の行き届いた申し出をし、フランクが負け惜しみで応えた。
そして二人とも、優雅に礼をして剣を収める。サフィルの作法は細部まで綺麗だった。剣技の練習ではなく、何らかの、完成された舞台芸術を観賞しているような気分になる。
「フランク。水浴びでもして来い。すごい汗だ」
「そうしよう。ではザフィルもご一緒に」
「駄目だ」
サフィルが反応するより先に、強めに釘を刺す。
「諦めてくれ。サフィルは僕のものなんだ」
「そうむきになるなよ。冗談だって。他の男なら水場で裸の付き合いも有りだろうが、さすがに従兄弟の妃じゃなあ」
「さっさと行け」
邪険に追い払うような仕草で城の中へフランクを追いやる。サフィルは、表情に僅かな不快感を滲ませていた。
やはりあいつは一刻も早く城から出て行ってもらわなくてはならない。
「……すまない。不快な思いをさせたね」
「構わない」
「どんな辱めにも耐えるつもりで来た、って言うんだろう? 僕は君に苦痛を与える気はないんだよ」
読み切れなかった。
まさか作戦に絡んで来るなんて。
——あの遊び人の目的が運河を巡る金や利権だけならまだ良い。サフィルに興味を持たれたらと思うと、寒気がする。
「サフィル。良かったら手を見せてくれないかな」
「手?」
不思議そうにサフィルが手を差し出す。
その手を取り、胼胝が並ぶ掌を親指でぷにぷにしてみた。
「気付かなかった。確かに剣士の手だ」
「本物の剣士にはほど遠い。真似事だよ」
「君があんまり立派な人物だから、僕はこの作戦を今更ながら申し訳なく思う。僕みたいな人間の妃なんてね」
指を絡めるようにして、サフィルがロイの手を握り返す。
そして少し挑発的にこちらを見上げてきた。
「お前、まさか私に劣等感を抱いているのか?」
「だってそうだろう? 君に勝てている部分は背の高さしかない」
「頭の良さは、私には欠片も備わっていないものだ」
「そんなことは」
ばんと勢い良く、フランクが消えていった木戸が開く。
「言い忘れたけどロイ、こないだ叔父貴が——っと、邪魔したな!」
そしてまた、ばんと大きな音を立てて閉じた。
二人はしばし硬直していたが、どちらからともなく、絡めた指を解いて手を放す。
「本当に最低だろう、あいつ」
「賑やかな従兄弟だな」
「苦手なんだよ。ああいうのが」
視力が弱くなって良かったと思ったことは一度もないが、王都から逃れる口実としては立派に役立った。
地方都市の城主という立場も得て、都にいる親族などたまに相手をしてやれば良いだけと軽く考えていた。
まさかこの大切な時期に、狙い澄ましたように邪魔をしに来るとは。
「思ったより大変そうだ……」
内側から崩壊する——フランクの戯れ言がまだ心に引っかかっている。
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