謎の男

 ――その時、ぼくの目の前に、小さな四角い紙が現れた。


 そこには、


 世界補修人 相良修司


 と書かれている。


 知らない言語で書かれているにもかかわらず、ぼくはなぜか、その文字を読むことができた。


 ぼくの記憶が蘇る。幼い頃、はじめて魔法を使ったときに現れた奇妙な格好の男。彼は目の前の四角い紙を渡した後、ぼくの記憶を消した。


 それがなぜ、今ここに?


 紙が強い光を放ち、ぼくはまぶしくて目を閉じる。


 再び目を開けた時には、紙が消えていた。


 無は変わらず周囲を吸い込んでいる。


 ……と、無に近づく人影が見えた。


 荒れ狂う風など気にも留めないように、ゆっくりとした足取りで近づいていく。着ている服も髪も一切乱れていないその姿は、この場所に居ながらいないような、一種の異様な雰囲気をまとっていた。


 その姿は、すでに人の身長を優に超えた巨大な無を見上げた。


 ぼくは木にしがみついているのがやっとで、その姿を見ていることしかできなかった。


 とにかく不思議な格好だった。上下ともに黒く、冒険者とも、行商人とも違う。貴族が持っていそうなシャツを着て、首から布が垂れている。上着を着ているが、見たこともない様式のものだった。


 男は何もない空中に手をかざす、するとそこに透明な板のようなものが現れる。彼はそこに指を走らせ、時折いじって眺める。これらをやっている間にも風は吹き荒れて、ぼくは木から引きはがされそうになっていた。


 突然風がやみ、無が消えた。


 男は手を透明の板にかざすと、板は消えた。


 ぼくは体の力が抜け、地面にへたり込んだ。


 あと少し風が止まらなかったらぼくは無に吸い込まれていただろう。


 男がこちらに歩いてくる。


「やあ、久しぶり、覚えているかい?」


「えっと……」


 ぼくはこの状況を理解できないでいる。ぼくは確かに無を生み出した。無はすべてを飲み込み、ぼくですら制御できないものとなっていた。それをこの男は、どうやったか知らないが、軽々しく止めてしまった。


 すべてが理解を超えていた。


「自分でもわかっているんだろう? 君は世界の理を超えた力を使ってしまったんだ。あのまま放っておいたら周囲を無が飲み込み、そのまま、この一帯が消えてしまっていた。状況からみて使いたくて使ったわけでもないんだろうけど、やってしまった後のことも考えてほしいもんだね」


「すみません……」


 反射的に謝ってしまう。しかし、この人はいったい何者なんだろうか。


「ダメだってわかってるならいいけどさ。とりあえず止めたけど、もうやらないでくれよ。やるとしても、止め方を理解したうえでやってほしい。でも、学ぶ機会なんてないか。一度でも本気で使ったらああなるし」


「はあ……」


 ぼくの頭は疑問でいっぱいになっていた。全く理解が追い付いていない。ぼくがぽかんと口を開けたままにしていると、


「正直危なかったよ。君の力は把握していたけど、まさかこれほどのものとはね。火事場の馬鹿力ってやつかなあ。あ、これ伝わってる? 慣用句だから無理か」


「えっと……」


 ぼくは何かを言いかけようとした。何を聞くべきかもわからなかったけれど、とにかく何かを言わなければらないと思った。


「今回はなんとか間に合ったけれど、できるだけ力の使用は控えてもらいたいな。何度も呼び出されたらたまったもんじゃない」


 ぼくの言葉は遮られ、


「わかりました」


 とつい素直に答えてしまう。


「じゃ、そういうことで、今度は記憶は消さないよ。起こった事象とか、ぼくが言ったことを覚えておいて欲しいからね。使えないように制限することもできるけど、あまりやりたくないんでね」


 去ろうとする男の後ろ姿にぼくは、


「あなたは、いったい何者なんですか?」


 と呼びかけた。すると男は、顔だけをこちらに向けて、


「ぼくかい? 名刺に書いてある通りさ。補修人だよ。この世界のね」


 まったく意味が分からない。


「あ、そうだ」


 男は、そう言って、ぼくに聞き取れない言葉でなにかをつぶやく。すると、体に力が湧いてきた。


 これは……?


「体力も魔力も戻したから、普段通り動けるはずだよ。こうしておかないと、またあの力を使ってしまうだろう? それだけはやめてほしくてさ」


 腕を動かしたり、足を曲げたりしてみる。見事に元通りだ。やってみなければわからないが、魔術も通常通り使えそうだ。ここまで理解を超えることが起こると、もはや笑うしかない。


「ははっ、なんなんだ……?」


「じゃあ、今度こそ行くね」


 ぼくは男の言葉にはっとして顔を上げる。


「あの! ありがとうございます!」


 立ち上がって、男の後ろ姿に礼を言った。


 男は片手を振って、歩いて木々の影に消えていった。


 それから、ぼくは再び茫然としていた。


 いったい何が起こったのだろう……


「そうだ!」


 地面のえぐれた空間に取り残されたぼくは、ようやく生きている実感を取り戻す。


 ぼくは走りだした。


 なにかとてつもないことが起こり、そして解決してしまったようだけれど、考えるのは後回しだ。


 とにかくぼくは生きている。体力も魔力も十分で、これなら生き残りのゴブリンが出てきてもある程度対処できるはずだ。


 レマルとヒルダ、二人を助け、また一緒に仕事をする。


 今考えるべきは、そのことだけだった。

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