第7話 君の横に肩を並べる
控え目なノックの音。それから、こちらが体裁を整えるわずかな間を置いて、ごく薄く扉が開く。
ロイはいつも遠慮がちにサフィルの部屋を訪れる。
「休んでいるところを申し訳ない。少しいいかな」
「客人の相手はもう良いのか」
「潰れたよ。東翼の客間に放り込んで、衛兵に見張らせている」
扉を大きく開かないのは、癖なのだろうか。いつもあの細い体躯が通るぎりぎりの隙間に、するりと滑り込んで来る。
就寝前の習慣でベッドに腰掛けて本を開いていたものの、少し呑みすぎて文章が頭に入って来ず、ぼんやりしていたところだった。サフィルは自分の横を手でぽんぽんと叩く。と、城主は大人しく、指示された通りにそこに腰掛けた。
「従兄弟が色々、悪かった」
「構わない。私は最初から、どんな辱めにも耐える覚悟をしている」
「……だから君は、一体どんな扱いを想像していたんだ。君の中でアルス=ザレラはまだ中世なのか」
「史上最悪の扱いを想定していた。だから少々戸惑ったよ。いきなり城主の妃になって、こんな贅沢な暮らしをさせてもらって」
正直に告白すれば、小さな眼鏡の向こうで薄灰色の眸がわずかに笑う。
初対面の時、あまりに感情のない冷酷な光を湛えていて恐ろしさすら覚えたロイの双眸が、今はだいぶ柔らかくなったように感じる。
心を交わす必要などない二人も、ずっと一緒に暮らしていればそれなりに親密にはなる。
「最初に言っておくべきだったね。精神的にも、肉体的にも、君を傷付けることを一切しないと」
「最初に言っておくべきだったことは、それではないと思うが」
「ああ……分かってる。僕の肩書きについてだね」
ついさっきまでサフィルは、己の身柄を要求したアルス=ザレラの『総帥』が、突然己の主君になったエルデ城市の城主だということを知らなかった。
もしロイに従兄弟との交流がなければもっと長く、あるいは最後まで、知らなかった可能性さえある。
「説明してもらおうか。総帥閣下」
「その呼び方はやめて欲しいな。文官の総帥なんて、単なる名誉職だ」
ゆったりと脚を組み、ロイは視線をサフィルの顔から横へ滑らせた。
サフィルも何となくロイの視線を追いかけ、上等な絨毯の毛並みを一緒に眺める。
「何年か前、国が北東の少数民族と揉めてたから、父に幾つか簡単な助言をした。それがうまく填って、状況が良くなった。国王陛下もお喜び下さって、それから僕は少しずつ、国の戦略的な部分で意見をするようになったんだ」
「そこでその重い肩書きを賜ったと」
「時に国王陛下をすら諫めなくてはならないから、末端の王族で地方城主のままでは示しが付かないらしい」
サフィルは小さく頷いた。
王族は血統が良いという理由だけで出世する。本当に頭の良い王族を特別に取り立てる上で、軍の階級を与えたのは納得できる話だった。
「それで」
視線をロイに戻す。
彼が総帥なのは分かった。もう一歩踏み込む。
こちらを向いたロイは、ほんの少し驚いたような、恐れているような、微妙な表情をしていた。
「どうして教えてくれなかった? 私の身柄を要求した総帥閣下と、私の結婚相手が、同一人物であると」
「それは——」
ロイの繊細な、長い指が、自身の前髪をくしゃくしゃと混ぜた。
「僕も誰かから命令されてやってると思ってくれたら良いなって」
「何故」
「……冷静に考えてごらん。変だろ? 自ら政略結婚するなんて」
肯定はできなかった。それが最良の手段であったなら、ロイは迷わず遂行するだろう。
「変ではない。……ただし、まともとも言い難いな」
「だよね」
「それが一番ましだったのだろう?」
彼の言葉を繰り返してやれば、ロイは真面目な顔で頷いた。
いつも軽く眼を眇めている。最初は常に睨まれているように感じて落ち着かなかったが、今は、ひどく眼が悪いせいだとちゃんと分かっている。
そして、それを引け目に感じ劣等感を抱いていることも知っている。
「キルスティン運河は均衡の取れた天秤であるべきなんだ。今、天秤は南側に傾いている。これを元に戻すために、大抵の人は北側を重くしようと考える。でもそれでは駄目だ。そんなことをしても永遠に釣り合わないし、どんどん両側に重さがかかっていって、やがて壊れる」
「再び平衡を取り戻すためには、最初にかかった重さを取り除く。自主的に手を引かせる必要がある、と」
「……君は本当に聡明だ」
「そのくらいのことは分かるさ」
「そのくらいのことが分からない連中ばかりだから、運河は危機にさらされているんだよ。こうやって目に見える形で圧をかけないといけない」
思い返せばロイの言葉は、最初からずっとこの作戦の発案者のものだった。
国の中枢に、隣国の王子を妃にするよう命じられたのではなく。自ら考え動いている。
隠し事はするが嘘はつかないと約束してくれた。この作戦を命じた『総帥』が別に存在しているような嘘をつかず、作戦の責任者であることを隠さず、サフィルと向き合っていた。
もっと早く気付くべきだった。運河を護るために動いてくれたのが、遠いアルス=ザレラの中枢ではないことに。
「隣の国で最も賢い軍人が、運河の近くにいてくれたのは、幸運だった」
「人間、誰でも自分の生きている場所が世界の中心なんだ。僕の場合はここ。王都よりイゼルアの方が近いから当然だ」
無理矢理だが妙に説得力のある言葉に、心が和む。
「そして君の世界の中心は祖国だ。早く返してあげないといけない」
「……心配するな。私の根は運河の傍にいつもある。しばらく離れたくらいでイゼルアを忘れたりしない」
「そうだね。その気持ちは、大切に持っていて欲しい」
ロイはほろ苦く微笑んだ。
南部大陸は攻めて出ることも退却することもなく、遠巻きに運河を睨んだまま。
向こうにも賢い者がいるのだろう。大国の後ろ盾の意味をきちんと把握し、次の手を模索して長考に入ったようだ。
もう少し賢ければ、手を引くことこそ最良の手と気付いてくれるはずだ。アルス=ザレラを敵に回してまで運河を奪うことに、何の利もない。
通航料を無料にした程度では購えないほどのものを、失うことになる。
「二度と帰れないのかな。私は」
「そんなことはない。約束するよ。必ずイゼルアに戻してあげる」
「婚姻による同盟関係なら、離縁によって破綻するぞ」
「しない。何があってもアルス=ザレラはイゼルアの味方だ。父も運河を無傷のまま維持する必要性を理解してくれている」
眼に後遺症が残ったことで父親と折り合いが悪くなったと、いつか教えてくれた。
だが息子は父に知恵を、父は息子に力を貸す協力関係にあるのは確かだ。武官として父の跡を継ぐことが難しいだけで、仲は悪くないのだろう。
それに恐らく、父は息子の策士としての才能を正しく認識している。
「僕が考える最良の流れは、君が王位を継承するために祖国へ帰還すること。仲違いではなくね」
「なるほど。では適切な時期が来たら、父に玉座を譲ってくれと頼もう」
軽く冗談めかして言えば、ふと小さくロイが吹き出した。
それから少し悲しい表情になる。
「この作戦に唯一、脆弱な点があるとすれば、僕だ。君はとても魅力的で、話していて楽しい。初めて出会った、僕の真横に立っている人なんだ。君を手放したくないと思い始めてしまうんじゃないか、心配になる」
子供の頃から王族の繊細な上下関係に辟易していたというロイの、真横、の表現がつんと胸に刺さる。
逆に親族が少なく、弟とも歳が離れている王太子サフィルは、逆の立場ながらその孤独に共感できた。
仲を装い続けるうちに、本当に好きになってしまうかも知れない。
ロイの懸念が理解できたからこそ、サフィルはその言葉を冗談として受け流した。
偽りの関係に流されてしまってはいけない。これは、戦略なのだ。
「もう遅い時間だね。僕は部屋に戻るよ。屋敷内に不審な男がいるけど、ここへは近寄らせないから安心して」
「分かった。おやすみ」
「良い夢を」
偽りの仲とは言え、夜半に妃の元を訪れて指一本触れずに帰って行く律儀な城主に、サフィルは苦笑した。
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