第一章 策士はまだ恋を知らない
第1話 運命の一日
激動の日が、ようやく終わろうとしていた。
海に突き出した岬の先端に聳えるエルデグランツ城。窓から見える水平線は沈みゆく太陽に染められて茜色から紺色へ変わっていき、やがて空も海も闇に覆われる。
心地良い夜に心が宥められ、ようやくサフィルは己の置かれている状況を冷静に俯瞰できるようになった。
サフィルを迎えに来た船が、城の真下にある専用の船着き場に碇を降ろしたのは、まだ太陽が目映く頭上に輝く頃だった。
案内されるまま、断崖の中に造られた階段を登って城に入り、庭園を眼下に臨むバルコニーへ案内され。
そこで唐突に、城主ローエンヴァルトとの『婚姻』が、集まったエルデ市民に告げられた。
そこから記憶が曖昧だった。
気付いたら豪華な部屋の中央にある、大きなベッドに腰掛けていた。
自国から運んだ荷物は全て部屋に運び込まれている。既に沢山の蝋燭とオイルランプに火が灯されている。ベッドの脇の小さなテーブルには水差しと軽食が置いてある。
何がどうなって、今、ここにいるのだろう。
サフィルはゆっくり後ろに倒れた。肌触りの良いリネンと柔らかなベッドが優しく体を受け止めてくれる。
今のこの状況が予想外すぎて、頭の中が混乱している。ベッドの天蓋を見るともなく眺めながら、順番に思い出し、整理してみる。
発端は、南の大陸にある複数の国家から運河の全面解放を要求されたことだった。
南北大陸が接する場所、海洋交通の要所キルスティン運河は、サフィルの祖国イゼルアの宝だった。
世界中の国の船がここを通る。
そのため海洋貿易が盛んになればなるほどイゼルアは栄え、そして、栄えるほどに妬まれた。
世界で唯一、通航料が必要な海域。キルスティン運河。
どうやら世界中の多くの国はイゼルアのことを、ただ船を通してやるだけで金を巻き上げる悪い国だと思っているらしい。
公海の一部を不当に占拠しているという言いがかりを根拠に、イゼルアに対する、南部大陸の幾つかの国が発する『正義』の声はじわじわと大きくなっていった。
サフィルの父であるイゼルア国王は、南からの圧力に対抗するため北部の諸国へ救いを求めた。すると隣国アルス=ザレラ、大陸で最も強大な軍事力を有している大国の、しかも全軍を統括する総帥が、父王の訴えを聞き届けてくれた。
だが総帥は、運河を護る全面的な協力の代償として、厳しい交換条件を突き付けた。王太子サフィルを国境の城砦都市エルデ城市へ寄越すように、と。
大国は、兵を貸す代わりに、王太子を人質に取るつもりなのだと思った。
イゼルアの裏切りを封じるために。
「何なんだ……」
華美ではないが上等だと分かるリネンに転がり、天蓋を睨みながら、思わず声に出して呟いていた。
サフィルはこれまで、自国という小さな世界の中心にいた。自分の周りを世界が廻っていると解釈していた。
だから、何も分からず振り回されている現状に納得がいかない。
捕虜になる覚悟でやって来たのに。
待っていたのは、若き城主ローエンヴァルトとサフィルの婚姻を祝福するエルデの市民。
二つの王国が手を取り合うための、王族同士の婚姻——それは分かる。だが、自分と彼である必要があったのだろうか?
王太子である自分が、国王の直系ですらない地方城主の『妃』になることを、サフィルはどうしても受け入れられなかった。
偽りの婚姻だと分かっていても、その屈辱を飲み込むことができない。
腹の中でぐつぐつと煮え滾る憤りを持て余すサフィルの耳に、小さな、控えめなノックの音が聞こえてきた。
一呼吸置いて、部屋の扉が薄く開く。
長身を屈めるようにしてロイが扉の隙間からするりと入ってきた。
「独りにしてすまない。思ったより時間を取られてしまった。結婚するというのは、想像していた以上に、その、煩雑な手続きを伴うものだ。——ああ楽にして」
身を起こし、立ち上がろうとしたサフィルを、ロイは穏やかな口調で留める。
仕方なくベッドに腰掛けたまま、城主を目で追う。
金縁の鼻眼鏡越しに部屋をざっと見渡し、ふうむと小さく唸った後、ロイは唐突に自身の髪をくしゃくしゃと混ぜ始めた。
それから白い礼服の襟を緩める。
「失礼。久々に公の用事で市民の前に出るから、使用人達が頑張ってくれたんだけど、こういう堅苦しい格好はどうも苦手なんだ」
どさりと降りた前髪は、赤みの強い褐色だった。昼間、燃えるような赤毛に見えたのは、眩しい陽光の悪戯だったようだ。
これが、着飾らない本当の城主ローエンヴァルト。王族にしては珍しく襟足を短くしているくせに、眼鏡を隠したがっているかのように前髪は長くてくしゃくしゃ。着崩した礼服。低く静かな声と、穏やかに微笑んだままの顔。
何とも、掴み所がない。
サフィルが凝視していることに気付いていないふりで、ロイは部屋を見渡す。
「懐かしい……。久々に入ったよ。ここは祖父の部屋だった。街のために一日中、ここで執務をしていた」
窓に向かう大きな机は空っぽだった。懐かしむように、ロイは掌で天板をさする。
「城で一番良い部屋だ。今日からは君が、好きに使うといい」
「城主の間を空き部屋にしていたのか?」
「そうだよ。僕は西塔の子供部屋を出るつもりがないからね。あそこはとても居心地が良い」
変わった奴だ。
知れば知るほどロイが分からなくなる。
「ここ南翼は無人だ。たまに僕が通りすがる以外は、三人……四人かな、君の身の回りの手伝いをする使用人がいるだけ。彼女達の存在さえ受け入れてくれれば、何も問題ないはずだ。窮屈だとは思うが、我慢して欲しい。じゃあ明日」
「ロイ、ひとつ訊いても良いか?」
立ち去ろうとするロイを引き留める。
ん、と小さく首を傾げ、ロイは質問に応じる姿勢を見せた。
「答えられることなら」
「何故お前達は、世界を敵に回す方を選んだんだ」
世界中からイゼルアは嫌われている。海を私物化していると。
多くの国が、運河を解放すべきと訴え連携し始めている。
サフィルには理解できなかった。王族同士の婚姻という大掛かりな手を打ってまで、アルス=ザレラが味方になってくれた理由が。
世界中を敵に回すと、ロイは言った。その真意を真っ直ぐに問う。
「——それが一番ましだからだよ」
「まし?」
「君の国には二つの道があった。降伏して運河を手放すか。あるいは抵抗し、侵略を受けるか。どちらにしろ地獄だ。イゼルアは通航料を取る権利と共に運河を維持する義務を負っている。それが失われた未来を思えば……どう考えたって、現状維持が最も合理的な選択だ」
ロイは、真面目な貌をしていた。
大真面目に、サフィルの祖国の存在意義を認めてくれた。
強そうな眼鏡越しに、彼だけは、南部の諸国が目を向けようとしない運河のもうひとつの面をしっかりと見据えている。
あれが、意外と手と金の掛かる気分屋な存在であると、知っている。
「悲しいことに、人間は目先の利益に騙されやすい。運河をイゼルアから取り上げて誰でも自由に通れるようにしよう、っていう主張が素晴らしいものに聞こえるんだ」
「それを止めるための結婚なのは、理解しているつもりだ」
「しばらくの我慢だよ。運河に手を出せばアルス=ザレラが黙っていない、というのが常識として浸透すれば、向こうは引き下がる」
「引かなかったら?」
「その時のことは、またその時に考えよう」
この話はここまでとばかり、ロイは笑顔で頷いた。
「おやすみ、サフィル王子。今日は疲れたろう、ゆっくり休んで。明日の朝は使用人が起こしに来るから、支度は任せて良い」
「私に愛称で呼べと言っておきながら、自分は敬称を付けるのをやめないんだな」
「……言われてみれば、おかしいね。じゃあおやすみサフィル」
ロイは城主の間を出て行った。
しばしロイの消えた扉を眺めながら、サフィルは混乱を更に深めていた。
まだ分からないことだらけだ。特に分からないのが——
『初夜』を広い部屋で独り過ごしている、今のこの状況だ。
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