汚れた手

 同じことの繰り返しのなか、おれは時々、考えてはならないことを考えた。


 ほんとうに、これでいいのだろうか。


 貴族に対する憎しみからはじめた盗みは、生活の一部になっている。


 盗むのも手馴れ、危ないと感じることもなくなっている。


 だが、ふと立ち止まって考えてみれば、おれは罪悪を犯し続けている。


 昔からそんなものを信じたつもりもなかったが、それでも、心のどこかがうずいている。


 おれはこんなことをするために農作業から逃げ出して、村を出て、王都にやってきたのだろうか。


 そんなはずはない。そんなはずはないのだが、ほかに何ができるというのだろう。


 ある日の夜中、おれはふらふらと道を歩き、たどり着いたのは教会だった。


 おれは仕事を終えて、マレとともに飯を食べ、宿に戻る途中だった。


 夜中にもかかわらず、教会には明かりがついていた。


 おれは扉に向かって近づく。


 教会の建物の前に立っているおれを、冷静に観察しているおれがいた。


 おれは一体何をやっている? おれは、教会なんてものに、救いを求めようとしているのか?


 行ってどうなる? 神に許してもらうのか?


 おれは盗みをやっています。生きるために仕方なかったんです。だから許してください。


「ハハハ」


 酔いも回っていたのだろう。おれは一人で乾いた笑いを浮かべていた。


 ――ガチャ。


 その時、教会の大きな扉が開く。


 顔を出したのは聖職者の女だった。


「あの……」


 おれは怯えて表情が硬くなることを自覚する。


「なにか、お困りでしょうか?」


「ハハハ、いやあ、ちょっと酔ってましてね。すんません、すぐに行きますんで」


 ぎこちなく笑ってみせると、聖職者は心配そうにおれの様子を伺っていた。


「教会は救いを求める方には、いつでも扉を開いております」


 おれは立ち止まって、聖職者の顔を見る。

 

「えっと……」


 何かを言おうとして、しかし、おれは口をつぐんだ。


 優しげにほほ笑む聖職者を、おれは直視できずに目をそらした。


「あっ」


 おれは声を背に走り出した。


 差し伸べられた手を取るには、おれ手は少し汚れ過ぎていた。 


◆    ◆    ◆    ◆


 ある日、マレとの会食の後、宿に戻っていると、


「よお、ミルコってのはあんたかい?」


 背後から声がした。


 低く、湿り気のある声だった。


 おれが振り返ると、そこには、ひどくやせこけた男が立っていた。顔は青白く、髪は長かった。黒く薄汚れた布で全身を包んでいるため、はじめおれは、そいつを浮浪者かと誤解した。


「誰だ?」


「あっしはガナンって小悪党さ。そう警戒しねえでくれよ。あっしもあんたと同じ、頭領から仕事をもらっている同僚みたいなもんさ」


 おれは警戒を解かなかった。


 マレからの依頼は最初に会って以来、宿に直接届けられることになっていた。はじめは、どこで調べたものかとおびえていたが、繰り返し届けられるうちにどうでも良くなり、宿を変えても届くので、すっかり慣れてしまった。


 組織は依頼の痕跡は残さない。おれたち下請けは、安全に報酬をもらう代わりに仕事の責任を自分で持たなければならないわけだ。そのことに関して、おれは特に文句はない。他人と関わりたくないおれは、むしろありがたいと思っている。


 つまり、おれはこれまでの依頼に関して、マレ以外の誰とも会っていないというわけだ。


 だが、相手はおれの同僚だという。警戒しないわけにはいかなかった。


「あんたのことは噂に聞いてるぜ。なんでも、頭領のお気に入りだって言うじゃねえか。さっきもあれだろう? 頭領と一緒にいたんだろう?」


 ねばりつくように話しかけてくる男に、おれは悪寒をもよおした。いったい、どのような生活をしていれば、このように不快な話し方ができるのだろうか。


「お前にゃ関係ねえだろ」


 おれは拒絶の意を示す。しかし相手は引かなかった。


「関係ねえとはとは言わねえさ。頭領と直々に話せるやつなんてそうそう居ねえ。とすれば、仲良くしておくことに越したことはねえだろう。そうだな。まずは自己紹介しておくか、あっしは人に名を名乗ることなんざ、ほとんどねえんだぜ。あんたは特別さ。あっしはガナンってんだ。これからも一つよろしく頼むぜえ」


 こいつは勘違いをしている。おれが何か特別な秘密を握り、そのためにマレから良い扱いをされているとでも思っているのだろうか。そのことに関してはわからないのはおれも同じだった。


「おれに付きまとったところで何にも出ねえよ。たしかに、頭領に呼び出されることはあるが、大したことは言われてねえし、たぶん気まぐれだろ」


 これ以上、付きまとわれても困ると思ったおれは、正直に話す。とはいえ、それで引き下がるような男でないことも分かっていた。


「まあ、そう言うなよ。あっしだって、すぐにあんたから頭領のことを聞き出そうってんじゃない。今回はただのあいさつさ。もしかしたら、あんたが困ったときに助けてやれるかもしれねえしよ」


「おれに困ってることなんてねえよ」


 おれは冷たく突き放す。まったくしつこい男だった。


「いや、今じゃなくてもこれからのことさ。例えば、あんたに気に入らねえやつがいるとするだろ? おれはそいつを簡単に消すことができる。……へへ、できねえって思ってんだろ? あっしの見た目じゃ仕方ねえことだよな。だがな、人を殺すのに力はいらねえんだ。あっしが頭領から仕事をもらえるのも、そっちの能力に長けてるからでね。要は便利屋さ。もしあんたが邪魔に思ってるやつがいるんなら、あっしに言ってくれりゃあ……」


「いらねえよ。なにが目的だ」


 おれは言ってやった。このまま付き合っていても、ガナンはおれを開放しないだろうということは簡単に予測できた。こいつにはなにか思惑があるのだ。


「へへ、話が早いねえ。なあに、大したことじゃねえ。ただ、ちょっとだけ、頭領のことを教えてほしいってことさ」


「……どういうことだ? おれは組織のことは何にも」


「組織のことなんかじゃねえよ。おれは裏切るつもりもねえからな。ただ、その、頭領が、どんな服を着てたとか、何を、どんなふうに食ってたとか、そういう……へへ、わかるだろう。あっしたち下々のもんは、滅多に頭領に会えねえんだ。だが、あっしは頭領を敬愛している。だからよお、へへ、どんなことでもいい、頭領に関する情報を提供いただきたいってわけでね……」


 おれはガナンの声に怖気が走った。


 そういうことに疎い俺でもわかる。こいつは、ゆがんでいる。


 おれの口から、マレのどんな些細なことでも仕入れたいということなのだ。おそらくおれが何を言ったところで、こいつは納得しないだろう。


 そこでおれは、


「ああ、わかったよ。ただし、見ることができたらな。おれは頭領に呼ばれてはいるが、姿までは現さない。わかるだろ? おれのようなやつと面会なんてするわけないじゃないか」


 と嘘をついた。


 すると低い笑いがガナンの口端から漏れた。


「へへ、そうだろう! そうだろうさ。あのお方はどこの誰にも心をお許しにならねえ、それでこそ頭領さ。へへ、ありがてえ。そういうことで十分なんだ。しかしなんでまた、あんたを呼んでいるんだい?」


「知ってるかもしれんが、おれは盗みの腕を頭領に買われている。それで、貴族の屋敷に忍び込んだ時に得た情報が欲しいんだと。それで毎回飯屋に呼ばれているんだ」


 自分でも、もっともらしい嘘をつけたものだと驚く。


「へ、へへ、なるほどなるほど。そんなことならあっしに言ってくれたらいいのにな。貴族の話ならいくらだってご用意できるのによ。しかし、頭領は現場主義だ。あんたをわざわざ呼ぶ理由も分かる。これで安心したぜえ。おれはまたあんたが……いや、こっちの勘違いだから言う必要もねえわな。今日はこんなところでいいぜ。また教えてくれよ」


 暗闇から唾をすするような音が聞こえ、そしてすぐに気配が消えた。


 おれは念のために周囲を見渡して、ガナンらしき姿が見えないことを確認して、


「面倒くせえな」


 と大きくため息をついた。


 やっかいなやつとかかわりを持ってしまった。


 長く一人で生きてきたおれは、他人と接するのが苦手だ。自分が他人に影響を与えず、他人からも影響を受けない。これまでそれでうまくやってきた。マレのもとでだらだらと働いているのも、こういったしがらみのない生活を続けることができたからだ。


 しかし、後暗い仕事をする以上、こういうこともある。おれはそう納得した。


 普通の仕事をやっていれば、普通のやつと知り合いになれる。しかしろくでもない仕事をやってると、ああいう面倒な輩と関わることになる。当然の話だ。


 わかっていたつもりだが、いざ目の前に来られるとうんざりする。


「まあ、どうだっていいか」


 おれは半ば投げやりになりながら、宿への道を急いだ。

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