総帥閣下の笑わない麗妃
ゆきむら燎
プロローグ
これは、夢だ。夢に違いない——
サフィルはただ、目の前に広がる光景を唖然としてその
見上げれば濃厚な色をした夏の青空と夕立を呼びそうな嵩の高い雲、正面には遙か遠くに輝く水平線、そして眼下を埋め尽くすのは人々の笑顔、笑顔、笑顔。
海に突き出すように聳えるエルデグランツ城の庭園は、エルデ城市の住人が全員詰めかけたのではないかというほど賑わっている。
そして二階のバルコニーに呆然と立ち尽くすサフィルを見上げ、笑顔で手を振っている。
彼らの歓声が、万雷の拍手と共にうねりとなって幾度も城を揺るがした。おめでとう。結婚おめでとう。二人ともお幸せに。口々に、民はそう叫んでサフィルの結婚を寿ぐ。
理解できなかった。
何故、見知らぬ場所で身に覚えのない祝福を受けているのだろう?
自分はここ、隣国アルス=ザレラ領の城砦都市のひとつであり祖国と国境を接するエルデ城市に、人質として赴いたはず。
祖国、イゼルアを護る代償として。
なのに何故。一体どうして、民衆の前に出て歓声を浴びているのか。夢でなければ説明がつかない。
「笑顔は無しか?」
低く穏やかな声に、左横へ視線を移す。
バルコニーの石の欄干に身を委ねて、サフィルの『結婚相手』がさも面白いものを眺めているような顔つきでこちらを見ている。
純白の礼服に身を包み、陽光に輝く赤い髪は撫で付けて額をさらし、金縁の鼻眼鏡越しに冷徹な灰色の眸で。
「……笑える状態か? これが」
「考え方次第だよ」
エルデグランツ城主にしてアルス=ザレラ王甥ローエンヴァルトは、静かで冷たい笑みを浮かべる。
「これは『理由』だからね。サフィル王子。君が我が国に軍事的な協力を要請する理由であり、我々が君の祖国を護る理由。つまり」
「王族同士の婚姻による軍事同盟……そのために私をここへ呼んだのか」
「その通り。君が聡明で助かったよ」
サフィルは静かに息を呑んだ。
力を借りる代償としてこの街に囚われることには違いがない。
ただし扱いは、サフィルの想像とは真逆だった。捕虜ではなく、城主の妃。
二つの国が歩み寄り、手を取り合う『理由』のため、婚姻関係を結ぶ——
「こんな見え透いた政略結婚で、良いのか?」
「構わないさ。最初から隠すつもりはない」
「……だったら何故先に言わなかった。せめて私には、私の置かれる立場がどのようなものか、教えておいて欲しかった。ローエンヴァルト卿」
「ロイで良い。秘密にしておいたことは謝罪するよ。その方が君の側の負担が減ると思ったんだ。同性婚が認められていない国の第一王子が他国に嫁ぐとなると、色々大変だろう?」
眼鏡の縁が夏の日差しにきらりと光る。
石の欄干に預けていた上体を真っ直ぐに伸ばせば、ロイは存外長身だった。わずかに見下ろされて、無性に苛立ちを覚える。
背の高さではなく、立場的な意味で見下ろされているのが気にくわない。サフィルも、小国とは言え歴とした一国の王太子。国王の座が約束されている自分が、こんな、たかが地方都市の城主の元に嫁ぐなど。
捕虜として辱められた方がまだましだとさえ思えてくる。
ロイは胸元に差してある薄桃色の花を取り、潮風に弄ばれるサフィルの髪を飾った。
その手を反射的に跳ね除けそうになったが、辛うじて、意志の力で抑え込む。
その代わり心の底から睨み付けた。
「そんな怖い顔をしないで。せっかく綺麗なのに」
「それを褒め言葉だと思っているのなら、勘違いも甚だしい」
「綺麗だよ。僕には勿体ないくらいだ」
穏やかに、ロイはサフィルを翻弄する。
一国の王太子が、ここまで虚仮にされたのは初めてだ。容姿を揶揄われたことなど両親にさえない。
「お願いだサフィル王子。少なくとも市民の前では幸せそうな振りをして欲しい。皆、城主の僕が身を固めたって喜んでくれてるんだから」
「そんなこと、できるはずがないだろう」
「やってもらわなきゃ困る。我が国はこれから世界中を敵に回す。侵略ではなく、愛する者の祖国を護るために戦うんだ。僕達には、それが正しい選択だと民に信じさせる義務がある」
ロイは慇懃な所作でサフィルに手を差し出した。
「お前は、私を愛するふりをして、戦争に嘴を突っ込む大義名分を作りたいだけだろう?」
「そう。そして君が僕を愛するふりをしている限り、アルス=ザレラはイゼルアの後ろ盾につく。悪い話じゃないと思うけどな」
小さな丸いレンズの奥で、灰色の双眸が真っ直ぐにサフィルを見ている。
感情が伴わない、冷たく狡猾な眼だ。
「大丈夫。情勢が安定するまでだ。全てが終わったら離縁状を突きつけて国に帰れば良い。それまで、しばらく我慢して僕の妃を演じてくれ」
「お前を信じて良いのか、分からない」
「誓うよ。戦略上、隠し事はするだろうけど、絶対に嘘はつかない。……つかなかっただろう? 一言も、君を捕虜として城に寄越せとは言わなかった」
ロイの表情は穏やかで、だからこそ、底が知れない。
全ては祖国のため。
サフィルは仕方なく、差し出された手に己の手を重ねる。
ロイが片膝をつきながらサフィルの手の甲に接吻けると、歓声がひときわ大きくなった。
彼らは知らないのだろう。これが単なる政略結婚、大国アルス=ザレラが地方の紛争に乗り出す口実でしかないと。
何も知らずに城主の婚姻を祝っている。
サフィルはもう一度、バルコニーの下に広がる前庭を見渡した。
夢ではない。人々は間違いなくここにいて、何も知らず二人を祝福してくれている。
その現実が胸を打つ。
本当に、これが夢なら良かったのに。
目覚めた途端に消えてしまう幻であったら、楽だったのに。
海洋交通の要所キルスティン運河を有する小さな王国イゼルアと、強大な軍事国家アルス=ザレラ。
国境を接する二つの国の二人の王子が、その日、互いを主君とし妃とした。
それぞれの思惑を胸に。
大国の王甥ロイ。小国の王太子サフィル。
二人の運命の始まりは、単なる契約でしかなかった。
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