第4章:真実の瞬間

 秋の深まりを感じさせる週末、紅葉は実家に帰っていた。普段は着ないスーツを身にまとい、胸元にはいつもの真珠のペンダントが揺れている。髪は普段よりも丁寧に整え、薄めの化粧を施していた。その姿は、決意と不安が入り混じった紅葉の心情を表しているようだった。


 秋の柔らかな日差しが差し込むリビング。紅葉は両親の前のソファに腰かけ、背筋を伸ばした。スーツのジャケットの下で、心臓が激しく鼓動している。両手を膝の上で固く握りしめ、深呼吸を繰り返す。


 父親は新聞を置き、眼鏡越しに紅葉を見つめる。母親は紅葉の表情の変化に気づき、不安そうな目で夫を見た。


「お父さん、お母さん。僕には話さなきゃいけないことがあるんです」


 紅葉の声は震えていたが、その瞳には強い決意の色が宿っていた。両親は驚きの表情を浮かべつつも、静かに紅葉の言葉に耳を傾けた。


 一瞬の沈黙。紅葉は深く息を吸い込み、言葉を紡ぎ出した。


「僕は……男として生きていきたいんです」


 その瞬間、紅葉の世界で時が止まったかのように感じた。長年押し込めてきた思いが、堰を切ったように溢れ出す。紅葉の心臓は激しく鼓動し、手は震え、喉は乾いていた。しかし、もう後戻りはできない。


「小さい頃から、自分の体に違和感があって……でも、みんなが当たり前のように女の子として扱うから、自分の方がおかしいんだと思って……」


 言葉を紡ぎ出すたび、紅葉の中で様々な感情が渦巻いていた。恐怖、解放感、罪悪感、希望、そして何より、ようやく本当の自分を表現できるという深い安堵感。


「幼稚園の頃、男の子たちと遊ぶのが楽しくて。でも、先生に『女の子らしくしなさい』って言われて……そのとき、初めて自分が『違う』んだって感じたんです」


 紅葉の声は震え、時折途切れる。しかし、瞳には強い決意の光が宿っていた。


「中学校に入ると、制服がスカートで……毎日着るのが苦痛で。ズボンをはきたくて仕方なかった。でも、そんなこと言えなくて……」


 思い出すたびに、当時の苦しみが蘇る。紅葉の目に涙が浮かぶ。


「思春期になって、体が変化し始めたとき、本当に怖かった。胸が大きくなり始めて、生理が来て……自分の体が自分のものじゃないみたいで」


 紅葉は自分の体を抱きしめるように腕を組む。その仕草には、自分の体への複雑な思いが表れていた。


「友達が男の子の話で盛り上がってるとき、僕も男の子が好きだって気づいて。でも、それは女の子として好きなんじゃなくて、男として好きなんだって……そう気づいたとき、もっと自分がわからなくなって……」


 紅葉の声に、苦悩と混乱が滲む。同時に、ようやく自分の気持ちを言葉にできた安堵感も感じられた。


「小学校の時、達樹と出会って……初めて誰かを好きになった。でも、この気持ちを伝えられなくて。僕が本当は男だって、どう伝えればいいのか分からなくて……」


 達樹の名前を口にした瞬間、紅葉の表情が柔らかくなる。しかし同時に、苦しみも深まる。


「もう、偽りの自分で生きていくのが辛くて……本当の自分として生きたい。男として、男の紅葉として生きていきたいんだ……!」


 最後の言葉を発した瞬間、紅葉の体から力が抜けた。全てを吐き出し、心が軽くなったような、しかし同時に不安も募るような複雑な感情が紅葉を包み込む。


 紅葉は両親の反応を待ちながら、自分の人生が大きく変わる瞬間を静かに受け止めていた。希望と不安、解放感と恐れ、そして何より、ようやく本当の自分を受け入れてもらえるかもしれないという期待が、紅葉の心を満たしていた。


 母親の目に涙が浮かぶ。その瞳には驚きと戸惑い、そして深い愛情が混ざっていた。父親は厳しい表情を崩さない。しかし、その目は紅葉をじっと見つめ、深い愛情を隠し切れていなかった。


 紅葉の告白が終わると、重い沈黙が部屋を支配した。秒針の音だけが、静寂を刻む。紅葉は固唾を呑んで両親の反応を待った。手のひらに汗が滲み、心臓の鼓動が耳に響く。


 やがて、母親がゆっくりと口を開いた。その声は、優しさに満ちていた。


「私たちにとって、あなたはかけがえのない子供よ。男の子でも女の子でもない、あなたはあなたなの」


 その言葉に、紅葉の目から大粒の涙が零れ落ちた。長年抑えていた感情の堰が、一気に崩れる。


 父親も静かに、しかし力強く語りかける。その声には、揺るぎない愛情が込められていた。


「お前の幸せが一番大事だ。自分らしく生きることを恐れるな」


 その言葉を聞いた瞬間、紅葉は両親の腕の中に飛び込んだ。三人で固く抱き合い、言葉にならない想いを分かち合う。紅葉の肩は震え、両親の目にも涙が光っていた。


 部屋を包む温かな空気の中で、新たな家族の絆が生まれていた。そして紅葉の心に、これからの人生を歩む勇気が芽生えていった。


 その夜、紅葉は自室で深く考え込んでいた。家族の支えを得て、新たな決意が芽生えていた。


(もう、逃げるわけにはいかない)


 紅葉は机に向かい、ペンを手に取った。達樹への手紙を書き始める。


「達樹へ

 君に出会えて本当に良かった。だからこそ、本当の自分を見せたい……」


 言葉を選びながら、紅葉は丁寧に文字を綴っていく。時折、涙で滲む文字を、紅葉は優しく指でなぞった。


 手紙を書き終え、紅葉は鏡の前に立った。そこには、今までの自分とは少し違う表情の紅葉が映っていた。


「僕は男なんだ。でも、男として君のことが好きなんだ」


 その言葉を、紅葉は何度も繰り返した。最初は小さな声だったが、次第に力強さを増していく。


 窓の外では、木々が風に揺れていた。その姿は、まるで紅葉の新たな決意を後押ししているかのようだった。


 紅葉は深呼吸をし、もう一度鏡に向かって言った。


「僕は、本当の自分で生きていく」


 その言葉には、不安と希望が混ざり合っていた。しかし、紅葉の瞳には、今までにない強い光が宿っていた。


 新しい朝が訪れ、紅葉は実家を後にした。胸には両親からの言葉が、そして心には達樹への想いが詰まっていた。


 帰りの電車の中で、紅葉は窓の外を眺めながらつぶやいた。


「これが、僕の人生の新しい始まりなんだ」


 その言葉と共に、紅葉の心に小さな、しかし確かな希望の光が灯った。

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