落下の先に

 そして今、おれは何も感じなくなっている。


 落ち始めたころは、喉が潰れると思うほど叫び声をあげていたが、長くは続かなかった。


 叫んでもどうにもならない。助けなど来ない。


 仮に近くに人がいたとして、こんな状況のおれを、一体誰が助けられるというのだろうか。


 おれのなかから感情が消え、すべてをあるがままに受け入れる。


 心の平穏を保つため辿り着いた場所だ。


 だがそれは、ほんとうに正しいことなのだろうか。


 おれはもっとわめき、手足を動かして足搔くべきなのではないだろうか。


 おれはすでに、おかしくなっているかもしれない。


 昔のことが目の前に浮かび、過去がおれを責める。


 そしておれは、神に祈るようになった。


 神がどんな姿をしているのかも、何をしたのかも知らない。


 ユリアンの部屋には聖典と名のついた本があったが、飽きて途中でやめてしまった。


 おれが必要としていたのは、世界の成り立ちなどではなく、生きるための力だったからだ。


 しかし今、おれは神に祈っている。


 祈り方も分からず、ただ、神を求めている。


 おれを助けてくれる救いの神、いや、死神だっていい。


 とにかく、この状況を終わらせてくれるのなら誰だってよかった。


 ………………………………


 ……………………


 …………



「やあ」


 物思いに沈んでいると正面から声がした。


 目をあけると、そこに一人の男がいた。


 おれと一緒に落下していて、おれと同じように衣服が乱れていない。


「うわああああああ!」


 おれの声はひどくかすれていた。


「まあ落ち着いて」


「誰だあんた!?」


 ついにおれは幻覚まで見始めるようになってしまったのか。


「ひとまずこれをどうぞ」


 おれは言われるがままに男から差し出される紙を受け取った。そこには、


 世界補修人 相良修司


 と書いてあった。


 知らない文字のはずなのに、言葉の意味が頭に流れ込んできた。


「サガラ……」


「そう、それがぼくの名前。驚かせてしまって申し訳ないね」


 サガラと名乗るは相変わらずおれと一緒に落下している。


「まったく厄介なことになったもんだよ。こんなケースを見るのは初めてだ。君はおそらく壁が抜けられるんだろう? そんな力を今まで誰も使ったことがないから不具合が起きてしまった。特にこの辺は古い土地だし人も立ち入らない。だからずっと後回しにされていたのだろうね。まさかこんな現象が発生するとは、実に興味深い」


 空中を落下しながらサガラは平然として呟いている。おれには何のことやらさっぱり分からない。しかし、この男が何か知っていることは確からしい。


「お前は……」


 おれが聞こうとしたとき、地面に到着していた。


 目の前を闇が包んだ。サガラは喋り続けている。声だけがおれの耳に届いていた。


「手間だけで言えば、地中全体を修正するよりも、そもそも通り抜けという君の力自体を禁止した方が早い。しかしなあ。ぼくはあまり、出る杭を打つ、みたいなことはやりたくないんだよね」


 サガラは意味の分からない言葉をつぶやき、


「それにしても、こんな力が発現したら、すぐにぼくが気づくはずなんだけれど、一体どうやって力を手に入れたんだい? もしかして、君は誰かに力を与えられたんじゃないのか?」


 おれに聞いた。サガラの口調が鋭くなっている。力を与えられたという言葉で、幼いころに出会ったじいさんの顔が思い浮かんだ。


「おれは、じいさんに……」


「じいさん?」


 サガラが聞く。


「小さい頃に、村で会ったじいさんだ。昔は魔術師の教師をやっていて、人の才を開く力に目覚めたと言っていた」


 おれは答える。


 サガラがあまりに普通に話しかけてくるので、おれもまたこの状況に慣れ始めていた。


「ロダンって名前?」


「いや、名前は聞いていない」


「多分ぼくの知っている人だ。あの人も難儀でねえ。力を止めようかと聞いたことがあるんだけど、断られてしまった。本人も苦しんでいるだろうに。でも、ぼくは自由意思を尊重するんだ」


 サガラの口調が穏やかになる。


 そこでしばしの沈黙。おれもまた黙っていた。


「ぼくは君を助けに来たんだ。これをずっと繰り返されるのも困るからね。ぼくの力では範囲が広すぎて地中の構造そのものを変えることはできないから、できれば力はあまり使わないでもらえるとありがたいかな。とはいえ、こんなことが頻発するなんてことはないだろうけどね。あと、一応提案だけはさせてもらうけど、君の力をもう使えないようにすることだってできる。君はどうする?」


 暗闇のなか、姿の見えないサガラはそう言った。


 あまりにも異常な状況のなかで、おれは素直にサガラの言葉について考えた。言っている言葉にはわからないことも多いが、どう答えるかで、おれの人生が大きく変わってしまうことは間違いなかった。


「おれは……」



◆    ◆    ◆    ◆



 そして――


「へいらっしゃい!」


 人でごった返す町の中で、おれは大声を上げた。


 おれは結局、自分の力を捨てた。


 今でもサガラとの会話は、夢ではないかと思っている。


 おれが力を要らないと言った次の瞬間には、暗い地面の上に立っていた。サガラは消え、おれは一人で城の中に居て、すぐに試しては見たが、壁が抜けられなくなっていた。


 力を無くした後で城を抜け出すのには苦労した。


 瓦礫は邪魔だし、出口も狭く、隙間に体を押し込むことでようやく抜け出すことができた。


 それよりも大変だったのは、魔物から身を隠しながら森を抜けることだった。


 死を覚悟したという意味では、地下室に閉じ込められた時より、落下し続けた時より、はるかに命の危険を感じた時間だったかもしれない。


 古城を出てすぐに、おれは王都を離れた。


 盗み稼業から抜け出すためには、どこか遠くへ行かなければならないと考えたからだ。


 おれは懐に入れていたわずかな金を頼りに身一つで馬車から馬車を乗り継ぎ、東の港町ヴァルサにたどり着いた。


 ヴァルサはおれにとって都合の良い町だった。港町らしく商業が発展していて人も多い。人の出入りも多いこの町なら、おれのような身分が知れない男でも町に紛れることができるだろう。


 おれは道中でさらに減ったわずかな金で部屋を借り、服を整えた。


 町についた時にはまだ気づいていなかったが、おれの人相はまったく変わってしまっていた。


 ガナンに殴られた傷が額に大きく残っていたし、地下室に閉じ込められ、さらには落下をし続けたせいか、おれの髪は真っ白になっていた。宿屋の主人に傷のことを心配されて、ようやく自分の見た目が変わってしまったことに気づいた。


 その時は驚いたが、これは罰なのだと自分に言い聞かせたことを覚えている。


 そんなおれは今、ヴァルサの商店で働いている。


 どんなに安い給料でもいいからと、野菜売りのところで働かせてもらっている。おれのやつれた姿を見て同情したのか、店のおやっさんは何の経歴も持たないおれを快く受け入れてくれた。


 白髪に傷持ちのおれは、町の人を怖がらせてしまうかもしれないと思ったが、おやっさんが客に紹介してくれたことで、おれはすぐに町に馴染むことができた。


 金はねえが寝床はあるし、酒も少しくらいは飲むことができる。


 以前の暮らしとは比べ物にならないが、おれはそれで十分満足していた。


「よってきなよ! いいのが入ってるよ!」


 おれは威勢よく声をかける。今では通りでおれの顔を見て驚くやつはほとんどいない。それどころか近くに住んでいる常連の子ども連れが話しかけてくれたりする。おっさんとの関係も良く、計算ができるおれを重宝してくれていた。


 その日、見知った顔が、おれの居る商店の方向に向かって歩いている姿を見た。


 気の強そうな女で、がたいの良い男たちをまわりに引き連れていた。


 おれはすぐに気づいた。


 マレだ。


 相変わらず力強く、整った顔をしていたが、どこか疲れも感じた。


 マレは風を切るようにしておれの前を通りすぎる。


「マ――」


 名前が出かかって、そこで止まる。声をかけていったい何の意味があるのだろうか。逃げ出したおれは彼女にとって、まったく無関係の存在となっている。


 おれは言葉を濁すように咳ばらいをし、


「へいらっしゃい!」


 と声を張り上げる。


 すると、マレがこちらの方を見た。


 ほんの一瞬、おれはマレと視線を交わす。


 だが、変わり果てたおれの姿に彼女は気づかず、正面を向き、そのまま歩き去って行った。

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