第3章:希望の光

 夏の終わりを告げる夕暮れ時、サークルの打ち上げが行われていた居酒屋。紅葉は、少し離れた席で静かに飲み物を口にしていた。薄いピンクのブラウスに白のスカート、首元には小さな真珠のペンダントが揺れている。しかし、その繊細な装いとは裏腹に、紅葉の心は重く沈んでいた。


 周りでは賑やかな会話が飛び交い、笑い声が響く。その中で、紅葉はまるで異質な存在のように感じていた。達樹の姿を探す目は、どこか切なげだった。


 そんな紅葉に、先輩の雫が近づいてきた。雫は中性的な雰囲気を持つ人物で、いつもさりげなくアクセサリーを身につけている。今日は小さな虹色のピンバッジが胸元に輝いていた。


「もみじちゃん、何か悩んでない?」


 雫の優しい声に、紅葉は少し驚いて顔を上げた。


「え? あ、いえ……大丈夫です」


 言葉とは裏腹に、紅葉の表情には深い悩みの色が浮かんでいた。雫はそんな紅葉の隣に腰を下ろし、静かに語りかける。


「無理しなくていいんだよ。私にはなんとなく分かるんだ。君が何かを抱えているって」


 紅葉は戸惑いの表情を浮かべながらも、少しずつ心を開き始める。雫の優しい眼差しに、何か特別なものを感じたからだ。


「実は……私、自分のことが分からなくて」


 紅葉の声は震えていた。自分の気持ちを誰かに打ち明けるのは、これが初めてだった。


 居酒屋の喧騒が遠のいて聞こえる片隅で、雫と紅葉の時間だけが静かに流れていた。雫の手が、そっと紅葉の手を包み込む。その温もりに、紅葉は小さく震えた。


「私もね、自分の性別のことで悩んだ時期があったの」


 雫の声は柔らかく、しかし力強かった。その言葉に、紅葉の目が大きく見開かれる。心臓が早鐘を打ち始め、息が詰まりそうになる。


(まさか……先輩が……)


 紅葉の中で、様々な感情が渦を巻いた。驚き、戸惑い、そして何より、深い安堵感。自分と同じ悩みを持つ人が、こんなにも近くにいたという事実に、紅葉は言葉を失った。


 雫は紅葉の反応を優しく見守りながら、静かに続けた。


「自分らしさって何だろうって。でも、気づいたの。性別は自分を表現する一つの方法に過ぎないって」


 その言葉が、紅葉の心に深く刻まれていく。雫の瞳には、過去の苦悩と、それを乗り越えてきた強さが宿っていた。紅葉は、その眼差しに引き込まれるように見入った。


 雫の胸元で、虹色のピンバッジが小さく光る。それは今、紅葉にとって希望の光のように感じられた。


「どういう……意味ですか?」


 紅葉の声は震えていたが、その目には必死に理解しようとする意志が燃えていた。


 雫は優しく微笑み、紅葉の手をさらに強く握った。


「つまりね、私たちは誰かに決められた枠の中で生きる必要はないってこと。男性でも女性でもない、その中間でも、それ以外でも、自分が心地よいと感じる自分でいいんだよ」


 紅葉の目に、ゆっくりと涙が溢れ始める。長年抱え続けてきた重荷が、少しずつ軽くなっていくのを感じた。


「でも、世の中は……」


 紅葉の言葉を、雫は優しく遮った。


「そう、世の中は簡単には変わらない。でも、私たち一人一人が自分らしく生きることで、少しずつ変えていけるんだ。それに、あなたの周りには、きっとあなたを受け入れてくれる人がいるはずだよ」


 その言葉に、紅葉は達樹の顔を思い浮かべた。不安と期待が入り混じる複雑な感情が胸を締め付ける。


「怖くないですか? 先輩は」


 雫は少し考え込むように目を伏せ、そしてまっすぐ紅葉を見つめ返した。


「怖いよ。今でも時々怖くなる。でも、自分らしく生きる喜びの方が、その恐れよりずっと大きいんだ」


 紅葉は深く息を吐いた。まだ全てが解決したわけではない。しかし、暗闇の中に一筋の光が差し込んだような感覚があった。


「ありがとうございます、先輩」


 紅葉の声に、小さな、しかし確かな希望の色が混じっていた。雫はそんな紅葉の変化を感じ取り、優しく微笑んだ。


 紅葉の目に、ゆっくりと涙が溢れ始めた。長い間押し殺してきた感情が、一気に溢れ出す。


「先輩、僕は……」


 言葉につまる紅葉に、雫が優しく言う。


「大丈夫。あなたはあなたのままでいいんだよ」


 その言葉は、紅葉の心に深く染み込んでいった。今まで誰からも聞いたことのない、温かな言葉。紅葉は、自分の中で何かが大きく動き始めるのを感じた。


 一方、少し離れた場所で、達樹は紅葉と雫の様子を見ていた。紅葉の表情が、普段見せない柔らかさを帯びているのに気づく。


(もみじ、何か変わったな……)


 居酒屋の喧騒の中、達樹は紅葉と雫の会話を遠目に見守っていた。紅葉の表情が、普段見せない柔らかさを帯びているのに気づく。その変化に、達樹の胸の内に何か複雑な感情が湧き上がる。


(もみじ、何かあったのか?)


 達樹は、紅葉と雫の会話が一段落したのを見計らって、ゆっくりと二人に近づいた。彼の歩み寄る足取りには、少しばかりの躊躇いが見られた。


「もみじ」


 達樹の声に、紅葉はハッとしたように顔を上げる。その瞳には、まだ涙の跡が残っていた。


「達樹……」


 紅葉の声は、か細く震えていた。達樹は紅葉の隣に腰を下ろし、優しく肩に手を置いた。


「もみじ、何か俺に言いたいことがあるんじゃないか?」


 達樹の声には、心配と優しさが混ざっていた。紅葉の様子がいつもと違うことを感じ取り、何かあったのではないかと察していた。


 紅葉は達樹の目をまっすぐ見つめる。その瞳には、何か言いたいことがあるという思いと、まだ言えないという葛藤が交錯していた。紅葉の唇が小さく震え、何かを言おうとして、また閉じる。


「私は……」


 言葉が喉まで出かかるが、そこで止まってしまう。紅葉の中で、雫との会話で芽生えた新しい感情と、達樹への想い、そして長年抱えてきた秘密が激しくぶつかり合っていた。


 達樹は紅葉の葛藤を感じ取り、焦らせないように優しく微笑んだ。


「無理しなくていいんだ。話したい時に話してくれればいい」


 その言葉に、紅葉は小さくうなずいた。達樹の優しさが、紅葉の心を温かく包み込む。しかし同時に、その優しさゆえに真実を告げられない苦しさも感じていた。


 達樹は紅葉の表情を見つめながら、何かが変わり始めていることを感じていた。しかし、その変化が何なのか、まだ掴めずにいた。


「俺はいつもそばにいるから。いつでも話を聞くよ」


 達樹の言葉に、紅葉は小さく頷いた。その瞬間、紅葉の目に再び涙が光る。達樹はそっと紅葉の頭を撫でた。


 二人の周りで、サークルの仲間たちの賑やかな声が響いている。しかし、紅葉と達樹の間には、言葉にならない何かが流れていた。紅葉の中で芽生えた新しい気づきと、それを伝えられない歯がゆさ。達樹の中の、何かが変わり始めているという予感と、それが何なのか分からない不安。


 打ち上げが終わり、紅葉は一人で帰路につく。夜風が頬をなでる。紅葉は空を見上げ、深呼吸をした。


(私は私のままでいい……か)


 その言葉が、紅葉の心に新たな光を灯し始めていた。まだ小さな、しかし確かな希望の光を。


 家に帰った紅葉は、鏡の前に立つ。そこに映る自分の姿を、今までとは少し違う目で見つめる。


「僕は……私は……」


 言葉を探しながら、紅葉は自分自身と向き合い始めていた。長い夜が、紅葉の新たな一歩を静かに見守っていた。

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