第2章:仮面の下の葛藤

 春の柔らかな日差しが教室に差し込む午後。紅葉は窓際の席で、ぼんやりと外の景色を眺めていた。淡いピンク色のカーディガンを羽織り、胸元にはさりげなく小さなパールのペンダントが揺れている。しかし、その繊細な装いとは裏腹に、紅葉の心は激しく揺れ動いていた。


 講義の内容は耳に入らず、紅葉の頭の中は混沌としていた。


(みんなは自分の性別を疑うことなく生きているのかな)


 周りの学生たちを見渡す。女子学生たちは楽しそうにおしゃべりをし、男子学生たちは真剣に講義を聞いている。その光景が、紅葉にはどこか遠い世界のように感じられた。


(どうして僕だけが、こんなに苦しまなきゃいけないんだろう)


 紅葉は無意識のうちに、胸元のペンダントを強く握りしめていた。


 講義が終わり、紅葉はサークル活動へと向かう。いつもなら楽しみにしている時間なのに、今日は重い足取りだった。サークルルームに入ると、そこには既に達樹の姿があった。


「よう、もみじ!」


 達樹の明るい声に、紅葉は微笑みを返す。しかし、その笑顔は少し引きつっているように見えた。


「あ、うん。こんにちは、達樹」


 紅葉は普段通りに振る舞おうとするが、どこか不自然さが残る。達樹との距離感に戸惑い、話しかけるタイミングを逃してしまう。


(普通に接しようとしているのに、どうしてこんなにぎこちないんだろう)


 紅葉の心の中で、自問自答が続く。達樹への想いと、自分の本当の姿を隠している罪悪感が交錯する。


 サークル活動が終わり、紅葉はアルバイト先のカフェへと向かう。制服に着替える時、いつも感じる違和感が今日は特に強かった。フリルの付いたエプロンを身につけながら、紅葉は鏡に映る自分をじっと見つめた。


(外見は女の子。でも、心は男の子。この矛盾する自分を、誰が受け入れてくれるの?)


 接客中も、その思いは紅葉の心から離れなかった。笑顔で「いらっしゃいませ」と言いながらも、内心では自分の本当の姿を隠していることへの葛藤が渦巻いていた。


 仕事を終え、紅葉は夜の街を歩いていた。ふと立ち止まり、ショーウィンドウに映る自分の姿を見つめる。長い黒髪、柔らかな輪郭、そして女性らしい体つき。それは紅葉にとって、まるで仮面のようだった。


 家に帰り、紅葉は古いアルバムを開く。そこには、幼い頃の自分の写真が並んでいた。短い髪で、Tシャツとズボンを着た笑顔の少年。紅葉はその写真を指でなぞりながら、懐かしさと切なさが入り混じった複雑な表情を浮かべる。


(あの頃は、こんなに自由だったのに)


 紅葉の指が、アルバムのページをゆっくりとめくる。そこに現れたのは、中学生時代の自分の写真だった。13歳の誕生日の記念写真。紅葉は息を呑み、その写真をじっと見つめた。


 写真の中の紅葉は、どこか居心地の悪そうな表情を浮かべている。肩まで伸びた黒髪、少しずつ丸みを帯びてきた顔立ち、そして僅かに膨らみ始めた胸。制服のスカートを着た姿は、一見すれば普通の女子中学生そのものだ。しかし、その目には何か言いようのない戸惑いの色が宿っていた。


(この頃から、全てが変わり始めたんだ)


 紅葉は写真に映る自分の姿を、まるで他人を見るかのように観察する。女性らしい体つきが少しずつ現れ始めているのが分かる。しかし、その表情には笑顔がない。代わりに、何かに縛られているような、窮屈そうな雰囲気が漂っている。


 次のページには、体育祭の集合写真があった。クラスメイトたちが楽しそうに肩を組み合っている中で、紅葉だけが少し距離を置いて立っている。ブルマを着た下半身を、紅葉は無意識のうちに手で隠そうとしているようだった。


(あの時、みんなが喜んでいた体の変化が、僕には苦しみでしかなかった)


 紅葉は目を閉じ、あの日の記憶を鮮明に思い出した。中学2年生の夏、突然訪れた変化の始まりだった。


 朝、目覚めた時の違和感。下腹部の鈍い痛みと、パジャマに付いた小さな赤い染み。紅葉は混乱し、パニックに陥った。頭では分かっていた。これが来ることは。でも、心の準備はできていなかった。


(なんで……なんで僕に……)


 震える手で母を呼び、状況を説明する。母は喜びの表情を浮かべながら、紅葉にナプキンの使い方を教えた。しかし、紅葉の頭の中は真っ白だった。


「おめでとう、もみじ。女の子として一歩成長したのね」


 母の言葉が、まるで呪いのように耳に響く。


 学校では、友達に気づかれないようにそっとトイレに行く。ナプキンを交換する度に、自分の体が自分のものではないような感覚に襲われた。


 数週間後、今度は胸の変化が始まった。体操着に着替える時、周りの女子たちの視線を感じる。


「へぇ、もみじちゃん、急に大きくなったね」


 クラスメイトの何気ない一言が、紅葉の心を深く傷つける。鏡に映る自分の姿が、日に日に見知らぬものになっていく。


 体育の授業が特に辛かった。走るたびに揺れる胸、ぴったりとしたブルマが強調する体のライン。男子たちの視線が、紅葉を追いかける。


(やめて……僕を、そんな目で見ないで……)


 心の中でそう叫びながらも、紅葉は平静を装うしかなかった。


 放課後、部活動の更衣室。周りの女子たちが楽しそうに おしゃべりをしながら着替えていく中、紅葉はできるだけ隅の方で、素早く制服に着替えた。自分の変化していく体を、誰にも見られたくなかった。


 家に帰り、鏡の前に立つ。少しずつ丸みを帯びていく体つき、伸びていく髪。外見は確実に「女の子」になっていっているのに、心はそれについていけない。


(これが、本当の僕なの?)


 その問いに、答えを見つけることができない。紅葉は静かに涙を流した。誰にも言えない、誰にも分かってもらえない。そんな孤独感が、紅葉を包み込んでいった。


 夜、布団の中で紅葉は小さく呟いた。


「誰か……僕を助けて」


 しかし、その声は誰にも届かなかった。月明かりだけが、静かに紅葉の苦しみを見守っていた。


(体は女の子になっていくのに、心は男のまま。この気持ち、誰にも言えなかった)


 その思いは、紅葉の胸に重く圧し掛かる。当時の孤独感、誰にも理解してもらえないという絶望感が、鮮明によみがえってくる。


 紅葉は再び目を開け、写真を見つめ直す。そこには、無理に笑顔を作ろうとしている自分の姿があった。文化祭の写真だ。女子らしい衣装を着て、化粧までしている。しかし、その笑顔の裏に隠された本当の気持ちを、今の紅葉には痛いほど感じ取ることができた。


(誰かに気づいてほしかった。でも、同時に誰にも気づかれたくなかった)


 紅葉はそっとアルバムを閉じた。写真の中の自分が、まるで「助けて」と叫んでいるように感じられた。しかし、その声を聞いてくれる人は、当時誰もいなかった。


 紅葉は深いため息をつき、日記を取り出した。ペンを握る手が少し震えている。


『達樹。君に本当の自分を見せたら、僕たちはどうなってしまうんだろう……』


 その言葉を書きながら、紅葉の目に涙が溢れた。達樹への想い、自分の本当の姿、そして未来への不安。それらが全て、この一行の中に詰まっていた。


 紅葉はベッドに横たわり、天井を見つめる。月明かりが部屋に差し込み、静寂の中で紅葉の心の叫びだけが響いていた。


(このまま、偽りの自分で生きていくのか。それとも、本当の自分を受け入れてもらう勇気を持つべきなのか)


 答えの出ない問いに、紅葉は夜遅くまで悩み続けた。明日もまた、仮面をつけて生きていかなければならない。そう思うと、紅葉の胸は締め付けられるような痛みを感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る