落下
大雨の後で
おれは落下していた。
どこまでも果てしなく落ちていく感覚。長い時間落下し続けて、下腹あたりにある違和感はすでに気にならなくなっていた。
目の前を流れていくのは、空であり地面だ。
もうどれくらい落ち続けているのかわからないが、未だにこの状況を理解できてはいない。
今おれは空中に居る。不思議なことに風はなく、服も髪も乱れることはない。雲を下に向かって突き抜けた後、はるか遠くの景色を望み、ただひたすらに落下していく。
やがて、視界の下半分が緑に染まる。足元には森が広がり、小高い丘に佇む荒れた城が見えてくる。かつては栄え、国家間の戦争により壊滅した城の跡、周囲に町はなく、誰一人として見当たらない。
その古城に向かっておれは落ちていく。
足が城の突端に触れる。
だが、ぶつかりはしない。
屋根をすり抜けて、古城の内部に入り込む。
激突する衝撃もなければ、痛みもない。まるでそこに何もなかったように、おれの体は石造りの天井、床、外壁をすり抜け、そのまま地下室のある付近まで落ちていく。ほとんど一瞬で城をすり抜けた後、おれの体は地面に到達する。
だが、ここでも同じことが起きる。地面をすり抜け、視界を暗闇が覆う。
そこからしばらくは何も景色が変わらない。落ち始めて、最も苦痛な時間だ。長い間暗闇に包まれると、恐怖に襲われ、ひどく不安な気持ちになる。
あとどれくらい続くのか。もう終わらせてくれ。
そう思い始めてから、さらに長い時間をかけて、突如視界が開ける。
おれは空中に居る。また同じ場所に戻ったのだ。
ずっとこの繰り返しだった。
あれからどれくらいの時間が経ったのかもわからない。腹も減っていないし、用を足したい気にもならない。
これは死んだ後の世界なのだろうか。
それすらも分からずに、おれはただ、ひたすらに落ち続けていた。
きっとこれは罰なんだ。
おれは人に自慢できるような人生を送っていない。悪いこともさんざんやってきた。だから、神が、いや、神など信じるつもりはないと言いたいが、今は信じ始めている。神がおれに罰を与えているのだ。
この状況を抜け出すことができるなら、おれはどんなことだってする。二度とこの力を悪用しない。誓ってもいい。だから、誰か、おれを助けてくれ。
おれは目を閉じ、生まれて初めて神に祈った。
◆ ◆ ◆ ◆
おれがその力を手に入れたのは、ガキの頃だった。
おれの家は貧しく、いつも食うのに困っていた。作物もろくに取れず、なのに領主からむしり取られる、よくある貧しい山村に住む、底辺農民一家の次男。おれはほかの大勢の兄弟とともに、いつも土にまみれていた。
今思えば、それほど苦痛だとは思っていなかった。
周りの家だって食えていないのは同じだし、比較する対象がなかったとも言える。
おれはその日その日の疲れだとか腹が減っただとか、兄貴につらく当たられていやだとか、弟や妹の言うことが聞かないのが面倒だとか、そんなことしか考えていなかった。
ただその日は、おれもうんざりしていた。天候不良でただでさえ取れない作物が不作となったうえに、たまに雨が降ったかと思えば大切に作った畝が水で流された。
おれはなにもかもがいやになって、畑の手直しをさぼってぶらぶらしていた。村は大慌てで、水害の対処に追われている。
その時のおれの考えっていうのは、んなことやったって、またどうせすぐに雨で持ってかれるんだから意味ねえだろってことだった。
まわりの兄弟たちに比べて、おれはいつだって冷めていた。それで、兄貴に気に食わないと思われているところもあった。
ぼんやりしながら村のはずれを歩いていると、道に一人の爺さんが座り込んでいた。見たこともない爺さんだったが、下を向き、服もボロボロで、おそらく作物を流された農民の一人なのだろうと思った。
おれたちは作物を守るために、村に住む人間なら大体知っているはずだったが、どういうわけかその爺さんに見覚えがなかった。
おれが爺さんの横を通り過ぎようとすると、
「なあ、わしらが生きとる意味って何だろうなあ」
と言った。どうせ独り言だろうと思って無視をした。
「そこの若いの、あんたに話しかけとるんだよ」
なんか面倒なもんにつかまっちまったぞと思って、そのまま通り過ぎようかと思ったが、その日のおれは、全部がどうでも良くなっていた。
「なんだよじいさん。おれに用か?」
「ああそうだ。あんたに話しかけとる」
「じいさんも畑やられたんだろ? 見に行かなくていいのかよ」
「それはあんたも同じだろう」
「ま、そうだけどよ。おれはなんかどうでもよくなったのさ。働いても税で取られるだけで、蓄えてても天候なんかで全部なくなっちまう」
おれは普段であれば絶対に言わないようなことを話した。領主に対する批判じみた言葉は、たとえそれが冗談であっても禁じられていたからだ。じいさんがどうでもいい相手だと思ったからだろう。
「わしはなあ。さまざまな場所を転々として、ようやくこの村に落ち着いたところだった。それが全部流されてしもうた。あんたらにとっては普通のことだろうが、農業は初めてでな」
「どおりで見たことのない顔だと思った」
「こんななりだが、昔は王都にも住んでおったよ」
「そりゃまたえらく落ちたもんだな。王都ってあれだろ? おれはここから近い街しか見たことはねえが、とんでもなく栄えてんだろ? だったらこの村と比べ物にならねえくらい良い生活だったんじゃねえか」
「そうでもない。やることがあるってのは良いものだ。農業というのは素晴らしい。作物を育てるためには体を動かさなければならんからな。どうでもいいことを考える暇がなくなる。しかし、さすがにすべてが無になるのはこたえるもんだなあ」
じいさんは遠くを見ながらため息をついた。
「まあな。ここでの作物づくりは、雨で全部駄目になんのさ。それがなけりゃ作物もまともに育つ場所ではあるんだろうけどよ。一度でそんなに落ち込んでちゃ、この先やってけねえぜ」
するとじいさんは、おれの方を見た。
「あんたはどうしてほかの者のように働かんのだ?」
「おれか? なんでだろうなあ。じいさんとは違って、何度目かもわかんないほど雨にやられてるからな。今度ばかりはいやになったってわけさ。でも、おれの兄弟なんて、その辺何にも考えてねえんだよな。また一からやればいいってな。おれは昔からあいつらと違うのさ。皆のようにすぐに切り替えることができねえんだよ」
「ほほう、たしかに、あんたは口が達者だ。もしかすると、ほかの兄弟よりも頭がよく回るのかもしれんな」
「褒めんなよ。ここじゃ頭なんざあったって意味なんかねえんだからさ。運よく認められりゃ、領主のところで働くくらいはできただろうけどよ。そのくらいさ」
「ふむ……」
そこでじいさんは考え込むように黙った。おれは褒められたことに気をよくして、もう少し話してやってもいいような気がしていた。
「なあ、じいさん。さっき王都に居たとか言ってたが、どうしてまたこんな村に流れ着いたんだ?」
「気になるか? わしは以前、魔術師をやっておってな。王都の魔術学院で働いておった」
「魔術? 学院?」
「そうさな。この村に来るような魔術師はおらんから存在すらも知らんか。ようは、手から火を出したり、水を操ったりできるのが魔術だ。信じられんだろう?」
「ああ、そんな力がありゃ、誰も働かなくてすむじゃねえか」
「あんたの言うことは正しい。しかし、魔術をこの世の救いとするには、技術も、人の器も足りてはおらん。とにかくそういう力があると思ってくれたらいい。知ったところで役に立つものではない。魔物を倒すほかは特にうまく利用できていると言えんからな」
「なるほどねえ。まあ、そういうことにしといてやるよ」
「分からんものを一旦置いておくことは重要だな。あんたは良い生徒になりそうだ。学院ってのは魔術を教えるところだな。わしは教師、人に魔術を教える仕事をやっておった」
「先生か、それならわかる」
「ならば話は早い。わしは教師としても生徒から評判がよく、自分で言うのもなんだが、慕われておった」
おれはじいさんを改めて見る。とても先生と呼べる人間には見えないし、まして慕われるような姿ではなかった。村の教会にやってくる先生だって、もっとましな見た目をしていた。
「そうは見えんという顔をしておるな。ま、今となっては昔の栄光よ。本題はそこではない。わしは教師として充実日々を送り、このまま卒業する生徒を見送りながら人生を終えると思って居った。だが、ある時、魔術とは別の力が体に宿っているのを感じた」
「へえ? 別の力?」
「人の才、人それぞれが持つ力を呼び覚ます力よ。わしははじめ、自分に教える力があると思って居った。だが次第に、それがわしの特別な力によるものと気づいた。まったく才のなかった貴族の息子が、教えてもいない魔術を急に使えるようになり、それからいくつかの経験を経て自覚した」
「すげえじゃねえか」
「ああ、すごい力だ。だがわしの力は浪費された。噂を聞いた貴族がわしのところに押し寄せて、魔術を学ぶ気もない、学院の資格だけが欲しい馬鹿息子どもを押し付けた。わしは馬鹿の相手で眠る暇もなかった」
そこでじいさんは顔を伏せた。
「わしも教師の端くれ、学ぶ気概のある生徒に教えたいという欲があった。それが、わしの前に居るのは教養もない、傲慢なバカどもばかりだった。それに、わしの力にも限界があった」
「限界ねえ?」
「才を開くにも、元となる才がなければならん。才がなくとも、本人の努力と、わしの教えがあれば、魔術は使えるようになる。だが、学院を卒業したという証明書だけを欲しがって集まった馬鹿どものなかに、全く身につかん者も現れる。そしてわしは、一部の貴族から嫌がらせを受けるようになった。どうしてうちの息子だけ魔術が使えんのかとな。知るか」
「自分でやろうともしねえで、もらうことばっかりってことか」
「ああ。わしはそんな生活を続けて、すべてが嫌になった。そして、何も言わずに王都を抜け出した。二度とあそこに戻る気はない」
「なるほどねえ。王都ってのもろくな場所じゃなさそうだな。ここよりは良いんだろうけどな」
「ここで会ったのも何かの縁だ。一つ、あんたの力を見てやろうか?」
「ん? 魔術とかが使えるようになんの?」
「わしの力は魔術に限らん。だからこそ、貴族からの攻撃を受けた。それは足が速くなるのかもしれんし、物覚えが良くなるだけかもしれん。別の村に居た時は、鍛冶屋の息子に金属の状態がわかる力が備わり、大変感謝されたこともある。それは人によって違う。時には自分のやりたいことと違い才が発現することもある」
「ふうん。面白そうじゃねえか。やってみてくれよ」
じいさんは立ち上がり、おれに近づいた。座って縮こまっていたじいさんは、立ち上がってみると、やけに威厳があり、さっきの話が本当かもしれないと思った。
「自分の望まぬ力が発現しても恨むなよ」
じいさんは、おれの頭に手をかざし、目を閉じた。
「もらえるもんならもらっといた方が良いだろ。損することもねえしな」
「あんたはわかっとらん。力を得ることはそれだけ可能性が生まれる。やらなくてもいいことを、出来るからという理由でやるようになり、それが苦しみの原因ともなりえる。そう、わしのようにな。本当にいいか?」
「そういうもんかね。ま、頼むよ。今のおれには失うもんもねえしな」
「願わくば、わしの力がお前の人生を変え、より良くなることを願っておるよ」
なにかが、おれの体に伝わってくる。
爺さんは目を閉じたまま動かない。
しかし、確かに何かの力がおれの体の中に流れ込んでくるのを感じた。
それはほんの一瞬のことだった。じいさんは目を開き、
「これで以上だ」
おれは自分の体を見下ろしてみたり、手を開いたり閉じたりしてみる。
「なんも変わってないようだけどな」
「そりゃあそうだろう。だが、間違いなく、わしの力がお前の才を開いた。どのような才かは、自分で見つけることだな」
「わかったよ。しかしあれだな。何が出てくるのかわかんねえと面倒なもんだな。力がついて鍬使うのが楽になるとかなら良いけどよ。泳げるようになっても役に立たねえだろ……なあ?」
そう良いながら顔を上げると、
「ん? じいさん?」
じいさんの姿は、すでにそこにはなかった。
おいおい、まさか、夢だとか幻だったとかいうんじゃないだろうな。そう思いながら周りを見渡してみても荒れた畑があるだけで、じいさんの姿はなかった。
「まあいっか」
幻だったとしても、本物だとしても、良い暇つぶしにはなった。まだおれは自分の家に戻る気もなく、もうしばらく歩き回ってみることにした。
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