閉塞感
おれは乾いた土が水を吸い取るように知識を体に染み渡らせた。
こんな比喩も、ユリアンと教師の会話を聞くことで学んだ。
ユリアンが部屋にいないときには、棚から本を引き出して片っ端から読んだ。簡単な言葉で書かれた騎士物語を苦労して読み切ると、未だ手を付けていないと思われる歴史の本にも目を通した。
そこでおれは、世界のことを知った。
学べば学ぶほど、貴族と民衆の差を思い知らされる。
商人にしろ農民にしろ、生まれを覆すことは難しい。
豊かな村や町なら修練所に行き、そのまま冒険者となることもできるだろう。まあ、おれの村にはぼろい教会があるくらいで、そんな建物はないわけだが。
いくら冒険者として成功したところで、貴族の儲けには到底及ばない。教師が言っていたように、貴族とそれ以外では、絶対的な壁が存在していた。
生まれが違うというだけで、こんなにも生活が違う。
おれがどんなに飢えていたとしても、貴族は常に満たされている。それは飯が食えて腹が満たされているだけではない。なにかを学ぶということすらも、貴族が独占しているといってよかった。
本を読むことに疲れると、おれは倉庫に戻り、周辺の物音や会話に耳を傾ける。
倉庫から近い厨房では屋敷の下働きの人間が集まり、たまに噂話をしていた。おれは貴族の話なんかより、この屋敷の下働きのやつらの会話を聞いている方が、ずっと心が落ち着いた。
やつらが話すのは、だいたいは主人の悪口で、給料が低いとか、この屋敷には先がないだのと言っていた。
その日も、いつもの顔ぶれが集まって、わずかに空いた休憩時間を無駄に過ごしていた。
「ってもよお。おれはほかの領地の話はわかんねえけどさ、ここの主人って、貴族のなかじゃ大したことねえんだろ?」
こいつはゴンゾ。屋敷の厨房で働いている。おれも食ったことがあるが、うまい飯を作る。しかし口が悪いという欠点があり、同僚の厨房担当からはあまり好かれてはいない。
「ああ、大領主様なら、そもそもこんな貧しい村の近くに館なんか建ててねえべや」
こいつはサト。割と広いこの屋敷の庭を一人で手入れしている男だ。ほかの地域の出で、この村にいる親戚の伝手でこの屋敷に流れ着いた。普段ひとりで黙々と仕事をやっているからか、訛りが抜けないらしい。
「だよなあ。それで、息子に家庭教師をつけて、やたらと勉強させてんだろ」
ゴンゾの言葉には同情が含まれていた。
「あたし、あの人嫌いなのよね。お高くとままっちゃってさ。昔は王都に居たって話だけれど、ここに来てる時点で大したことないでしょ」
メイドと呼ばれる役職の女、ノーマが言う。屋敷内の噂話はすべてこの女から発信されているといっていいほどにいろいろなことを知っていた。
「それはわからんが、うちの主人は、あの教師を招くために、相当な金を出してるらしいぜ」
「かあー、そんなことやるくらいならこっちにも分けて欲しいくらだなあ。そりゃ、領民よりはもらえるんだろうけんどもよ」
「そうだなあ。しかしなんでまたご主人は、こんなところで領主をやってんだ?」
ゴンゾが聞く。
するとノーマが待ってましたと言わんばかりに話しはじめる。
「あたし、奥様の愚痴を聞いたんだけどさ、ご主人様ってそこそこ大きな家に生まれたけど、次男らしくてね。本当なら、騎士になったり王都の官僚になったりするはずだったんだけど、どうしてもいや だってんで駄々こねて、やっとのことでこの領地もらったんだってさ」
「うへえ、じゃあ大した力もねえからここに流されたようなもんか」
ゴンゾが声を上げる。
「そりゃあ、おれたちの給料も低いはずだわなあ」
そこで、三人の卑屈な笑いが生まれた。
「でもねえ、かわいそうなのはあのご子息よ。まだ若いのに、朝から晩まで勉強させられちゃってさ。あのくらいの年頃なら、もっと子供らしい遊びをしてたっていいと思うのよね」
「まあなあ、ご主人の期待がかかってるからなあ。しかし、実際のところ、ご子息の頭の方はどうなんだ」
「それが、悪くもないけど良くもなくって感じらしいわ。そりゃあたしの姉さんの子に比べたら、賢いんだろうけれど、王都で認められるってよほどのことだからねえ」
「いやはや恐ろしいこった。貴族の息子に生まれただけで向いてもない事させられて、うちにも子がいるけんども、あんまり苦しませたくはないわなあ」
「そうよなあ。貴族に生まれるんならよほど高貴なところに生まれねえと」
「ほんとほんと。貴族なんて、仲間内で争って消えるなんてこともあるらしいし、良いことばかりじゃないってことよ」
おれはそんな話を聞きながら、倉庫の干し肉をかじっていた。
貴族ってのは本当につまらない。もしかすると、この屋敷の領主だけかもしれないが、どうしてそこまでして、自分の地位を守らなければんらないのだろうか。
おれは倉庫の箱の上に横になりながら、よくそんなことを考えていた。
おれはそんなことにはならない。何かに縛られるなどうんざりだ。
おれはこの屋敷を、だんだんと窮屈に感じるようになっていた。
◆ ◆ ◆ ◆
おれはうまくやっていた。
しかし、失敗というものは必ずある。どんなに注意していてもだ。
屋敷での生活に慣れ、夜中にうろついていた時のことだった。
おれはユリアンの部屋にいた。
月明かりのさす部屋。ろうそくの火もなく本は読めないが、おれは次に読む本の物色をしていた。おれはその時、ユリアンの本棚で気になったものをあらかた読んでしまい、次に読む本に迷っていた。
本棚の前で、背表紙を眺め、気になった本を手にしてみる。そんなことを繰り返していると、
「誰なの?」
と声がした。
おれはしまったと思った。
振り返ると、ユリアンが目をこすりながら、ベッドから体を起こしていた。
もう終わりかもしれないと思った。叫び声をあげられでもしたら、さすがのおれでもこの屋敷に居続けることはできない。
おれはその時とっさに、
「おれはお前の影みたいなもんだよ」
と自分でも意味の分からないことを言った。きっと、本に出てきた言葉か何かだろう。
「夢……だよねえ? こんなところに子供がいるはずないもの」
ユリアンはぼんやりとした口調で言った。
「ああ、夢だ」
おれは応える。
「なあんだ。よかった。君は何をしているの?」
「本を読もうとしていたんだ」
「こんなに暗いのに?」
「読めなくったって、どんな本があるかは知ることができる」
「ふうん、すごいんだね。ぼくは本が苦手なんだ。お父さんは読め読めってうるさいけれど、あんまりおもしろくないし……あ、騎士の本はちょっと好きだけどね。後は冒険者が活躍するやつ。ぼくもあんなふうになりたいなあ」
そこでおれは、なんか、いやな気持がした。こいつなにを言っているんだって思った。
「おまえはさ。恵まれてるよ。手を伸ばせば知識がいくらでも手に入る。でもおれにはそんな機会はなかった」
「そうかなあ。いっつも勉強ばっかで疲れちゃうよ。ぼくも村のみんなみたいに遊びたいな」
おれは我慢できなかった。こんな会話は早く終わらせて部屋を出るべきなのに、勝手に口が動いていた。
「持ってるやつってのは、持たねえ奴の気持ちはわからねえさ。お前、農民の生活って見たことあんのかよ。お前の生活のために、一体どれだけの人間が苦しんでるってのが……」
「うーん。よくわからないけど、怒ってるのかな? ごめんね。なんだかぼく、眠くて」
おれはそこで、覚めてしまった。あらゆることがどうでも良くなって、目の前のユリアンが同じ人間だとも思えなくなった。
「ああ、すまなかった。別にお前が恵まれているのはお前のせいじゃないもんな。もう寝てくれよ」
「お休み……」
そういって、ユリアンはまた布団にもぐりこんだ。
おれは別にやつを恨むつもりはなかった。ただただ悲しくて、やるせなかった。
屋敷の外に出る決心をしたのは、この時だった。
誰も他人の気持ちなんてわかろうとはしない。
おれは、おれだけの力で生きていくしかないのだ。
そう強く心に刻んだ。
どの道、時が来ていたのだ。おれは学ぶことに飽きていたし、どの本を読んでも感動がなくなっていた。
晴れたある日、おれは使用人の部屋から、なるべく派手ではない服を失敬して身に着けた。出来るだけ小柄の男の服を選んだつもりだが、袖や裾が余って仕方なかった。だが、それでもいいと思った。
そして屋敷を出た。
目的はあった。屋敷のなかだけで終わるのではなく、もっと広い世界を見てみたかった。おれはじいさんの言葉を思い出し、王都へと向かった。
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