第2話 新婚生活は唐突に

 部屋の中に人の気配を感じ、サフィルは目を覚ました。

 見覚えのない景色に一瞬戸惑うが、すぐに、自分が隣国へ『嫁いだ』ことを思い出す。


「おはようございます殿下。お支度をさせていただきます」


 サフィルが起きたことに気付いた使用人達が丁寧にお辞儀をする。

 この城の流儀を知らないサフィルは曖昧に返事をした。


 ロイが付けてくれた『三人か四人』の使用人は、きびきびと手際良く仕事をする。

 熱い湯と冷たい水が用意されていたし、着せ付けてくれたのはサフィルが持ってきた自前の服。肩にかかる豊かな金髪は念入りに拭いたあと綺麗に梳られ、側頭部を編み込んで半分を後ろにまとめられた。


 それから食堂の間へと案内される。

 広い部屋に鎮座する大きなテーブルの奥の方、昨日サフィルを一目見ようと市民が集まった庭園に通じる大きな窓を背にして、既にロイがついていた。


 朝なのに髪はくしゃくしゃで重く額に降りていたし、シャツは清潔そうだが着崩れている。彼の使用人は、城主の身支度を整えることを諦めているらしい。特別な用事——例えば市民の前に出て婚姻を報告するような——がない限り。


 食卓の上に、大量の書類が重ねられている。

 片肘をついて眼鏡越しにそれらを一枚一枚睨んでいたロイが、真向かいに座らされるサフィルに気付いて顔を上げた。


「おはようサフィル。ちゃんと眠れたかな」

「ああ」

「それは良かった」


 旅の疲れだけではなく、精神的にもくたくただった。頭の中が混乱していて眠れないかと思ったが、意外とあっさり熟睡してしまった。

 そして、自分でも癪なほど心地良い目覚めを迎えた。


 サフィルの顔をしばしじっと眺めた後、ロイは満足そうに微笑んで頷く。

 それから、雑に書類をまとめ始めた。


「君の前でこういう作業は失礼だね」

「いや。構わない」

「大切な用事ではないんだよ。七割が親戚の関係だ。日常的にこの量、十日もすれば僕が結婚したことが王都にも知れ渡ってごっそり増えるだろうね。いっそ失明したことにして、手紙を寄越さないよう牽制してやろうかと思うこともある」

「……そうすると、今度は伝令が毎日やって来て、口頭で伝えることになるんじゃないのか?」

「む。それはそれで鬱陶しいか」


 二人の元に朝食が運ばれてきた。

 薄く切った二種類のパン、焼いた卵や煮た豆や数種類の果物など。どれもこれも馴染みのあるものばかり。


「……わざわざイゼルア風にしなくても」

「このくらいのことはするよ。幸いイゼルアの主要な都市は運河のこちら側にあるから、安く手に入る」


 運河が物価を釣り上げているような物言いに反発したかったが、ロイがテーブルの上で指を組んだので黙る。

 祈祷を邪魔するべきではない。


 サフィルも黙って頭を垂れ、久々に祈りを捧げてから、朝食に手を付ける。

 ふと、ロイが感謝を告げた相手が自分と同じなのかどうか気になった。思えば、隣国の文化や風習を何も知らない。

 サフィルにとって世界とはイゼルアを指した。その外に興味などなかった。


「失明する可能性があるのか?」

「さっきの話? ……さあ、どうだろうね」

「その目は病気か」

「子供の時、熱病に罹って、頭の……何と言うかな、見え方を調節する部分が壊れてしまったんだ。つまりまた高熱を出せば、更に悪くなる可能性はある」

「熱病で目が悪くなるなんて、聞いたことがないな」

「城付きの医者も首を傾げていたそうだ」


 容姿に全く気を遣わない人物ではあったが、食事の作法は綺麗で、育ちの良さが伺える。祈りを欠かさない敬虔さも持つ。

 軍総帥とやらが押し付けたであろう政略結婚を躊躇いなく遂行できるロイの冷徹さは、状況を正しく見定める極めて優秀な頭脳を持っている証。

 サフィルは、彼の良い部分を探した。


 サフィルには、何もできることがない。大国の掌の上で転がされる、ただの駒。

 だからこそ信じたかった。ロイがイゼルアのために動いていると。信じられる要素を指折り数えることで、安心したかった。

 祖国のために正しい道を歩んでいるのだと、思いたかった。


「もし興味があるなら、この後、城内を案内しようと思うんだけど」


 城主の申し出を、サフィルは受けることにした。



 ***



 エルデ城市はアルス=ザレラ南西の端にある、王都から見て最も遠い街だった。

 昔は独立した城砦都市だったが、何代か前の城主がアルス=ザレラに忠誠を誓い、大国の一部となった。ロイの前の城主は母方の祖父。

 十歳の時に患った原因不明の熱病で目を悪くし、それが原因で王弟である父との関係がこじれた。障害を持ったことで爵位を継ぐに相応しくないと判断され、静養と称して王都を離れ祖父母に預けられることとなった。

 それから十数年。祖父母を看取り、今はエルデ城市の当代の城主として、国境の街を統治している。


 古めかしい様式の城の造りももちろんだが、歩きながら語ってくれたロイの生い立ちもまた興味深かった。


「母君に兄弟姉妹はいないのか」

「伯父達は王都に移ったし、叔母達はそれぞれ別の街に嫁いだ。今ここにいる祖父の血筋は僕一人だ」

「なるほど。市民は悲しんでいるだろうな。城主が選んだ相手が私で」

「……そうかな。皆、僕の性格を知っているだろうから、結婚できただけで大喜びしてくれるはずだよ」


 二人分の足音がやけに響く石の廊下をゆっくり進みながら、ロイは気になることを言う。

 愛されている、心配されている城主なのだろうか。確かに頼りなく見えるが、やっていることは剛胆だ。王国のこんな隅っこで、その名を利用して南部大陸の諸国に圧力をかけるという、無茶な作戦の中心に躊躇なく身を置いている。


「そして、離縁されても『やっぱり』って思うだろうね」

「その振る舞いは、わざとか」

「わざとじゃない。結果的にそうなっているだけ。僕に平和な街の統治者なんて向いていないんだよ」


 重厚な木戸を押し開けると、見覚えのある、温室のある中庭に出た。

 城を一周したらしい。


 思った以上に広く、そして閑散とした城だった。

 岬の突端、断崖絶壁に身を乗り出すように聳えるエルデグランツ城。北を市街地と接し、三方向は海を臨む。護り易いが逃げ場がない、孤独な要塞という印象が胸に残った。

 女性達の部屋があったという北翼も、今は住む者が誰もいない。


「最後に、君が良ければ、僕の部屋に案内しよう」

「ああ。是非見てみたい」

「じゃあこっちへ。従兄弟達も入れたことがないんだけど」


 西塔にあるロイの私室へは、螺旋階段を幾らか登る必要があった。

 目の悪い少年に与えるには場所が悪すぎないかと思わなくもなかったが、一歩、彼の世界に入ってみればその考えは吹き飛ぶ。

 そこは紛れもなく、孫を思う先代城主夫妻の愛情が遺されたままになっていた。


 円形の広い部屋の壁は濃い青で塗られ、黄色い星が一面に描かれている。高い天井にもガラスでできた星がたくさん吊り下げられ、きっと夜にランプを灯せばきらきらと瞬いてそれは美しいだろうと想像できた。

 壁に沿って弧を描く本棚には本と帆船の模型が並び、部屋のちょうど中央辺りに大きな地球儀がある。窓辺には望遠鏡が、海賊の宝箱を模したような箱を台にして海に向いている。古めかしい甲冑のレプリカが壁の暗がりを向いて立っていて、今にも振り向きそうでどうにも気になる。

 背の高い大人へ成長してしまった部屋の主に合わせてベッドや机は大きなものだったが、確かにここは『子供部屋』のままだった。


「……不思議だな。知れば知るほど、お前という人物が分からなくなる」

「そうかな。別に難しくはないと思うよ」


 ロイは地球儀をくるりと回し、キルスティン運河で止めた。

 その指先が差し示すサフィルの祖国は、世界に比べてあまりにもちっぽけだ。


「僕も、できれば君のことを知りたいと思う」

「私のこと? ……私も別に、そう難しくはない。ただの、世間知らずの王子だ」


 窓の向こうに水平線が、夏の陽光にきらきらと輝いていた。

 この街の海は、運河の国の海とは違って向こう岸が見えない。

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