壁抜け

 おれは、畑から離れて長いこと歩いた。


 やがて、村はずれの小高い丘に、大きな屋敷が見えてくる。


 そこには貴族が住んでいる。


 おれの頭にはじいさんの言葉がずっと引っかかっていた。おれは初めて貴族の屋敷を見た。考えてみると、農作業ばかりで屋敷に近づく機会などなかったのだ。


 当然領主の顔も見たことがなく、どんな生活を送っているのかも全く想像がつかなかった。まあ、税ってやつを取り立ているらしいから、少なくとも食うに困ってはいないだろう、くらいには考えていた。


 丘の上にある屋敷は、大雨の影響を全く受けていなかった。

 

 村では民家に近づくと、どこかしら騒がしく、皆必死に働いているのにこんな時にも優雅なもんだと思って、おれはその建物に近づいていった。


 いつも遠くからその姿を見せていた屋敷は、近づいてみると思っていたよりはでかくなかった。


 まず目についたのは壁だった。うちや周りの家なんて、木と土で作られた平屋なのに、屋敷は石がしっかり積まれた三階建ての建物で、庭には花なんてものも植えられていた。


 おれは壁に手を触れながら人のいない庭を歩いた。


 大きな屋敷は一周するにも時間がかかる。


 それがなんだか急に腹立たしくなった。


 おれは立ち止まり、壁をにらむ。


 領主なんてものがいるせいで、おれの生活は苦しいんじゃないか? 


 領主が税のことを、川の氾濫のことを考えていれば、こんなに苦労することもなかったんじゃないか?


 自分でも驚くくらい怒りが湧いた。


 おれはその怒りをぶつける場所を探し、屋敷の石壁を強く蹴る。


 つま先が痛くなったが、そんなことは関係がなかった。


 おれは怒っていた。


 領主への怒りでもあったし、自分の貧しさに対する怒りでもあった。


 自分が生まれたこの村、予期できない天候、油断をするとすぐに育ちが悪くなる作物、作物に群がる虫たち、そんな、おれを苦しめるあらゆるものに怒っていた。


 おれはその壁を蹴り続けた。そんなことしかできないおれ自身にも、また、怒っていた。


「ん?」


 そこでおかしなことに気づく。


 おれのつま先は壁にぶつけたはずだが、痛くもなんともない。


 なんだ? と思って壁を見てみると、おれの足が壁にめり込んでいた。


「うわあ!」


 あまりのことに驚いて、おれは後ろにひっくり返った。


 打った頭のい痛みが引くと、少し冷静になった。


 なんだよこれ?


 おれはおそるおそる壁に触る。


 なんともない。


 誰がどう見たって、普通の石壁だ。


 そこで、もう一度蹴ってみる。やはり固い。


 もう一度。固い。もう一度。固い。もう一度。固い。


 おれは一体何をやってるんだ? 思いっきり蹴ってみる。


 すると、同じことが起きた。つま先が壁にめり込んだのだ。


 面白い。


 よくわからんが、変なことが起きているのは間違いない。


 おれは同じ動作を何度も繰り返した。


 しばらく続けていたためか、おれのつま先の感覚はなくなりつつあった。それでも続けた。


 そしてある時、コツをつかんだ。


 何度やっても、おれの足は壁をすり抜ける。


「ははあ、なるほど」


 おれはなんだかおもしろくなってきて、壁を蹴る動作を繰り返す。


 そして疑問が湧く。


 足がすり抜けるということは、それ以外もすり抜けるんだろうか?


 次にやることは決まっていた。


 おれは自分の好奇心を抑えることができなかった。


 感覚は掴んだ。後はそれを、体のどこでもできるようにするだけだ。


 手のひらを壁に押し付ける。躊躇してはいけない。思いっきりだ。


 なにが大雨だ。なにが税だ。なにが領主だ。全部くだらねえ。おれはそんな怒りを壁にぶつけた。


 意識が薄れ、自分が透明になっていくような感覚。


 だがそれは一瞬のことだった。


 気づいた時には、おれは、壁の向こうに居た。


 空腹に響く匂いがおれの鼻を刺す。


 壁の向こうは、食糧庫になっていた。


「うお! すげえ……」


 おれたち農家が作った野菜や果物が入った木箱が並べられているほか、チーズや壁にかかった干し肉がおれの目を奪った。


 どうやらおれはほんとうに壁を抜けたようだ。


 で、それは一体どういうことなんだ?


 その時、足音が聞こえ、おれは木箱の影に身を隠し、息をひそめた。


 ドタドタと走るような音が扉の前を通り過ぎ、遠ざかっていく。


 そこでおれはようやく冷静になった。


 倉庫の隅で座り込み、何が起きたのかを考えてみる。


 おれは確かに壁を通り抜けた。夢ではない。試しに自分の頬を叩いてみたが、痛みはあるし、夢であるはずはなかった。


 おれは考える。いつからおれは、壁を抜けるなんてことができるようになったんだ?


 思い出そうとして、そんなものがあるはずがないと首を振る。


 ということはだ。


 じいさんの顔が頭に浮かんだ。


 これが、じいさんの言っていた才というものかもしれない。


 おれはのんきに考える。


 だが、ほんとうにそうなのだろうか。力が強くなったりするわけでも、じいさんの言う魔術とやらではなく、壁を抜ける?


 まったく意味が分からない。


 しばらく考えてみて、おれはとんでもないことに気づく。


「それで、おれはどうやってここから出るんだ?」


 つい、言葉が口から洩れた。


 おれが居るのは領主の屋敷の食糧庫だ。

 

 壁を抜けて入ったのは良いが、これからどうすればいいんだ?


 屋敷には村の人間が働いていて、それなりに人数も多いはずだ。


 普通に扉を開けて出てしまったら、間違いなく見つかってしまうだろう。


 じゃあどうする?


 おれは立ち上がり、今抜けてきた壁をにらみつける。


「もう一度、やるしかねえってことか」


 あまり余裕はない。


 いつ扉を開けて、人が入ってくるとも限らないからだ。

 

 倉庫の隠れ場所には限界があるし、飯の心配はないにしても、ここには用を足す場所もないし、いつかはここから出なくてはならない。


 だとすれば、やることは一つしかなかった。


 おれは大きく息を吸い、壁と向き合う。


 壁を通り抜けた時、おれは何をやっていた?


 出来る限りあの時と同じ状況を作り出し、もう一度壁を通り抜ける。


 今やるべきことはそれだった。


 おれは目を閉じる。


 何度か壁を蹴ってみるが、鈍い痛みがつま先に響くだけだ。


 違う。これじゃない。


 あの時と同じ状況――例えばおれは、何を考えていた?


 そう、確か、怒りだ。


 怒ったところで何が変わるとも思えなかったが、おれは壁を抜けるために必死だった。


 怒り。おれは何に怒っていたのか。


 思い通りにならない天候について。作物について。


 そして、必死に働いているおれたちから税を取り立てる領主について……


 領主だが貴族だか何だか知らねえが、生まれが良いだけで贅沢な暮らしをしやがって、鍬の一本も握ったことねえやつが、苦労もせずに飯食ってんじゃねえぞ。


 おれは怒りを込めて、手のひらを壁に押し付ける。


 すると、腕が壁にめり込む。


 次につま先を差し込むと、壁にめり込んだ。


 そう、これだ。いや、危ない。ほかのことを考えるな。


 怒りだけに集中しろ。


 勢い任せに全身を壁に押し付ける。


 後ろ足でけるようにして、壁に頭を突っ込んだ。


 意識が薄れ、自分が透明になっていくような感覚。


 気づくと、外の風が頬をなでていた。


 おれの身体は再び壁を通り抜けていた。


 嵐の後の晴れやかな日差しがおれに降り注いでいる。


「さて……どうしたもんか」


 おれはここでまた考えなければならなかった。


 おれは確かに壁を抜けた。


 それで? これからどうする?


 このまま家に戻って、家の手伝いにもどるか?


 大雨に怯えながら一から作物を作る毎日。


 ある意味で安定し、そして貧しく苦しい生活を繰り返す。


 それとも……


 屋敷には食料がある。


 おれ一人が盗み食いするだけなら、早々見つかることもないだろう。


 仮に見つかったとしても、壁が抜けられるのなら隠れることも逃げることもたやすい。


「……やってみるか」


 考えたのは一瞬のことで、おれはすぐに結論を出した。


 どうせこの領地に居続けても、使い潰されるだけだ。だったら最後に多少贅沢な生活をして、見つかったら、潔く捕まればいい。


 おれは意識を集中し、怒りを蓄える。


 壁に向き合い、そして、足を一歩踏み出す。一度目よりも二度目、二度目よりも三度目の方がずっとたやすく壁を通り抜けた。


 その日から、村からおれの姿が消えた。

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