第4話 妃には青が似合う

 城主は時々、お忍びで街へ遊びに行くのだという。

 ずっと閉じこもっているのも退屈だろうと、誘われて付いて行ったサフィルは驚いた。

 何しろ、全く忍んでいない。


 大抵の市民は気付いていないふりをしてくれているだけだし、ロイも、ばれていることは承知の上。やはり城主は市民に愛されているようだ。


 エルデ城市は独立した貿易都市であった頃の名残と、アルス=ザレラの領土となってから流れ込んだ内陸の文化とが、無理なく融合している不思議な街だった。

 普段ロイはアルス=ザレラの伝統的な、騎馬民族を元にした格好を適当に崩して着ているが、街へ出る時はその上から、港町の古い風習に倣って黄や橙など鮮やかな色で染めた細長い布を羽織る。

 それが彼なりの『お忍び』の格好ということだった。

 もちろんサフィルにも美しい紗が用意されていた。様々な色合いの青で染められ、海を覗き込んでいるかのようで美しいものだった。


 ロイは市民になりきったつもりで、街を歩く。

 岬の突端を利用した、三方を海に囲まれた断崖絶壁のエルデグランツ城。そこから、まるで海岸線沿いに零れて広がっていったかのような町並み。

 漆喰の真っ白な壁に、原色で塗られた木製の鎧戸と、鮮やかな緑色の蔦の色合いが美しい。


 街は海へ向かって急峻な下り勾配になっている。自然と二人は早足になった。

 迷路のようだったし、行き交う人々や荷を積んだ驢馬に、しばしばロイの背中を見失う。周囲より頭半分背の高い城主を見付けることは容易だったが、知らない街に独り取り残されてしまうような不安がある。

 まして、自分は偽りの妃。市民を騙しているのだという負い目から、恐れを知らぬ王太子の心も小さく戦慄く。


 人混みの中でサフィルの足が止まりがちなことに気付いたのか、ロイがさり気なく、手を繋いでくれた。


 軽く指先を絡める程度。

 だが祖国において常にエスコートする側であり、された経験がほぼないサフィルは、それでもずいぶん緊張した。

 ロイが無意識にやっているように見えるのも、何となく腹が立つ。


 やがて狭い道の左右が民家ではなく露店になった。

 どこの国のどの街も、商業区は賑わう。

 どことなく祖国イゼルアの下町を彷彿とさせる雰囲気だった。海と共に生きる者らの息吹が、良く似ている。


「こっちだ」


 潮風に揺らめく色とりどりの民族衣装や、磁器、ガラス製品、様々な種類の豆など狭い道の脇に並ぶ品物を興味深く眺めながら歩いていたサフィルは、急に手を引っ張られた。

 年配の女性が一人で屋台を出し、何か作業をしている。

 黒い布を掛けた小さなテーブルには、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細な装飾品が並んでいた。


「ようこそ殿下。新しいお眼鏡の調子は如何ですか?」

「とても良い。いつも世話になっているね、少し見せてもらうよ」

「今日は修理ではないのですね。贈り物でしたら、お仕立ても致しますよ」


 金や銀の装飾品はイゼルアにもある。が、細工の手法は見た事もないものだった。糸状に加工した金属をレースのように編んでいる。所々にガラスの小さなビーズを通しているため、朝露を纏った蜘蛛の巣のような、妖艶な魅力があった。

 ざっと眺めて、ロイは青いビーズを編み込んだ銀の耳飾りをひとつ手に取る。そして、しなやかに揺れるそれを、サフィルの顔の横に添えた。


「悪くない」

「……そうか」

「指輪はもう少し待って欲しい。両親が揉めてて」


 指輪など必要ない、と突っぱねようとして、サフィルは言葉を飲み込む。

 市民の前では幸せそうなふりをするよう要請された。確かに、あからさまに不満そうな妃には誰も力を貸したくないだろう。

 祝福されなくてはならなかった。祖国を護ってもらうために。


「何で揉めているんだ」

「代々、父が母に贈った指輪を長男が受け継いで妻に贈る伝統なんだけど、果たして僕はまだ長男なのかどうか」

「……そっちか。てっきり、私が男だからかと」

「それは別に問題ない。僕が本当に愛した人であれば」


 ちくりと針を刺すような嫌味を言ってくる。

 この婚姻関係に愛がないことなど、ロイの両親なら承知の上だろうに。


 女性が椅子をサフィルに勧める。

 促されるまま座ると、普段から耳朶に付けている金の環を外して、今ロイが選んでくれたものに付け換えてくれた。

 繊細な銀糸は軽く、肩に触れるほど長さがあるのに耳を引っ張られる痛みは感じない。


 ロイはサフィルの目の前にしゃがんで両膝を抱え、にこにこしながらこちらを見上げている。


「……何だ」

「僕の妃が、あんまり綺麗だから」


 呆れて何も言えなかった。

 幸せなふりをしているのではなく、心底楽しそうな笑顔。ロイは無邪気に、今の状況を面白がっている。

 異国から嫁いで来た妃を連れてお忍びで街を案内するという、これはロイの楽しい遊びの一環なのだろう。


「変わった奴だな」

「よく言われる」


 女性が慎ましく一歩下がり、頭を下げるので、サフィルは腰を上げた。

 ロイが近付いて何事か囁いている。金額の交渉は聞かない方が良いだろうと、サフィルは二人に背を向け、辺りを見渡した。

 イゼルア北東の端と、アルス=ザレラの西の端エルデ城市は、国境を挟んで隣り合っている。遠く感じた隣の大国も、祖国に一番近い場所は馴染み深い匂いがした。

 港を有し、海と共に生きている。違うのは——ここではもう、南部大陸が遙か水平線の彼方だということ。


 賑わうマーケットを見渡していると、突然、大きな音が空気をびりびりと震わせた。

 二度、三度と。

 無言でロイを見て説明を求める。城主は笑顔だった。危険な音ではないらしい。


「船の接近を報せる銅鑼だよ」

「初めて聞いた気がする」

「そうだね。久しぶりかも知れない。見に行こう」


 ロイはサフィルの手を取って走り始めた。

 やんちゃな奴だ、とサフィルは思った。行動が、衝動的すぎる。


 王太子の身柄と引き替えに、運河防衛のための軍隊を寄越すのだろうと思っていた。

 だがそんなものは必要なかった。

 アルス=ザレラが後ろについたと思わせる、この婚姻の威圧感は、何千の兵より効果的だ。


 だがそんな大それた作戦に平気で身を投じた城主は、意外なほど子供っぽい一面を残している。


「ほら。あれが僕の船だよ」


 迷路のような路地を通り抜け、無人の廃墟と思われる古い建物の庭に我が物顔で入り込み、石壁の崩れた隙間に二人で顔をくっつけて眼下を覗く。

 お忍びで街を歩くのが好き、というのは嘘ではないようだ。ここはこの街で、港を眺めるのに最も良い場所だろう。誰もいない。誰も城主に気付かない。


 桟橋に一艘の帆船が繋留されていた。潮風にたなびく旗には、一本牙の蛇が描かれている。


「個性的な紋章だ」

「十四歳の時、自分で考えた。本当は翼のある獅子なんだけど、僕には格好良すぎて」

「だからと言って蛇はどうなんだ。あれは毒蛇だろう? しかも片牙」

「片方は母の手元に置いてきた。もしもの時アルス=ザレラの咽喉に突き立てるためにね」


 何の比喩なのか、どういう冗談なのか、分かりかねてサフィルはぞくりと背を慄かせた。

 ただやんちゃなだけではない。ロイには言い知れない闇がある。


「ほら、船が見えてきたよ。さっきの銅鑼はあれを迎えるものだね。旗に何が描いてあるか、君の目にはもう見えるかな?」

「黄色い鷹だと思う。頭が二つあるように見える」

「そ……」


 見たままを告げたサフィルの言葉に、ロイがぎくりと硬直した。


「双頭の黄鷹……」

「まずい相手か」

「従兄弟のフランクだ」


 唐突に、サフィルは両肩をロイに掴まれた。

 眼鏡越し薄灰色の眸が、真っ直ぐ、力強く、真面目にサフィルを凝視する。


「サフィル頼みがある。あいつが城に滞在する間、僕の妃を演じてくれ」

「政略結婚に気付いていない方の王族ということか?」

「それはどっちでも良い。僕が心配しているのはそのことじゃなくて、あいつが——」


 ロイの顔が更にサフィルに近付いた。

 その鬼気迫る表情。


「あいつが、あの色男が、君に言い寄ることだ」

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