第3話 小さな懸念
大国の隅にある小さな街、エルデ城市。
変わり映えしなかった毎日に、変化はゆっくりと訪れた。
南部大陸から聞こえてくる運河開放の声がじわじわと大きくなり、いつの間にか看過できないほどになっていったのだ。
たかが二つの大陸の隙間。通過するだけで金を毟られることを快く思わない国は多い。特に南部大陸の経済は北部の豊かな国——主にアルス=ザレラ——との交易に頼っている。
南部大陸は運河の手前に主要な港がないことも相まって、イゼルアが本当に邪魔で仕方がないのだ。
普段なら放っておいてもやがて勝手に鎮まる。が、今回は自然消滅できる線を越えた。凪いだ湖面に石をひとつ投げ込んだように、どんどん波紋が広がっていく。
エルデ城市の城主ローエンヴァルトは、経過を注意深く見守っていた。
運河の国イゼルアの国王が賢ければ良いが、と願いながら。
思惑通り、運河の国は隣国に救いを求めてきた。
そこでアルス=ザレラは、最も安全かつ効果的な介入方法を実践することにした。国境の街の城主とイゼルアの王族との婚姻によって同盟関係を結ぶ。政略結婚であることは隠しようもないが、それで構わない。目に見える形で南部を牽制できる。
アルス=ザレラは運河を欲していない。
現状維持が望ましいと考えている。
今の『秩序』を破壊しようとする南部の諸国へ、この婚姻は明確な意思表示だった。
イゼルアを刺激すればアルス=ザレラが動く。それが分かれば、きっと手を引く。
引かなかった場合は少し痛い目を見てもらうことになる。そのための準備は既に王都で進んでいるはずだ。経済的な圧力はもちろん、最悪の場合は兵を出すことも辞さない。
完璧に隙のない作戦だった。
唯一の誤算は、エルデグランツ城に招いたイゼルアの王太子サフィル王子が、極めて魅力的な青年だったこと——
運河の国の王子は二つ年上。奔放に日焼けした肌と、濃い蜂蜜色をした豊かな髪、そして海をふたつ凝縮したような
誰をも魅了する恵まれた容姿に加え、何より聡明そうで、この屈辱的な作戦を受け入れてなお毅然としていて、高潔だった。
人を愛する心など持っていない冷めた城主だが、己の『妃』の美しさが後々、この作戦に何らかの悪い影響を与えるのではないかと、そんな不安を覚えざるを得なかった。
二人の婚姻は戦略上の措置であり。
そこに感情の入り込む隙は、便箋一枚分の厚みさえもないのだ。
***
婚姻の発表から十日が経ち、城主宛の信書が目に見えて増えた。
王都に情報が行き、そして戻って来るのにかかる日数は、海が荒れなければおよそそのくらい。順当と言えた。
従兄弟姉妹達が一様に手紙を寄越す。祝福の言葉と驚いた旨と、あからさまな政略結婚へちくりと嫌味を添えて。
いつもなら読み飛ばすところだが、この作戦に対する王族の反応を探るためには精査する必要がある。皆、社交的で外面が良い。だがふとした所で本音を漏らす。
「……すごい量だな」
朝の食卓に現れたサフィルが、早朝の船便で届けられた信書の量に驚いている。
顔を上げて、朝の挨拶を交わす。サフィルが纏う大陸最南端の国の衣装は薄い生地と軽やかな仕立てで、涼しげだった。
海と共に生きる国の文化だ。寒冷な内陸部に誕生しじわじわ領土を広げてやっと海に到達したアルス=ザレラとは、衣服の持つ役割が根本から違うのかも知れない。そんなどうでも良い解釈をしながら、既に皿の一枚を置く隙間もないほどに散らかっていたテーブルを慌てて片付けた。
「結婚祝いだ。当たり障りのないものは後で君にも見せよう」
「当たり障りのあるものもあるのか」
「ある。これが政略結婚だと気付いた親族から、運河に口を出す正当性を問うものや、武力衝突の懸念、そもそも関与の必要性を疑う意見など。それから……気付いていない親族からは、僕の方が先に結婚したことに対する嫉妬や怨嗟」
サフィルが呆れた貌をした。
事実だから仕方がない。王族は子沢山で、同世代の従兄弟姉妹が数え切れないほどいるが、ロイはその中で最も内気で引っ込み思案な性格だった。のみならず地方都市に引っ込んで社交界から完全に姿を消している。
田舎城主に良い縁談は来ないだろうし、自ら妃を探す性格でもない。つまり、結婚という言葉と最も縁遠い王族と思われていた。
「アルス=ザレラの王都には、運河の情勢が届いていないのだな」
「大陸の端っこだからね。身近に感じられないんだろう。放置したらどれだけの混乱が生じるか、想像できない」
「だから軍総帥とやらは、西の果ての街を動かした訳か」
「僕は別に近いから手を貸した訳ではないよ。例え王都に住んでいたとしてもイゼルアのために動いた」
サフィルが僅かに眼を見開く。大きくて濃い、海の青。
朝食が運ばれてきたため、この話題は終わった。あまりサフィルに合わせすぎるのも逆に良くないと分かり、時々、アルス=ザレラの王都風の朝食になる。
ミルクで割った温かい茶や甘いパンといった懐かしい朝食が並ぶのも、この十日の間で三回目。幸いサフィルは、慣れない食事も面白がって食べてくれた。国境を接する隣国とは言え、文化の違う異国に滞在しているという事実は、王子の好奇心を刺激するようだ。
食事に手を付ける前に豊穣神に感謝を捧げる。
型通りの口上を心の中で早口に切り上げて顔を上げると、サフィルはまだ祈りの最中だった。
軽く俯いた頬に長い睫毛が影を落としている。ロイの知るサフィルはいつも冷たく無表情だが、神と対話する時だけは物柔らかだった。
これが本来のサフィル。生まれてからずっと、こんな優しい表情で生きてきたのだろう。
祖国のため屈辱に耐える、その苦しみから今だけは解き放たれて、普段の彼が垣間見えた。
窓を背に座るのは、海が眩しすぎるからだった。だが、朝日がサフィルの姿を明るく見せてくれるこの場所は、また別の意味で良い。
「……どうした?」
ぱっと眼を開けたサフィルと視線がかち合った。穏やかだった表情が一転、怪訝な貌になる。
ロイは何でもないと首をゆったり左右に振る。
「今日は髪型が違うね」
「これか? 身支度は全て、この城の使用人に任せている。皆仕事熱心だな」
「ほとんど祖父母の代から仕え続けてくれている。彼女達を気に入ってくれたのなら、嬉しいよ」
「何も不満はない。最近少し打ち解けて、話をしてくれるようになった。お前の髪は短くて結えないとボヤいていたぞ」
「髪を弄られる、あの時間が無駄なんだ。僕には。だから後ろを削いでいる」
身の回りの世話を焼きたがる使用人だけではない。全てを煩わしく思っていた。
孤独は自分に向いている。祖父母を相次いで亡くした時は身を切られるほど悲しかったが、その後に待っていた静寂こそが身を置くべき場所だったのだと悟った。
使用人の手を煩わせるのは、食事の支度や屋敷の管理など自分にできない範囲のみ。人付き合いも必要最低限。王族とは仕方なく連絡を取り合っているが、本来なら縁を切ってしまいたいと思っている。
サフィルとの婚姻も必要あってのことだ。
じきに終わる。
じきにまた、独りの世界に戻る。
「不自由だとは思うけど、少しでも快適に過ごせるよう力を尽くすよ。他に必要なものがあれば遠慮なく言って欲しい」
「私に必要なものは、祖国の平和。それだけだ」
「……それに関しては全力で取り組んでいる。大丈夫、今は作戦の途中なだけ。すぐにかつての、理想的な状態に戻るよ」
「お前は?」
青玉の双眸が真っ直ぐにロイを射貫く。
ロイは穏やかに口角を上げた。
「僕も今まで通りの暮らしに戻る」
それ以外の自分の未来を想像することができなかった。
どのような可能性も思い浮かばない。
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