君と僕の新しい愛の形

藍埜佑(あいのたすく)

第1章:心の中の本当の私

 図書館の閉館時刻を告げるチャイムが鳴り響く中、紅葉は最後の片付けに精を出していた。淡いピンク色のカーディガンを羽織った彼女の姿は、夕暮れの図書館に溶け込むように美しかった。長い黒髪を耳にかけながら本を整理する手つきは丁寧で、その仕草には何か男性的な凛々しさが垣間見えた。


 そんな紅葉に、達樹が近づいてきた。彼の胸元では、艶やかなネイビーのネクタイがゆるめられ、一日の疲れを物語っていた。


「もみじ、話があるんだ」


 達樹の声には、普段の明るさが影を潜めていた。


 紅葉は手にしていた本を棚に戻し、達樹の方へ向き直る。月明かりに照らされた二人の姿が、大きな窓ガラスに映り込んでいた。


 達樹は深呼吸をし、緊張した面持ちで口を開いた。


「俺、もみじのことが好きだ。付き合ってほしい」


 その言葉に、紅葉の胸が高鳴る。長年親友として過ごしてきた達樹からの告白に、喜びが込み上げてくる。しかし同時に、複雑な思いが押し寄せ、言葉が喉につまった。


「ごめん、今はすぐに答えられない」


 紅葉の声は震えていた。その瞳には、喜びと戸惑い、そして何か言い表せない感情が混ざり合っていた。


 達樹は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに優しい微笑みを浮かべた。


「わかった。君の気持ちを大切にしたいから、待つよ」


 その言葉に、紅葉は感謝と申し訳なさを覚えた。心の中では叫んでいた。


(好き。本当は僕だって好きなの。でも、この気持ち、このままで伝えていいの?)


 紅葉には秘密があった。


 紅葉は小さい頃から自分は男だと思って育ってきた。それに疑いを持ったことは一度もない。


 今、紅葉の胸の内では、男性としての自意識と、達樹への恋心が激しくぶつかり合っていた。心臓が早鐘を打ち、頭の中が混沌としていく。


 その思いは、紅葉の心の奥深くから湧き上がってくる。達樹の優しい笑顔、力強い背中、そして何より、いつも自分を理解してくれる温かな心。それらが全て、紅葉の中で輝いていた。


 しかし、同時に別の声が響く。


(でも、僕は男だ。この気持ちは、男として抱いているんだ。男として達樹のことが好きなんだ)


 紅葉の中の男性としての自意識が、強く主張する。幼い頃から感じていた違和感、女性の姿で生きることへの抵抗。それらが、恋心と同じくらい激しく胸の内で渦巻いていた。


(達樹は僕を女性として見ている。でも、それは本当の僕じゃない。そのままで達樹の告白を受け入れていいのか……)


 紅葉は、自分の手のひらをじっと見つめる。繊細で小さな手。しかし、その手の中に秘められた力強さを、紅葉は感じていた。


(この手で達樹を抱きしめたい。でも、それは許されるのだろうか)


 紅葉の脳裏に、二人で過ごした数え切れない思い出が走馬灯のように駆け巡る。小さい頃、一緒に遊んだ日々。小学校、中学校と、一緒に勉強した日々、スポーツに興じた時間、悩みを打ち明け合った夜。それら全てが、紅葉にとってかけがえのない宝物だった。


(あの時の僕は、本当の自分だった。でも今の姿は……)


 紅葉は自分の体を見下ろす。女性らしい曲線を描く体。それは紅葉にとって、時に重荷であり、時に仮面のようだった。


(このままじゃいけない。達樹に本当の自分を伝えなくちゃ)


 しかし、その決意と同時に恐れも湧き上がる。


(でも、本当の僕を知ったら、達樹は離れていってしまうんじゃないか)


 紅葉の心は、愛する人への思いと、自分らしく生きたいという願いの間で引き裂かれそうになる。それは、まるで嵐の中で揺れる小舟のようだった。


(どうすればいいんだ……どうすれば、達樹を失わずに、本当の自分でいられるんだ)


 答えの出ない問いに、紅葉は深くため息をつく。しかし、その瞳には決意の光が宿っていた。この葛藤を乗り越え、本当の自分と向き合う勇気。そして、達樹への想いを正直に伝える強さ。それらが、少しずつではあるが、紅葉の中で形を成し始めていた。


 二人は静かに図書館を出て、夜の街へと歩み出した。街灯の明かりが二人の長い影を作り出す。紅葉は自分の影の輪郭が、どこか男性的に見えるような気がして、複雑な思いを抱いた。


 別れ際、達樹が紅葉の肩に優しく手を置いた。


「焦らなくていいからな。ゆっくり考えて」


 紅葉は無言で頷いた。達樹の温もりが、紅葉の中の葛藤をさらに深めていく。


 二人はそれぞれの思いを胸に秘めたまま別れた。紅葉は自分のアパートに向かう途中、ふと立ち止まり、夜空を見上げた。


(達樹……私の本当の姿を、きみは受け入れてくれるのかな……)


 星空の下、紅葉の心には新たな決意が芽生え始めていた。


 紅葉は自室に戻ると、鏡の前に立ち尽くした。淡いピンクのカーディガンを脱ぎ、ゆったりとしたTシャツ姿になる。長い黒髪を後ろでまとめると、より中性的な印象に変わる。指先で自分の輪郭をなぞりながら、紅葉は深いため息をついた。


(外見は女の子なのに、心は男の子……なんで神様は僕をこんな風に創ったんだろう……この矛盾する自分を、達樹は本当に受け入れてくれるのだろうか)


 ドレッサーの引き出しを開け、中から一枚の古い写真を取り出す。そこには幼い頃の紅葉と達樹が写っていた。二人とも男の子の服装で、無邪気に笑っている。紅葉は写真を胸に抱きしめた。


(あの頃は、こんなに素直に笑えたのに……)


 ベッドに腰掛け、紅葉は日記を取り出した。ペンを握る手が少し震えている。


「達樹へ」と書いた後、紅葉は言葉を選びながら、ゆっくりと綴り始めた。


「達樹へ

 君の告白、本当に嬉しかった。でも、すぐに答えられなくてごめん。実は、君に話さなければいけないことがあるんだ。

 僕は……」


 ペンが止まる。「僕」という言葉を書いた瞬間、紅葉の目に涙が溢れた。


(こんな風に、本当の自分を表現できるのは日記の中だけ……)


 深夜まで、紅葉は言葉を探し続けた。月明かりに照らされた部屋の中で、紅葉は自分との戦いを続けていた。


 翌朝、紅葉は眠い目をこすりながら起き上がった。鏡に映る自分の顔には、決意の色が浮かんでいた。


(今日こそ、達樹に全てを話そう)


 しかし、その決意は朝のメイクアップの儀式の中で徐々に薄れていく。ファンデーションを塗り、マスカラをつける。そして最後に、ほんのりとしたピンク色のリップを唇に乗せる。本当の自分の姿で社会に出る勇気は、まだ紅葉にはなかった。過去にそれで辛い経験をしたこともある。


 女性らしい装いに身を包んだ紅葉は、再び鏡の中の自分と向き合った。


(今日も、偽りの自分を演じるんだ……)


 そう思いながらも、紅葉は重い足取りで大学へと向かった。新しい一日が始まろうとしていた。達樹との再会を、期待と不安が入り混じった複雑な思いで待ちながら。

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